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作:名無し

「ふぅ」
「お疲れ様」
 俺は労いの言葉をかけながら、彼女にタオルを渡した。
「さすがに・・・1位を狙うのは難しくなってきましたね」
 彼女は眼鏡を外し、軽く顔の汗を拭いながらそんなことを言う。
「まるで、順位が分かってるみたいだな」
俺が苦笑混じりに返すと、
「分かりますよ。プロデューサーにも、分かってるでしょ?」
彼女は問いかける、というより確認する様に言葉を継いだ。
「まぁ・・・ね」
「さすがの秋月律子も、輝ける新人の前では霞んでしまうと言う事ですよ」
「・・・」
「や、やだなぁ。暗くならないで下さいよ・・・
大きな声では言いませんけど、合格はできてるはずですから」
「だな」
 俺と律子は少しの疲労感を引き摺りながら、いつもの様に合格発表を迎えた。
合格枠は2つ。律子は予想通り2位で合格していた。
その後はこれもまたいつもの様に打ち合わせをこなし、事務所への帰路に着く。
 そして、その帰りの車中。
「そろそろ私は・・・引退、ですか?」
「『活動停止』、な。引退するかどうかは別の話だ」
「社長は、何て?」
「これ以上、上を目指すのは難しいだろうと。
少なくとも日本じゃ、今より上なんてないと思うけどな」
「『上』、かぁ・・・」
「世界に出たかったか?」
「そりゃあ、ね。やるからには。でも、この辺が私の限界なのかも・・・」
「・・・飽くなき向上心、か」
「それなくして、何が秋月律子ですか」
「ははっ、変わらないな。デビューした頃から」
「プロデューサーもね」
 流れる街の明かりが車の中を僅かに照らす中、
「最後に受けるオーディションは、決めてるんです。我侭・・・聞いて貰えますか?」
律子が切り出した。
「いいさ。毒を食らわば皿までってね」
「せめて、一蓮托生くらいにしません?」
「微妙に意味が変わらんか?」
「気にしないで下さい」
「ん。そうする」
 事務所へ辿り着くまでの残りの時間、俺と律子は取り留めのない話を続けた。
いつもの明日が、これからも来るかのように。 


「どういうことなんですか!説明してください!」
 朝から千早の怒声が事務所に響き渡った。
「どういうって・・・まぁ、見ての通りだよ」
 俺はスケジュールボードに目をやって、そう応えた。
「見ての通りって・・・どうしてわざわざああやって書き出しているか、知らないわけではないでしょう」
 千早の怒りは収まらない。
 それもそのはず、スケジュールボードの千早の欄には『IDOL VISION』と、
オーディションの名が書かれている。そして、律子の欄にも。
わざわざオーディション名が書かれているのは、
バッティングを防ぐ為であり、結果として潰し合いを防ぐという意味があった。
「知ってるよ。でもまぁ・・・LongTimeに次ぐ影響力の大きさ、出場者のレベルの高さ、
どれをとっても避ける意味を探す方が難しかったからな」
 俺は敢えて事務的に答えた。何より、千早を説得する言葉を探せそうになかったと言うのもある。
「本当に、それだけですか?」
 さすがに、少し憮然とした表情になっている千早のプロデューサーが後を継いだ。
「ん?まぁ・・・な」
「律子は・・・律子は納得してるんですか?」
 まだ昂ぶったままの千早は尚も質問を続ける。
「・・・してるよ」
「!・・・どうして・・・」
「千早。僕は、律子さんのプロデューサーと話があるから、少し応接室で待っててくれないかな」
 千早のプロデューサーが穏やかな口調でそう言ったが、
「嫌です!これは納得できません!どうしてわざわざ、私が律子と争わないといけないんですか!」
千早は聞き入れることができそうにない。
「千早。きっと何か理由があるはずなんだ。
多分、律子さんのプロデューサーが直接には千早に言えない様な理由が。だから・・・」
「嫌です!」
「千早」
 彼は少し前かがみになり、千早の目線まで自分の顔を下げた。そして、じっとその目を見つめる。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「わ、分かりました。でも、後でちゃんと説明はして下さい」
最後の言葉は俺と彼に向けられたものだ。
「もちろん、するよ」
彼は即答したが、
(俺に説明できるかな・・・)
俺が躊躇しているのに気づいた千早が、かなりきつい目線をくれる。
「わ、分かった。する、するよ」
「お願いします」
 無理に感情を抑えた声でそう言うと、軽く頭を下げて千早は応接室へと向かって行った。
「ふぅ・・・信頼関係が見えるようなやりとりだったよ」
「茶化さないで下さい」
「すまん」
「で、何が理由なんですか?ちゃんと話してくれないと、僕も千早に説明できません」
「・・・我侭、かな」
「我侭?」
「ああ。律子の我侭を聞いてやりたいという、俺の我侭」
「うーん・・・それじゃあ、わざわざ同じオーディションを選んだのは・・・」
「私がお願いしたんです」
 いつの間にか来ていた律子が、俺たちの後ろから声を掛けた。
「おはよ、律子」
「あっ!・・・おはよう、律子さん」
「おはようございます。あーあ、やっぱり荒れたみたいですね」
「そりゃあ、ね」
「かなり嫌みたいだよ。
僕も、何て言ってやればいいのか分からないから、いろいろ聞きたい事があったんだけど」
「私が直接説明しますよ。それが一番でしょうから」
「うまくやれるのか?」
「もちろん。あの子の事、結構理解してるつもりですよ?」
「うーん・・・まぁ、律子さんに直接話してもらえるならそれが一番いいのかな。お願いするよ」
「はい」
 言うが早いか、律子は応接室へと足を向けていた。 


 応接室のドアの前で、律子は深呼吸をする。一回、二回。
 そして、ドアをノックした。
 コンコン
(・・・)
 応接室から返答は来ない。
 コンコンコン
(・・・音楽でも聴いてるのかな)
 律子は意を決してドアを開けた。
 そこは六畳ほどの広さのあっさりとした作りの部屋だった。
真ん中に長方形のテーブル、その両側にはソファー。彩りには花が飾られている。
一般的な、いかにも『応接室』といった趣だ。
 ドアのほぼ真正面にあるソファーに、千早は座っていた。
テーブルの上には投げ出したかのように乱雑に、MP3プレイヤーがヘッドホンと絡まるように置かれている。
「律子・・・」
 初めはきつい視線をドアに向けていた千早だったが、
そこから現れたのが律子と分かると驚いたような、そして戸惑ったような表情になる。
「ごめんね、随分混乱させちゃったみたい」
「・・・」
 律子は後ろ手にドアを閉じると、千早の向かいのソファーに腰を下ろした。
「あれはね、私が決めた事なの」
「!」
「一度でいいから、千早と同じオーディションを受けてみたかったのよね」
「そんな・・・わざわざ同じ事務所で同じオーディションを受けなくても・・・」
「言いたい事は分かるわ。同じオーディションを避けるのは、大抵の事務所で慣例みたいになってるものね」
 千早はただ頷いて次の言葉を待った。
「でも、私は次のオーディションを最後のオーディションにするから」
「えっ!」
「だから、それがどんなオーディションであろうと、私は受けるつもりだったのよ。
『IDOL VISION』だったのは出来過ぎだったけど」
 そう言うと律子は少し困ったような笑みを浮かべる。
「・・・でも、それは・・・私と同じオーディションを受けたい事の理由にはなってないと思うけど?」
 千早は律子の気持ちが知りたくて、言葉を選びながら問いかけた。
「私はね・・・アイドルをやるからには、トップになるつもりだった。
多分、売り上げとか、ファンクラブの人数とか、そんなもので言うならトップクラスなんだろうけど」
「・・・」
「でもね、そうじゃない、そんなんじゃないって思う事もあるの。
本当に自分の力を尽くして競い合える相手と対峙したいって。
何度も何度もオーディションを受けて、何度も何度も合格してるうちに・・・
なんだか、歌う事も、踊る事も、私から離れて行ってしまうような気がして。
だから、そんな事を思うようになったのかもしれないわね」
「・・・」
「もちろん、そういう相手はきっと、千早の他にもいるのかもしれないわ。
でも、私が最高の力を出せるのは・・・千早と競い合った時だと思うの」
「・・・」
「これは、私の我侭。そしてここからは、私のお願い。千早、私と同じオーディションに出て。
そして、最高の歌声を聴かせて。私に、あなたを『ライバル』と呼ばせて」
「!」
「お願い・・・できるかな?」
「・・・」
「千早を悩ませてまでこんなことはしたくないから・・・だから、嫌なら言って。
できれば、ちょっとは考えて欲しいけど」
 律子はまた、困ったような笑みを浮かべて、
「ま、もう悩ませちゃってるみたいだけどね」
と言うと、立ち上がった。
「千早の返事、待ってるからね」
そして律子は応接室を出た。その途端、応接室のドアを注視していた俺たちと目が合った。
 律子は俺たちの方へ近づき、
「立ち聞きなんてしてないでしょうね?」
と声を掛ける。表情は悪戯っぽい笑みを浮かべているので明らかに冗談と分かるのだが、
「し、してませんよ!」
千早のプロデューサーには分からなかったようだ。 


 その時、応接室のドアが開いた。
 応接室から出てきた千早は真っ直ぐ律子を見つめながら、
「私、出るわ。律子と同じオーディションに」
と言った。
「私がどこまで律子の期待に答えられるか分からないけれど・・・せっかくの機会だものね。それに・・・」
(律子はきっと、他にもまだ伝えたい事が・・・)
「ううん、これはオーディションの後で」
「ありがとう、千早」
「いいのかい?ちゃんと納得できていないなら・・・」
 千早のプロデューサーが問いかけた。
「大丈夫です。律子は、とても真剣だと分かったから。
それに、こうやってお互いに切磋琢磨することで、もっと高いレベルの歌が生まれるかもしれません」
 彼はしばらく千早の目を見つめた後、
「そう。なら、全力を尽くそう」
穏やかに微笑んだ。
「はい」
「千早。私も、全力を尽くすから。そうでないと、意味がないから」
「ええ、分かっているわ」
「ふふっ」
「ふふふっ」
 多分、それまでは漠然としか意識していなかった『ライバル』という関係は、
ここに来てやっとそれを形にした。
その関係でいられる時間がどれほど短かろうと、二人にとっては大きな収穫になるのだろう。
 そして、その日はやってきた。
 オーディションの当日、俺と律子、千早とそのプロデューサーはそれぞれ別々に会場に向かった。
多少規模が大きくなったとは言え、765プロはアットホームな雰囲気が売りと言ってもいい。
例え別の仕事でも、近い場所に行くならわざわざ同じ車に同乗する事もあるくらいだ。
だが、今回はそれをしなかった。
何も言わずともそれが当然であるように、それぞれがそれぞれに、会場に入る。
 俺と律子が控え室に入った時、そこに千早たちはいなかった。
今回は応募人数が多かった為に、控え室が複数に分けられたらしい。
「同じ部屋の方が良かったか?」
「今回はどうでもいいかも。直接見に行きますから」
「そうか」
 オーディションのスタッフがお決まりの注意事項を述べ、
呼ばれるまでは待機するようにと言い残して退場すると、控え室にはまたざわつきが帰ってくる。
今日の対策、面子の品定めと、話題には事欠かないのだろう。
 俺と律子も、している事は似たような物だ。
今日は歌田が審査員のメインである事、歌唱力に自身のあるユニットが多く集まっている事、
そして、第一節での立ち回り。そんなことを確認しながら、千早の審査が始まるのを待つ。
 審査の順番としては、千早の方が先で、律子はその何組か後。
審査を受けるユニット数が結構あるので、長丁場になることが予想できた。
「そろそろですね」
 律子が時計を覗き込んで呟く。
「だな。行こうか」
「はい」
 控え室を出て、会場へと向かう。
扉の向こうには、このオーディションに参加したユニットのそれぞれのプロデューサーが何人かいた。
ずっとアイドルの側にいて勇気付けるプロデューサーもいるが、
こちらに来ているのは今日の流れを読んで指示に生かそうと考えているタイプのプロデューサーなのだろう。
 だから、律子は浮いて見える。もっとも、そんなことで物怖じはしないのだが。
「ぴったりですよ」
 律子が小声で俺に囁き掛ける。ステージの上にはイントロの始まりを待つ千早がいた。
「今日の千早は、すごいですよ」
 千早のプロデューサーがそう言った。
「集中力が半端じゃないんです」
 今までの千早を知っているわけではないが、
ステージ上の彼女は身に纏う雰囲気からして既に違っていた。
何かが起きる。何かを起こす。ひしひしと、それが伝わってくる。 


 穏やかに、『蒼い鳥』のイントロが流れ始めた。そして。

――泣く事なら 容易いけれど

「う・・・お・・・」
 ガタッ
 俺の腕に、鳥肌が立っていた。第一声で分かる、その力。
 歌田は思わず立ち上がっていた。椅子が大きく音を立てても、自分はおろか誰も気に留めない。

――恋した事 この別れさえ

「さすがね。ここまで高いレベルだとは・・・」
 律子は思わず零れた涙を拭いながら呟く。

――群れを離れた鳥のように

「これなら、託せるか?」
「そうですね・・・って、プロデューサー!?」

――だけど傷ついて 血を流したって

「でも、その前に・・・私も、全力を尽くさないと」

――蒼い鳥 もし幸せ

 俺は思わず目をこする。千早の背中に、大きな翼。

――あの空へ 私は飛ぶ

 律子は、もう涙を拭う事をやめていた。

――あなたを忘れない でも昨日には帰れない

 万雷の拍手が鳴り響いた。まるで、ライブの後のように。それはいつまでも、いつまでも続く。
 千早はステージを駆け下りて、律子の前に立った。
「ど、どうだった・・・?」
「自分でも、分かってるんでしょ?」
 律子は悪戯っぽく微笑みながら、千早の顔を覗き込んだ。
「驚いてるの・・・自分自身。ありがとう、律子」
「まだよ、私がこれから歌うもの」
「ふふっ。そうね。私もここから、見てるから」
 正直言って、千早の次に歌ったユニットは気の毒だった。
審査員たちは魂を抜かれた様になっていたからだ。 


「さて、プロデューサー殿。私はどうすれば?」
 ステージ袖で、律子は俺に問いかけた。千早から二組、間に入って間もなく出番だ。
「まともに行っても、審査員の興味は引けませんよ?」
そう言う律子は、それでもこの状況を楽しんでいるようだった。
「だな。さて・・・」
「・・・まさか、何も考えていないとか?」
「失礼な。これでもトップアイドルをプロデュースしてるんだぞ?」
「それ、私の事でしょ」
「まぁ、そうだが。とりあえず、あれだ。とにかく頑張れ」
「はぁ?・・・ぷっ、あははははっ」
「ははははは」
「な、何だか・・・気が抜けちゃいましたよ」
「おまじないでもしてやろうか?しっかり歌えるように」
「うーん・・・あ、大丈夫ですよ、きっと」
「ん?」
「もう、魔法にかかってますから」
そう言い残して、律子はステージに駆け出した。
 千早は律子の様子に目を奪われていた。
正直、いつもの律子からは想像もできないほど可愛らしい表情を見せて、
律子のプロデューサーと会話を交わしている。
(律子・・・本当に楽しそう)
 ステージの中央に立った律子は一度、大きく深呼吸をしてイントロを待つ。
 俺はステージを降りて千早たちの側へと行った。
「どうですか?律子さんは」
千早のプロデューサーの問い掛けに、
「ま、見ててくれよ」
笑みを隠し切れずに、俺は答えた。
 そして、『魔法をかけて!』のイントロが流れ出す。

――鏡の中 ため息がひとつ

「ああ・・・」
 千早は、自分の顔が熱くなっていくのが分かった。
 会場の雰囲気が、一気に変わる。審査員の目にも光が戻っていた。

――みんな言うけど

 その歌声は、千早のそれとは好対照だった。辺りを柔らかく包み、その顔に笑みを宿らせ、そして。

――机の中 書きかけのラブレター

 誰もが胸の中に持つ、恋心を浮かび上がらせる。

――想いを馳せる

 ビジュアル審査担当の山崎は、もう中腰になるほど引き込まれている。

――本当は この胸の

 ステージセットもないのに、まるで遊園地のメリーゴーランドのような華やかさが、そこにはあった。

――恋を夢見る お姫様は

(良かった・・・律子とここまで、やってこれて)
 普段は口に出せない想いが、俺の胸の中に溢れるのが分かる。

――早くそんな日が来ますように

「プロデューサー。私、律子に勝てますか?」
「え!?あ、ああ・・・うーん」
「ふふっ」

――魔法をかけて!

 くるりと回した人差し指が、きらりと光って見えた。
 パチパチパチパチパチパチパチ・・・
 そしてまた、その場を拍手が支配した。 


 俺と律子は、車道を見下ろす橋の上にいた。
 オーディションの後、律子が、
「今日は寄り道しましょ」
と、珍しい事を言い出したからだ。
 オーディションはある意味順当に、ある意味波乱含みの結末を迎えていた。
 律子と千早が同点一位、慣例に従い活動開始時期の遅い千早が合格のはずだったのだが・・・。
その結果に、ダンス審査員の軽口が強硬に反対したのだ。
千早を落とせというのではなく、律子も合格にしろと。
これだけハイレベルなものを見せられる二人を、世の中に提供するのは自分たちの使命だと。
 運営に関わるお偉いさん方を巻き込んでちょっとした騒動になったが、
結果自体が変わる事はなかった。
 律子の最後のオーディションは、不合格で終わったのだ。
「ふぅ」
 律子は手摺にもたれるようにしながら、大きく息をついた。
「疲れたか?」
「少し。あんなことになるなんて、思ってもみませんでしたよ」
「だな」
 都市のど真ん中に作られた、大型の公園。
普段ならもっと人通りがあっておかしくないのだが、今日はまばらだ。
だからこそ、こんなところで一息つけるのだが。
 俺はタバコに火を点けた。
もちろん、律子の風下で。煙は俺の左手方向へと流れ、そして色を失くしていく。
 律子は缶のカフェオレを口にすると、それを手摺に置いて流れ行く車のライトを見つめていた。
「・・・風向き、変わりましたよ」
「ああ、すまん」
 律子の後ろを通って反対側へと回ろうとしたが、不意に律子に胸元を掴まれた。
「律子?」
「・・・」
 律子は俯いて、黙って俺の胸元を掴んだまま。その肩は少し震えていた。
「律子・・・」
 たとえ悔いなどなくても、できる事をすべてやった後でも・・・
いや、だからこそ、胸に去来するものがあるのだろう。
「こん・・・なの、らしくないって・・・分かってます・・・けど・・・」
俺は黙って、律子の頭を引き寄せて胸に抱え込んだ。
「しばらく、貸すよ」
「はい・・・う、ううっ」
 俺の胸の中から聞こえる律子の泣き声は、
左手に持ったままの煙草が根元まで灰になってもしばらく続いていた。 


 あのオーディションから数週間。千早の人気はうなぎ上りだった。
もともと持っていた地力に加え、オーディションでの高評価が各メディアで取り上げられたからだ。
 律子もまた、評価を上げていた。
オーディションの運営側は、審査員の熱意に負けてラストコンサートのテレビ中継を決め、
その宣伝を大々的に打っていた。
「律子」
 千早は事務所で作業をしていた律子を見つけて声を掛ける。
「あら、千早。今日は午前で上がりじゃなかったの?」
「ちょっと・・・話したい事があって」
「そう。何?・・・って、プロデューサー、覗かないで下さいよ」
 最近律子は俺に隠れて何かをやっている。
パソコンの画面を覗こうとすると隠したり、どこへ行くとも言わずに姿を消したり。何をしてるんだか。
「はいはい」
 俺は肩をすくめて二、三歩離れた。
「で、話って?」
「え?ああ、うん・・・」
 千早は何故か言いにくそうにしていたが、
「あのオーディションの、本当の意味を教えて欲しいの」
と切り出した。
「・・・参ったなぁ。ほんと、千早って勘が良いわよね」
「律子」
「はいはい。本当は、言うつもりなんてなかったけど」
「・・・」
「前にも言ったでしょ、アイドルやるからにはトップを目指すって。
でも、結局は日本・・・大きく見ても、アジア止まりだった」
「うん」
「それで、まぁ・・・私が向いてないって事は分かってたけど、それでも踏ん切りが欲しかったのよ」
「うん」
「千早は、いつかは世界に出る。私はそう思ってる。
だから、もし千早に勝てたら・・・もうちょっとだけ、続けてみようかなって。
自分の歌で、世界を目指してみようかなって」
「・・・」
「でも、結果はあの通り」
「あれは・・・でも!」
「いいの、千早。オーディションの最高点が30点でなければ、
感じたままの星を振る事ができるなら、千早が文句なしに勝ってたわ」
「・・・」
「でね、私は、勝手に思いを託したの。世界に歌を響かせるって事、それを叶える事を」
「律子・・・」
「私の代わりに、歌を響かせて。その目で見たものを、歌に変えて。
私はきっと、それを聴く度に・・・嬉しくて、泣いちゃうわよ?」
「律子・・・うん」
「ま、そういう事なわけよ。最後の最後まで我侭言っちゃったけど、いいかな?」
「もちろんよ。それは、私の・・・いつでも持っている願いだもの」
「ありがとう、千早」
 千早は首を振りながら、
「ううん。私の方こそ・・・」
そして、後を振り返って、
「プロデューサー、これからレッスンを入れて下さい」
「え!こ、これから?」
 千早のプロデューサーはうろたえた様な声を出した。
「はい。目指す場所は高く、遠い。ならば、できることはやっておかないと。お願いします!」
「・・・はぁ。うん、分かったよ。じゃあ、レッスンの予定を前倒しにして・・・
ああ、先にレッスンルームに行ってウォーミングアップしておいてくれるかな?」
「はい!」 


 千早は二、三歩駆け出しかけて振り返る。
「そうだ。律子、あなたの側に、歌はある?」
「もちろん」
 何故か律子は、俺に視線を向けた。
「それなのに・・・歌うことは、もう?」
「私は、次の事を始めてるのよ」
「そう。それじゃ、私に律子が見たものを教えて。それを歌に変えるから」
「うん」
 律子の返事を聞くと、千早は駆け出していった。
「まったく・・・乗せるの、上手ですね。また振り回されてますよ、僕」
「向いてるだろ」
「プロデューサーに?」
「ああ」
「・・・ですね。今度は僕のライバルになるのかなぁ」
「どうかな」
 俺と千早のプロデューサーはひとしきり笑いあい、
「それじゃ、僕も行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
俺は彼を見送った。
「さ、私も出かけてきますね」
 律子がパソコンを落としつつ、そう言った。
「ん?何処へ?車出そうか?」
「いえ、これは一人で行きますから」
「つれないなぁ」
「そんな顔しないで下さいよぉ。最後には、ちゃんと教えますから、楽しみにしてて下さい」
「はいはい」
「ふふっ」
 律子は笑い声を残して出掛けて行った。
「さて・・・と」
 俺は窓の外を眺める。
ラストコンサートの構成も、手配も、ほとんど済ませてある為に
最近はぼんやりする時間も増えてきた。
何より、律子の『次の事』の為にオフを多めに入れているのも
俺の暇な時間を増やす事に一役買っている。
(俺は・・・どうするかなぁ)
(デュオ・・・?トリオ・・・?また、誰かをソロで・・・?)
「ふ、ははははは」
 思わず、おかしな考えが頭をよぎって笑ってしまった。う、小鳥さんの視線が痛い。
(でも、まぁ。それも悪くないか)
(・・・よし)
 『次の事』でも必要としてくれるなら、俺は律子の隣を歩こう。
それはきっと、かけがえのない明日に続くに違いない。 



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