あなたの側で

作:ばてぃ@鬼

いつものようにオーディションの控え室に俺はいた。
隣では俺の育てているアイドルの高槻やよいが、どこか落ち着かない様子で体を震わせている。

「やよい、落ち着け。緊張してると勝てるオーディションも勝てないよ?」
「うっうー、これは緊張じゃなくて武者震いですー」

やよいは無理にガッツポーズをしてみせた。
その首筋に光る汗は何なのかな?
余裕ぶっているように思えるだろうが、かくいう俺も緊張している。
やよいに見せないように隠したにぎり拳の中は汗でべとべとしている。
他の参加者達も同じように緊張しているのだろうか?
そう思い、ふと視線を移した先・・・控え室の中央に一人のアイドルがいた。
彼女はいたって落ち着いた様子で傍らのプロデューサーと何やら談笑している。
かつて俺がトップアイドルまで成長させ、
今も尚アイドル界の頂点に立ち続けている彼女の名は・・・

「それではエントリーナンバー1番、天海春香さん。オーディション会場へどうぞ」
「はい!」

春香は元気良く返事をし、
現在の担当プロデューサーと二言ほど言葉を交わすと控え室を後にした。
その姿を見送るとやよいは全身から吐き出すようにため息をついた。

「うぅー、あの天海春香さんも一緒だなんて・・・」
「確かに春香がこのオーディションに出てくるとは思わなかったなぁ・・・」

やよいは俺の言葉に敏感に反応してきた。

「プロデューサー、今『春香』って呼び捨てにしましたよね?」
「え?そうだっけ?」
「しましたですー。・・・もしかしてプロデューサーと春香さんってお知り合いなんですか?」
「うーん・・・何て言ったら良いのかな・・・」

難しい顔でちらっとやよいを横目で見ると、やよいは興味深げに見つめてくる。
そんな可愛い顔で見つめられると男の本能を無理やりくすぐられる。
いかんいかん、何考えてるんだ俺は。

「春香・・・と俺は元々一緒にトップアイドルを目指していたんだ」
「えぇっ!?そんなお話は初耳です〜」
「まぁ教えようとも思わなかったし、知ってもやよいの得にはならないと思ったからね」
「じゃあ、今春香さんがトップアイドルとして輝いているのはプロデューサーのおかげなんですね!」
「んー・・・。俺はあいつの輝けるステージを用意してやったにすぎないさ。
あいつはあいつなりに努力してきたからな」

そう、今春香はアイドル界のトップの座に君臨するほどの人気を誇っている。
彼女が出る歌番組は常に高視聴率を記録し、
人気が低迷していた紅白歌合戦の視聴率を持ち直させるほどだ。
彼女の存在を感じない日が無いほど今現在もテレビのレギュラー番組を数多く抱え、
雑誌に料理のコラムを掲載している。
トップアイドルという言葉は彼女のためにある。
そう言っても決して過言ではない。

「じゃあ予想以上に強敵ですね・・・。うぅ〜、私勝てるのかなぁ・・・?」

やよいはただでさえ小さな肩をさらに小さくさせて落ち込んだ。
しまった・・・オーディション前に変なこと言っちゃったかな。
俺はやよいの頭を軽く撫でた。

「大丈夫だよ。今回の合格枠は二枠だし、やよいだって十分力はあるんだから」
「本当ですか・・・?」
「本当だよ。俺がちゃんとサポートするからやよいは一生懸命歌って、踊って、笑ってくれれば良い。
 それに俺は春香を育て上げたプロデューサーだよ?
 しっかり俺についてくれば大丈夫だから。な?」

多少良い過ぎな感もあるがこのくらい言わないと励ましにはならないだろうからな。
案の定やよいは曇っていた表情からいつもの笑顔へと戻った。
どうやら効果てきめんだったらしい。
俺たちはハイタッチを交わし、いざオーディションへと挑んだ。 


やよいは無事にオーディションに合格した。
合格枠も二枠あったし、十分に実力を付けてきているやよいであれば至極当然の結果。
そしてもう一つの合格枠にはこちらも予想通り春香が納まった。
これも春香の実力であれば至極当然と思える。
やよいのTV撮影が終わるまで俺はスタジオへ続く廊下の長椅子に腰掛けていた。
テーブルの上に置いた飲みかけのコーヒーも大分冷めてきたようだ。

「お疲れ様でした!」

ふいにスタジオのドアが開いて元気な声が聞こえる。
顔を上げて見たその視線の先には春香がステージの衣装を着てスタジオから出てくるところだった。
そう、もう一枠には予想通り春香が合格していた。
その相変わらず輝くような笑顔に一瞬胸がドキッとした。
春香も俺に気づいたらしくその表情が一際明るくなった。
周りをきょろきょろと見渡し、誰もいないのを確認すると俺の隣にちょこんと座った。

「お久しぶりですね、プロデューサーさん♪」
「あぁ、久しぶり・・・とはいっても昨日電話したばかりじゃないか」
「あ、そういえばそうですね。でも顔を合わせたのは本当に久しぶりですよ?」

確かに顔を合わせたのは数ヶ月ぶりになるだろうか。
だが、最低でも一週間に一度は電話で話しメールは毎日のように交換している。
別に付き合っているわけではない。
お別れコンサートの後に春香は素直な気持ちを打ち明けてくれたが、
彼女の将来を考えるとその気持ちを受け入れることはできなかった。
だが、彼女の元専属プロデューサーとしてアドバイスや新曲の感想、
たわいのない話などできるだけ彼女の側にいてやることはできる。
そんな関係がもう何年も続いていた。

「これ、ちょっと飲んでも良いですか?」

春香は飲みかけのコーヒーを指差して言った。

「大分冷めちゃってるけど・・・それで良いならどうぞ」
「ありがとうございます。結構喉渇いちゃって」

彼女は両手で紙コップを持つとゆっくりとそれを飲み込んだ。
小さく音を立てて隆起するその喉を見ているとなんだか妙に色っぽい雰囲気を感じる。
春香はコーヒーを半分ほど飲み終わるとそれを再びテーブルの上に置いた。

「・・・うぅー、これお砂糖はあんまり入ってないんですねぇ」
「俺はそんなに砂糖入れないからな。苦かったか?」
「はい、ちょっとだけ」

春香は眉間にしわを寄せて、舌に残る苦味を消すかのようにちょろっと舌先を出した。
こういう何気ない仕草が春香の魅力なんだよな。
俺は思い出したように言った。

「そういえば、今度の新曲は中々良いんじゃないか?春香にバラードは似合わないと思ってたけど・・・」
「本当ですか?そう言ってもらえると嬉しいなぁ♪」

春香は本当に嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

「あの曲のレコーディングは結構すぐにOKが出たんですよ。えへへ、今までで一番早かったかも」
「上出来じゃないか」
「ありがとうございますっ!やっぱり歌詞の内容が
今の自分の気持ちにフィットしてたからかもしれませんね」

彼女の頬がほんのちょっと赤く染まった気がした。

「気持ちがフィットって?」
「あ・・・。それはやっぱり・・・片想いしてるから・・・かな?」 



そう言うと春香は恥ずかしそうに視線を逸らした。
片想い・・・って。
俺も自分の顔が熱くなっていくのがわかる。

「馬鹿、恥ずかしいこと言うなよ」
「だって素直な気持ちなんですもん。しょうがないじゃないですか」
「・・・他の人に言うなよ?」
「い、言いませんよ!」

まったくこいつは・・・本当に可愛いな。
顔を真っ赤にして目を丸くしている春香の顔は面白いんだけど、どこかいとおしい。
いつもメールか電話だけだったから、今、彼女の表情が手に取るようにわかるのが嬉しい。

「さて、そろそろやよいの出番も終わる頃かな?」

俺は腕時計を確認しながらつぶやいた。

「えっ?もうそんな時間ですか?・・・あんまり話せませんでしたね」

春香は寂しそうな表情で腕時計を覗き込んでくる。
ほんのちょっとだけ彼女のつけた香水の香りが漂ってくる。
甘くて、ほんのり大人っぽい。
以前はこんな香水は付けてなかったはずだけど。

「もうちょっとお話したかったなぁ・・・」
「俺もだよ」

ふいに顔を上げた春香と至近距離で目が合う。
その澄んだ瞳に見つめられると視線を逸らしたくても逸らせなくなる。
鼓動が一瞬大きく高まった後、その脈打つ速さは徐々に加速していく。

「顔・・・近いよ、春香?」
「・・・知ってます」

知ってるなら離れてください。
小さく聞こえる彼女の吐息が俺の本能にかけた鍵を開けてしまいそうになる。
だが、俺の理性は意外にも辛抱強いらしい。
春香の小さな鼻に人差し指を当ててこう言った。

「こういうのはちゃんと付き合っている人とするものだよ」
「あぅ・・・」

そう言われると彼女は少し困惑した表情で長椅子にきちんと座りなおした。

「ごめんなさい・・・」
「いや、謝るのはこっちだよ。・・・辛いよな、隣に好きな人がいるのに甘えられないんだから」

春香は顔を真っ赤に染めてこくこくと頷いた。

「プロデューサーさん、何気に恥ずかしいことをさらっと言っちゃうんですね」

彼女は感慨深そうに、膝の上で遊んでいる両手をじっと見つめて何かを考えているようにみえる。
俺は長椅子から立ち上がり、春香の頭を優しく撫でて言った。

「じゃあ俺は行くよ。また電話する」
「はい。私からも必ずまた電話しますからねっ!」

春香の笑顔に見送られて俺はその場を後にした。
廊下の角を曲がる時にちらっと横目で彼女を見る。
そこにあったはずの笑顔はいつのまにか消えて、寂しそうな横顔が脳裏に焼きついた。
声をかけるべきかどうか決めかねる前に、春香の姿は視界をさえぎる壁の向こうへと消えていった。



家に着いて、灯りを点けることもなく部屋のカーテンを開いた。
そして上着のポケットに入れておいた携帯を取り出すと月明かりを背にしてそれを開く。
薄暗い部屋の中にぼんやりと浮かび上がる待ち受け画面をじっと見つめる。
まだあの人に育ててもらっていた時にこっそり隠し撮りした写真、
それが今私の待ち受け画面になっている。
事務所の机に突っ伏して、よだれを垂らしながら気持ち良さそうに寝入っているその顔。
レッスンやオーディションじゃ眉間にしわ寄せて厳しい顔をしているのに、
こういうところは抜けてるんだから。
私は誰も見ていないのにプロデューサーさんの顔真似をしてみせた。
大好きで大好きで、本当に大好きなあの人。
今日改めて思った。
あの人の側にいたい。
ずっと、ずっと側にいたい。
・・・だから私決めたんですよ。
何度も交わした言葉、メール。
そしてあなたに会うたびに気持ちはどんどん膨らんでいって・・・。
そっと胸に押し当てた携帯のひんやりとした冷たさが伝わってくる。
見上げた月は青白く光を放っていた。 


それから三日後。
俺はいつものように事務所にてやよいにオファーのあった仕事をファイルに整理していた。
この前のオーディション合格の成果か、以前にも増して仕事の量は明らかに増えていた。

「今度褒めてやらなきゃな」

思わず口元が緩んでいた。
やよいは今日は久々のオフなので事務所にはいない。
きっと今頃家で弟達の面倒を必死になってみているんだろうな。
小さな家の中でやよいと、さらに小さくて元気いっぱいの弟妹が
どたばたとコメディを繰り広げているのを想像して思わず笑みがこぼれる。

「うぉっほん」

聞き慣れた咳払いに振り返る。
そこには社長がいつものように腕組みをして立っていた。
それにしてもいつも気配を消して近づくな・・・この人。

「おはようございます、社長。今日ものんびり出勤ですか?」
「うむ、おはよう。何、昨日ちょっと飲みすぎてね」
「体には気をつけてくださいよ。で、何か用でしょうか?」
「うむ。いよいよ彼女も身を引く時が来たんだな。アイドルを引退するらしい」

身を引く?
一体何のことなんだ?

「えっと・・・誰のことなんですか?」
「おや?君のことだから一番、ないしは二番目には先に知っていてもおかしくないはずなんだが」
「だから誰のことなんですか?」

まさか・・・。
俺の脳裏に嫌な予感がした。

「そんな、だって彼女はまだまだ先のあるアイドルですよ?!
まだデビューしてそんなに時間が経っていないのに!」

感情に任せて口調は激しくなる。
いきなり立ち上がった俺を見て社長は驚き、一歩後ずさりをした。

「ちょっと待ってくれたまえ」
「待ちません!・・・そんな・・・先日オーディションにも合格してやっとこれからだってのに」
「しかし彼女が言い出したことだからなぁ・・・」
「どうしてその申し出を社長は受けたんですか?やよいは何て言っていたんですか?!」
「・・・え?いや、やよい君は何も言っていないぞ?」
「・・・は?」

唖然とする俺の顔を見て社長は言葉を続けた。

「今朝のテレビを見ていないのかね?」
「えぇ、今朝は早く家を出たので・・・。あの・・・本当にやよいじゃないんですね?」
「もちろんだよ」

妙な安堵感と脱力感に包まれた俺は崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
同時に口から漏れる大きなため息。
なんだ・・・やよいじゃなかったのか・・・。
そうなると自然に沸いて来る疑問。

「じゃあ誰のことなんですか?」
「本当に知らないのかね?」
「はい」

社長は「ふぅ〜」と大きなため息をついた。

「天海君だよ」

春香が・・・?
頭の中には「何故?」という言葉しか思い浮かばなかった。
ほんの数日前に話した時にはそんなことは一言も・・・。
俺は急いで事務所のテレビの電源スイッチを押してブラウン管に映る映像を凝視した。
この時間帯でニュースを流しているのは・・・8chか。
机の上に無造作に置いてあるリモコンを急いで拾う。
使い古されて文字が消えつつあるボタンを力強く押すと、画面は切り替わった。
ニュースキャスターが日本全国の大雪について何やら喋っている。

「社長、見間違いや聞き違いではないんですよね?」
「情報は確かだよ。いつもの時間に放送されているニュース番組だから。
私は小倉さんのファンでねぇ・・・」

いつも出勤が遅いと思ったら、社長は毎朝「とくダネ」を見ていたのか。
普段なら皮肉の一つでも言ってやるところなのだが、今はそんな場合ではない。
俺はテレビのスイッチを入れたまま自分の机に向かい、パソコンの電源を入れた。
起動するまでの時間がもどかしい。
イライラしつつも完全にパソコンが立ち上がるのを待った。
そんな俺の行動を見て社長はそそくさと自分の部屋へと戻っていった。
触らぬ神に祟り無しとでも思ったのだろうか?
いや、自分でも懸命な判断だとは思うけど。
Internet ExplorerをクリックしてYahoo!のトピックスをチェックする。
・・・あった。
いくつか並んでいる項目の一番下。
そこにはこう書かれてあった。

アイドル天海春香電撃引退

まるで時間が止まったように俺の体は動かなかった。
その記事をクリックすることもできずにただ呆然と椅子に寄りかかり、呼吸さえも忘れそうになる。
いつしかパソコンの画面はスクリーンセーバーへと変わり、
画面の中を所狭しと小さな春香が走り回っていた。
以前発売された彼女のアルバム特典。
二人して一緒になってこれを考えた思い出がよみがえる。
真っ暗な事務所の中で一部屋だけ灯りを点けて、終電が来るまで粘ったっけ・・・。
そういや終電に乗り遅れた春香が泣きながら電話してきたこともあったな。 


『プロデュ〜サ〜さ〜〜ん・・・うぅっ・・・ぐすっ・・・』
「え?どうしたんだよ春香?何で泣いてるんだ?」
『それが・・・ひっく・・・電車に乗り遅れましたぁ・・・』
「本当に?と、とりあえず今から引き返すからちょっと待ってろ!」

そう言うと俺は電車を降りて、ホーム反対側に止まっていた上りの電車へと駆け込んだ。
事務所への最寄り駅へ降りて改札を出たところで辺りを見渡す。
灯りの消えた駅の隅っこで、春香はまるで迷子のようにべそをかきながら立ち尽くしていた。
彼女は俺の姿に気づくと急いで駆け寄り、俺の体に必死になって抱きついてきた。
その華奢な体からは考えられないほどの強い力で抱きしめられた俺は突然のことで驚いた。

「春香?」
「うぅっ・・・ごめんなさい・・・ごめんなさぁい・・・!」

そんな風に泣いている春香を見て不謹慎にも笑ってしまった。
俺は彼女の頭を優しく撫でてポケットからハンカチを取り出した。

「ほら、いつまでも泣いてるんじゃない。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ?」

春香は俺からハンカチを受け取り溢れ続ける涙を必死に拭っていた。
そして俺の顔を見上げると、
何か大切な宝物を探し当てたような本当に嬉しそうな笑顔で俺を見つめてきた。



もう彼女はアイドルじゃなくなるのか・・・。
そう思うとどこか寂しくて・・・どこか心が痛かった。

『アイドル辞めたら、戻ってきても良いですか?』

あの時の春香の言葉が思い浮かんだ。
そして、胸の奥にほんの少し安心した自分がいた。



ピルルルル・・・ルルルルル・・・ルルル・・・
電話が鳴っている。
きっと・・・あの人だ。
私の大切なプロデューサーさん。
電話の内容は想像がつく。
私は机の上の携帯を手に取るとそれを開き、通話ボタンを押した。

「もしもし?」
『もしもし?』
「プロデューサーさん、ですよね?」
『あぁ。元気そうで何より』
「この前お会いしたばかりじゃないですか」
『そうか・・・。そういやそうだな』
「うふふっ、プロデューサーさんたら面白い♪」
『あんまり笑うなよ・・・。恥ずかしいじゃないか』

私の笑いが止まった頃、プロデューサーさんはゆっくりと話し出した。

『ついにアイドル引退するんだな』
「・・・はい」
『そうか・・・。お疲れ様、よく頑張ったな』
「あ、ありがとうございます。・・・まさか褒められるなんて思ってもみませんでした」
『おいおい。俺だって鬼じゃないんだぞ』
「だっていつものプロデューサーさんならきっと『なんで俺に何も相談無しで勝手に決めるんだー!』
って言いそうだったから」

本当に予想外です。

『その物まねは似てない。まぁ正直少しくらい相談してもらっても良かったかもな。突然で驚いたよ』
「・・・ごめんなさい」
『謝らなくて良いって。春香ももう一人前だし、お前が決めたことは応援してやりたい』
「プロデューサーさん・・・」
『一人前・・・か。今のお前は昔からすると想像もつかないよな』
「ひ、ひどいですよプロデューサーさん・・・。私だって色々努力したのに・・・うぅ・・・」

これでも結構転ぶことは少なくなったんですからね。
事務所のレッスンの後ジムに通ったり、バランスが良くなる歩き方をやってみたりしました。
今の担当プロデューサーさんにも見てて安心できるって言われたんですから。

『ごめんごめん。それで、引退コンサートはいつなんだ?』
「はい、えっと・・・二週間後になりますね」

私は手帳を開いてスケジュールを確認した。

『二週間後か・・・。う・・・やよいのオーディションが入ってるな』
「そんなに無理して来なくても大丈夫ですよ?いつもと変わらないコンサートですから」
『いや、必ず観に行くよ。約束する』
「・・・はい・・・待ってます」

その夜は結局遅くまで電話していた。
今までのことやこれからのこと、話せることは何でも話した。
さすがにプロデューサーさんの携帯料金がすごい金額になっちゃいそうなので
ほどほどにして切り上げたけど、本当はいつまでも話していたかった。
でも、こんな思いをするのもあと少し。
あと少し我慢すれば・・・。 


あっという間にコンサート当日はやってきた。
今俺はやよいと一緒に控え室にいた。
今日のオーディションは比較的楽な方で、他にエントリーしたアイドル達もやよいに比べれば
見劣りする実力の子ばかりだ。
やよいは非常に落ち着いている。
俺は腕時計を見て時間を確認した。
コンサートの開演時間は19時。
オーディションの開始時間も19時。
さらに合格してしまえば収録時間も追加されていく。
間に合わないことは承知の上だ。
今は目の前のオーディションに集中しなければならない。

「春香、頑張れよ」

誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやく。
ふいに音を立てて控え室のドアがゆっくりと開いた。



控え室に一人椅子に座って私は開演時間を待っていた。
この衣装を着るのも最後か・・・。
お気に入りのスノーストロベリーのVo用の服。
そのスカートの裾を右手で弄りながらアイドルとしての私の人生を振り返った。
自主レッスンしてたらサンダル履きに気づいたり、
そんな恥ずかしいところをプロデューサーさんに見られたり。
思い出の公園でアイドル始めたきっかけを再確認したり。
警察官のコスプレもしてプロデューサーさんに「平和そう」って言われたのは楽しかったなぁ。
そして何より一番の思い出は・・・プロデューサーさんに初めて告白したことだよね。
今考えたらあんなに恥ずかしいことよく言えたなぁ、私。

コンコン

ふいに控え室のドアがノックされた。

「はい、どうぞ〜」
「春香、もうすぐ出番だぞ?準備は良いか?」

担当プロデューサーさんがほんの少しドアを開いて、その間から顔をのぞかせている。
私は「よし、春香頑張れ」と自分に言い聞かせて椅子から立ち上がった。

「はいっ、大丈夫です!」

踏み出す足は力強く、唇をきゅっとかたく結んで控え室を後にした。





間に合わなかった。
やよいの収録を無事終えた俺はコンサート会場へと駆けつけたが、
時既に遅くファンが丁度帰り始めるところだった。
走れるところは全て走り、なんとか間に合うように走ったつもりだったが・・・。
大きく肩で息をしている俺の横を大勢のファンが帰っていく。
中には肩を落とし、中には涙する者さえいた。
俺は仕方なく会場近くの臨海公園のベンチに腰を下ろした。
コートの中から携帯を取り出すと春香に電話をかけてみる。

プルルル・・・プルルル・・・プルルル・・・

しばらく待ってみたが繋がらない。
まだコンサートが終わってすぐだからだろうか?

「春香・・・ごめんな」

大きなため息をついて携帯を閉じた。
その時だった。

ヴーン・・・ヴーン・・・ヴーン

着信?
誰から?
再び携帯を開いて画面を確認する。
そこには「天海春香」の文字が浮かんでいた。
慌てて通話ボタンを押す。

「もしもし?春香?」
『あ、プロデューサーさん♪ごめんなさい電話に出られなくて。スタッフの人がいたので・・・』
「そうか。コンサートは成功したか?」
『はい、もちろん大成功でしたよ!』

その言葉を聞いてほっとした。

『・・・あれ?ということはもしかしてプロデューサーさん・・・』
「ごめん。間に合わなかった」
『・・・そうですか』

電話の向こうからは残念そうな春香の声が聞こえてくる。
春香、本当にごめん。
できることなら今すぐにでもお前の目の前に行って土下座したい。
何を話して良いのかわからずにいると春香はこう言った。

『今どこにいるんですか?』
「え?いや・・・会場近くの臨海公園だけど」
『わかりました。そこで待っててくださいね!』
「何?おい、春香?」

言い終わる前に春香は電話を切ってしまった。
俺は耳からゆっくりと携帯を離すと、折りたたんでポケットの中へとしまった。

「待ってろ・・・って、あいつ来るのかな?」 





それから数分後、俺は後ろから聞こえてくる足音に気づいた。
足早にまっすぐ近づいてくるそれは段々と大きく聞こえてくる。
俺はベンチから立ち上がって体半分振り返った。

「ごめんなさい、遅くなりました!」

思ったとおり春香だった。
いつもテレビ局で会った時は衣装姿が多かったので、今は普段着が新鮮に見えた。
彼女は俺の目の前で立ち止まると胸に手を当てて息を整えている。

「大丈夫か?」
「はい、なんとか。コンサートの後だから少し・・・体力が戻ってないですけど」

首元をつたう汗がかなり色っぽくみえる。
俺はポケットからハンカチを取り出して春香に差し出す。

「汗だくじゃないか。これで拭けよ」
「あ、ありがとうございます」

彼女は笑顔でそれを受け取ると汗ばんだ首筋、頬、額と順にハンカチを当てた。
そしてそれを返そうとした時、何かに気づいた。

「あ・・・このハンカチって、いつかプロデューサーさんが私に貸してくださったハンカチと同じですね」

そういえば・・・。
偶然にもあの時彼女の涙を拭った時と同じハンカチを持ってきていた。
差し出されたハンカチを受け取ると、再びポケットの中へとしまった。
春香は俺の手を取ると嬉しそうに言った。

「プロデューサーさん、少し歩きませんか?」
「ん、そうだな。少し歩こうか」

俺は春香に引っ張られるようにして歩き出す。
二人して寒空の下をゆっくりと歩き続けた。
どこに向かうわけでもなく、ただぶらぶらと。
繋いだ手から春香の暖かい温もりが伝わってくるのがわかる。
そのうち俺達は近くの砂浜へとたどり着いた。
真っ暗な暗闇の中波の打ち寄せる音だけが響いている。
対岸のビル郡の明かりが漆黒の海に映って、まるでクリスマスのイルミネーションのように見えた。
春香は繋いだ手をそっと離すと、波打ち際へと歩いていく。
俺もその後ろについて歩いていく。
冷たい海風が頬を撫でる度に鋭い痛みが肌を突き刺す。
春香は寒くないのだろうか?

「今日でもうアイドル引退なんですね・・・」
「・・・そうだな」
「あ〜あ。明日から何しようかなぁ?」
「何でもやりたいことをすれば良いさ」
「例えば?」
「例えば・・・何だろうな?」
「ふふっ、言われてもすぐには思い浮かびませんよね」

海からの照り返す灯りでぼんやりと浮かび上がる春香のシルエット。
まるで映画のワンシーンのように美しく、そして・・・。

「追いかけて・・・波しぶきあげて・・・」

ふいに彼女の口からこぼれる歌。
春香の十八番「太陽のジェラシー」だ。

「そっと潜る・・・私、マーメイド・・・」

ふと彼女の足が止まる。
後ろに両手を組んだままゆっくりとこちらを振り返った。
その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「捕まえて、好きだよと・・・言ってほしい」
「・・・」
「プロデューサーさん・・・私ここまでずっと我慢して、ずっと頑張ってきました。
だから側にいても良いですか?
ずっと・・・ずっとプロデューサーさんの側にいたいんです。
プロデューサーさんの側で新しい人生を歩みたいんです!」 



彼女の溢れる気持ちを代弁するかのように頬を伝う涙。
こんなにも俺をずっと想ってくれる人が春香以外にいるだろうか?
こんなにも俺の胸を熱くさせる人が春香以外にいるだろうか?
俺は春香に歩み寄り、その小さな体を強く抱きしめた。

「今までよく我慢できたな。これからはずっと、ずっと一緒だ」
「本当ですか?」
「本当だとも。もう何も我慢しなくて良い。俺の側にいてほしいんだ」
「私・・・私・・・ぐすっ・・・嬉しい・・・です」
「大分待たせたな。ごめんよ」

彼女は首を横に振って俺の言葉を否定した。

「プロデューサーさんは・・・謝る必要なんて無いです。
プロデューサーさんは道の向こうでずっと・・・待っててくれたんですから」
「春香・・・好きだよ」
「私も・・・プロデューサーさんのこと・・・」

泣き続ける春香はもはや言葉を続けることができなかった。
そんな彼女が愛しい。
これほどまでに愛しく思えたのは彼女が初めてだ。
しばらく抱きしめた後、ゆっくりと体を離す。
俺のジャケットの胸の部分は彼女の涙で色が変わっていた。

「あ、ごめんなさい・・・」
「すぐに乾くさ。気にするな」

春香の目を見つめて笑いかける。
すると彼女はもう一度体を預けてきた。

「あの・・・まだしばらくこうしてて良いですか?」

顔を真っ赤にして上目遣いに見つめてくる。
断る理由などない。

「良いよ。今日から俺はお前のものだから」
「なっ・・・なんだかものすごく恥ずかしい言い方してますよ、プロデューサーさん」
「そうか?後、もう“プロデューサーさん”ってのは卒業だな」
「じゃあなんて呼べば良いんですか?」
「そうだな・・・」

俺は春香にそっと耳打ちした。





それからいくつかの季節は流れ、また冬が近づいていた。
俺はいつものように事務所の机に向かい、書類整理や領収書の精算していた。
相変わらず暇などない。
社長は俺を過労死させる気だ、うん、きっとそうだ。
無理やり自分を納得させて仕事を続ける。

「プロデューサー、レッスンお願いしまーっす!」

レッスン室からやよいがひょこっと顔を出してレッスンの催促をしてきた。
朝から元気だな。

「わかった、すぐ行くから待っててくれ」

俺は開いていた書類を閉じ、机の中へと戻した。
レッスンに使う楽譜を手に取ると足早にレッスン室へと向かう。



誰もいなくなった事務所。
静寂だけが空気を支配している。
差し込む陽の光は事務所の机を照らしていた。
その机の上で一際光を受けて輝く写真立て。
なんの変哲も無い普通の写真立てだけどそこに写っているのは
タキシードを着て緊張で顔を強張らせたプロデューサー。


そして、純白のウェディングドレスに身を包み、本当に幸せそうな笑顔を浮かべる春香がいた。





完 



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