-ハッピーハッピートラブルバレンタイン-

作:@クラ


 ちゃか、ちゃか。
 ゆっくりと、丁寧な音がしている。
 制服にエプロンを羽織った少女は、微かに鼻歌なんかを鳴らしながら、
キッチンで楽しそうに料理をしているようだった。
 湯煎と言われる、チョコレートを溶かすときのおなじみの光景が伺えた。
少女、天海春香は、慣れた手つきで、
やや固めに残っているボウルの中のチョコレートを丁寧に伸ばしていた。
 踊るようなその手つきは決して慣れだけの産物ではないだろう。
「ふふ。明日はバレンタイン。……プロデューサーさん、驚いてくれるかなぁ」
 ニコニコとした表情により一層の照れ交じりの笑みが混ざった。
「告白……と、まではいかないけど」
 少しでもこの気持ちが届けばいいな、と一人ごちる。
 彼女、天海春香はアイドルだ。有名、という程のものではないが、
根強い固定ファンとまだまだ新米のプロデューサーのもとでゆったりと活動している。
当然目指すのはいけるところまでの高み。
毎日のように繰り返されるレッスンや仕事など、精力的な活動がいつかは実を結び、
トップアイドルとして活躍する夢だって見る。
 だが、ここ1週間だけは、彼女はアイドルではなく一人の少女に戻っていた。
それは、明日に控えたバレンタインデーのためであった。
 彼女はいつも自分を見守り助けてくれる、とてもお世話になっている彼女のプロデューサーに
チョコをあげようと考えたのだ。得意のお菓子作りの腕を生かして、手作りのチョコを鋭意製作し、
お世話になっているお礼をしたいと考えたのだ。
「……プロデューサーさん、喜んでくれるかなぁ」
 春香の脳裏に、優しい笑顔でチョコを受け取るプロデューサーが浮かんで来た。
だが、それ以外のイメージはまったく浮かばなかった。
「……うーん。プロデューサーさん、優しいからなぁ。きっと、迷惑でも笑ってる気がするなぁ」
 明日のためのチョコの受け渡しレッスンは、脳内でたくさんやってきた。
脳内ではパーフェクトレッスンが展開されている。だから大丈夫なはずだ、言い聞かせる。
 高鳴る鼓動が彼女の中の想いを再確認させる。
――うー。まだ明日まで時間があるのに、ドキドキしっぱなしだよ……。
 湯煎をしながら深呼吸をなんども繰り返す。
 そのちょっと変な光景を見た春香の母は、ちょっとだけ首を傾げながら
「あの子も、そんな年頃か」と薄く笑ってキッチンを素通りしていった。
「うん! 今はチョコを一生懸命つく……る……?」
 ことに集中しようとした春香が視線をボウルのチョコに目を落とすと、
ぐつぐつと煮えたぎる、鍋の湯が見えた。 
「うわ! 熱っ熱っつ!!」
 煮えたぎっていた湯の蒸気で、思わず手を放したボウル。
春香の手を離れたボウルはバランスを崩し、沸騰した湯を迎え入れてしまった。
ドロドロだったチョコに湯がまじり、さらさらのチョコ湯ができてしまった。
「わーーーーー!! つ、つくりなおしだーーー!」
 彼女のチョコ準備はまだまだかかりそうであった。



翌日

 小奇麗で可愛らしい紙袋を大事に抱えながら、春香は事務所へと走っていた。
事務所に行けばプロデューサーがいるはずだった。
1週間くらい前から14日には事務所にいるように言ってあった。
午後の2時に会う、という約束もしていたのに。春香はやや遅刻してしまったのだ。
興奮と緊張のためか、寝つきが悪く春香が最後に確認した時計の針は3の数字をこえていた。
結果、寝坊してしまったのだ。起きる時間が少しでも遅くなるのは、
実家から電車で事務所に通っている彼女にとっては大きな痛手だった。
1本乗り過ごすと、次の電車まで待つことになるからだ。
ちらりと右腕にまかれた小さな腕時計に視線をやる。もうじき2時を過ぎてしまう。
仕事で遅刻することも許されないが、
こんな大事なときに遅刻するのは女の子的には、かなり由々しきことだ。
レッスンで鍛えた持久力を活用し、全力で走る。
近道らしき道もあるにはあったが、焦って泥沼に入り込む危険性もあったので、いつもの道を走り抜ける。
そしてやがて、視線の先に小さな事務所が見えてくる。
ほぼ全力に近い持久走で早鐘を打つ心臓に、もうワンテンポが混じった。
――うぅ……。き、緊張してきた。
 事務所の入り口の前で急制動をかけて、思い切り深呼吸する。
もっているハンカチで薄くかいた汗を拭き取る。
涼しい気候にしてくれた神様に感謝をし、
ついでに、今日の告白がうまくいきますように、とお願いもしておく。
「……すぅー、はぁー」
 春香は数度の深呼吸を繰り返し、真剣な瞳でドアノブを見据えた。
 しっかりと、それを掴み、ゆっくりとまわした。
「……ふぅ」
 そして最後に呼吸を整え……。
「おはよーございまーす!」
 元気一杯で事務所に入った。
 ちなみに。
 この次の瞬間の、春香の脳内レッスンの光景では、
『いつものように優しくて格好よくて、どこか頼りないのに、安心できる、
大好きなプロデューサーがにこやかに立っていて
「やぁ、春香。どうしたんだい? 今日は?」と声をかけてくれる』予定だった。
「……おはよー」
 返事は返ってきたが、元気はないし、
声の主もプロデューサーではなく、同じ事務所の仲間、菊地真だった。
「ま? まこと? お、おはようー? どうしたの? 今日はオフじゃなかったっけ?」
 真は、静かに春香に視線を向けた。
 寡黙な雰囲気がにじんでいる今日はいつもよりも凛々しく見えた。
元気のないアンニュイな時の方が、真は中性的アイドルとして様になっているようだ。
 だが真と親友の春香としては、元気のない真は放っておけない。
もう一度、なにかあったのか聞こうと思った春香の瞳に、あるものが映った。
 綺麗な包装紙に包まれた、なにか。
 それがなんなのかはすぐにわかった。なにせ今日は2月14日。
こういう女の子的なイベントに憧れをもつ真が乗らないわけはなかった。
 ……だが、そのチョコをあげる相手は誰なのか。
 春香の思考が、真がチョコのあげそうな人を考えて始める。まずは、プロデューサー。
真のプロデューサーも、というか、この765プロのアイドルは、予算諸々の都合もあり、
たいてい765プロの専属のプロデューサーが担当する。
全部で9人のアイドルがいるのだが、春香のプロデューサーは、その全員のプロデュースをしている。
つまり、真のそのチョコをあげる相手がプロデューサーだとしたら。 


 そこまで考えて、春香は首を振った。
 プロデューサーにあげるものと断定されたわけではないし、
あげるものだとしても春香と同じ想いかどうかはわからないし、
少なくとも今までそんな話を聞いたことはない。
「あらー? 春香ちゃん〜? 春香ちゃんもプロデューサーさんにチョコレートをあげにきたのかしら?
うふふ……プロデューサーさんもモテモテですね〜」
 応接間兼休憩室から姿を現したのは、765プロの最年長者、あずさだった。
「へ!? あ、あずささん? あずささんまで、ってあずささんもオフだったはずじゃ。
そ、それに、春香ちゃんも、って!?」
「……春香。今日、千早とやよいと律子以外は、みんな来てるんだ……」
 真は、指を組んだ手で口元を隠しながら言った。
伺えない表情が、まさに表情をあらわしているようだった。
「千早、は……レッスンって書いてあるね」
 立てかけられているホワイトボードに記載されている、事務所関係者の予定にはそう書いてあった。
やよい律子両名はオフとなっている。
 それを確認してから、気づいた。
 『春香ちゃんもプロデューサーさんに……』
「ま、まさか! あずささん、プロデューサーさんに?」
「ええー。今日は朝からオーディションがありまして〜。そのときに渡すのを忘れてまして。
オーディション終わったあと直帰のはずだったんですが、戻ってきました〜」
 のんびりとマイペースな話し方のおかげでしっかりと理解できた。
「そそそ、その! チョチョコは! ほ、ほ」
 本命ですか!? と聞きたかったのだが、
焦りと、そんなことを聞いていいものかと、言葉に詰まってしまう春香。
「にひひっ。春香も馬鹿ねー。プロデューサーにチョコをあげるっていっても、ただの義理じゃない義理!
そんなに焦らなくてもいいんじゃない?」
 ………。
「な、なによう!」
 部屋の隅にあるプロデューサーの机に
ふんぞり返って座っている伊織は突然静まり返った場の空気に憤った。
 あずさ、真、春香の視線は伊織ではなく、
その伊織の座っているプロデューサーの机にでかでかと置かれている。
あれは彼女の言う義理チョコの常識的な大きさなのだろうか。
春香のかばんに忍んでいるチョコの大きさに比べたら7倍くらい大きい。
だが春香としては伊織がプロデューサーに好感を示しているのはわかっていた。
素直な性格とは言えない伊織だが、だからこそわかりやすい性格でもある。
あの大きい義理チョコには、それだけの想いが詰まっているのだろう。
――強力なライバルが現れちゃったなぁ。
 伊織の押しの強さや可愛らしさは、同性の春香が見ても羨ましく思う部分だった。
「……はぁ。伊織が用意したチョコ……きっとすごい奴なんだろうなぁ」
「そ、そんなことないわよ。
下僕のプロデューサーのものだから、ちゃちゃっと適当に選んだ奴を買ってきたんだから!」
 真のため息まじりの言葉を否定する伊織はどこか必死だった。 


「でもー! いおりん。今日は珍しく、朝一の出勤だったんだよねー!」
「ううう! うるさいわよ! 真美! 余計なことは言わなくていいの!」
 双子のアイドル、亜美と真美はからかうように悪戯な笑顔で伊織をはやしたてている。
亜美も真美も今日はオフなので、おそらく二人もチョコを渡しにきたのだろう。
――亜美も真美も、プロデューサーさんのこと気に入ってるんだろうし……。
 ライバルが次々に増えて、春香もため息をこぼしてしまう。
「あらあら〜、微笑ましいですね〜。伊織ちゃんも亜美ちゃん、真美ちゃんも」
「あ、あずささん。微笑ましい、ですか?」
 あずさもチョコを渡しに来た身だ。それが本命か義理かの判断はわからないが、
もしも本命だとしたら、ライバルの出現を見て、少なくとも『微笑ましい』とは思わないだろう。
少なからず戸惑い、焦りを感じるはずだ。だがあずさにはそんな雰囲気は微塵も感じられなかった。
 これがもしかして大人の余裕という奴なのだろうか、と春香は思った。
 春香の目には、プロデューサーとあずさは、本当に大人なんだなぁと感じていた。
二人でいるときなんかは、二人の間の空気が落ち着いていて、
全く別の世界に放り込まれているような気がするほどだ。
自分がいつか、ああいう雰囲気、空気を出せるとはどうしても思えなかった。
「あずささんは、いいですね」
「?」
「あずささんは。なんていうか、プロデューサーと、お似合いっていうか……」
 その会話が聞こえていたのだろう、そして同じことを感じているのだろう、真は視線を落とした。
 年少組の明るいじゃれ合いに対して、暗くなっていく高学年組。
「……私は、春香ちゃんや、真ちゃんが羨ましいときがありますよ〜?」
「え?」
「そ、そんなあずささん。ボクが、羨ましく思ってもらえるところなんて……」
 あずさは首を小さく、力強く振った。
「春香ちゃんは、すごく一生懸命になれる女の子。ひたむきで素直な女の子。
真ちゃんなんて、とっても女の子らしくて可愛らしくて、真っ直ぐで」
 ふっ、と。あずさの視線が彼方を見るように霞んだ……。
「羨ましいですよ〜」
 刹那もなく、視線は二人に戻されていた。
「あずささん?」
がちゃり。
「おはよーございまー……すって。あれ? なんでみんないるの?」
 明るい空気と暗い空気を混ぜたカオスの領域になりつつあった事務所に現れたのは、律子だった。 



「なるほどねぇ。つまり各々チョコを渡しに来たら、
たまたまみんなと時間がぶつかって、大騒ぎになってしまった、と」
 粗方の事情を聞いた律子は、腕組をして長く息を吐いた。
「こればっかりはスケジュール管理とかするわけにはいかないしねぇ」
「律子さんも、チョコを?」
 まーね、と手に持っていた紙袋を軽く振ってみた。
「とりあえず、高木社長にチョコを渡してくるわ。……今日、社長来てる?」
「さぁ? 今日はまだ会ってませんから」
 それを聞いて律子は眉をひそめた。
「……まさか、春香。社長の分を用意してないなんてことは……」
「あ」
 同時に言葉を零した人が春香の他にも二人いた。真と伊織だ。
言われて社長の分を用意してくるのを忘れていたのを思い出したようだ。
あずさは用意ができているのかにこやかにたたずみ。亜美真美は首を傾げていた。
「まったくー。世話になってる人の分を用意するのは基本でしょう?
そこまでなると、『恋は盲目』という言葉も恐ろしくなってくるわね」
「もうもくー?」
 亜美は首を傾げた。
「前が見えてないって事よ」
「ふんっ。は、春香はいつも見えてないところがあるんじゃない? よく転ぶし」
「い、伊織だって忘れてきたくせにー!」
 眉をひそめた春香を軽くあしらうように伊織は嘲笑してみせた。
険悪な雰囲気とは取れないじゃれ合いのような喧嘩だった。
 二人を尻目に律子は手を叩く。
「はいはい。どっちにしたって今日中に用意できるもんじゃないし。
社長は……おー。今日は接待でいないから、明日にでも渡せばいいんじゃない?」
 それよりも、とつなげて。
「今の貴方たちは、プロデューサーを巡って、騒いでいるわけでしょ?」
「……なんか、そう単刀直入に言われると……」
 真と春香は照れ笑いながら俯いてしまった。
「そ、騒いでなんてないわよ!」
 伊織はそっぽを向いてしまう。
対照的に亜美真美は持ってきているチョコを掲げて「そのとーりー!」とテンションも高めだ。
「………あ、あの。その。律子………さんは。どうなんですか?」
 ……。再び、場に沈黙が流れた。
 全員がその声の主はわかったし、だいたいどこにいるかもわかっている。
だが今の今まで会話に参加してこなかったので、忘れていたのだ。
「……そっか。雪歩もきてるよね」
「あぅぅ、ごめんなさいぃ」
 ゴトゴトと掃除用具が揺れた。おそらく中で謝罪の意味で頭を下げて、ぶつけたのだろう。
 おとなしい性格の雪歩。そんな彼女の魅力を十分把握し育てたプロデューサー。
彼女自身もその友人も、雪歩がアイドルになるなんて思いもしなかった。
また『それを信じ続けることのできる人』がいることもなかった。
だが、プロデューサーは違った。
雪歩の中に眠る才能ではなく、芯の強さ、可能性を見出し、そして信じてくれた。
 そんなプロデューサーが好きだ、と雪歩がいつも言っていたことを春香と真は思い出した。
「ふーむ。本命チョコが確実に4つ、と」
 律子はまるで数式を解くように軽く言った。
「わ! 私は本命じゃないわよ!」
「誰も伊織のこととは言ってないわよ?」
 伊織はしまった! と気まずそうに口を開いた。
 言ってなくても、伊織が本命であることは間違いないと確信している律子。
真、春香、掃除用具入れもとい雪歩。 


――プロデューサーもモテモテね。
「律っちゃん? 怒ってるの?」
「え? な。なんで?」
 声が裏返ってしまった。
突然「怒ってるの」なんていわれたらびっくりするではないか、と心でツッコミをいれておく、
そうやって自己暗示をかけている。
 そうやって感情に理性のメガネをかけるのだ。
 誰にも話してない秘密。彼女もプロデューサーが好きだということ。
自分がアイドルという身を思い、想いを遠慮しているだけではない。
アイドルになったということだけで、夢の様な、魔法の世界に送られた気持ちなのに、さらに恋。
現実的な彼女だって、目の前のあふれる想いをこらえられるほど大人ではない。
恋に恋する少女なのだ。だが、アイドルの世界に片足を踏み入れられただけで奇跡だというのに、
自分の想いを遂げられることなんてあるのだろうかと思うのだ。
メガネに、冴えてるとは言いがたいルックス。お世辞にも可愛いいとは言えない性格。
その自分を形作るものすべてが彼女の理性となり心のメガネになっているのだ。
黒いサングラスのようになにもかもを不鮮明にしてしまえば、きっと辛くないんだ。
そんな想いで、今日を迎えた。
 手作りなんてものには程遠い市販のチョコ。伊織が買ってきたものに比べたらかなりの見劣りがあるが、
それでも一生懸命いろいろなことを考えて買ってきたチョコだ。
それを、いつもお世話になっているということを理由に渡すくらい、許してほしかった。
誰に許しを請うわけではない。ただ、そうやって自分にあきらめを見せなければ、
どんどん夢を見てしまいそうで、夢だけが一人歩きをして、いまいる自分だけが取り残されて、
寂しい思いをしてしまいそうで、怖かったのだ。
「律っちゃんも兄ちゃんのことが好きなんだよねー?」
「え?」
 真美が漏らした言葉は、真や春香たちだけではなく、あずさや、律子自身も驚かせた。
「えー!? そうなの? 真美―?」
 亜美も驚いている。どうやら二人の間には同じ認識はなかったようだ。
「なにいってんのよ、真美。なんでもそうやって恋の話に持っていこうとするのはいけないわよ?」
 律子は、少しだけ疲れた表情で真美に笑いかけた。
「律っちゃんも、駄目だよ。素直にならないと」
「ま、真美……」
 亜美が真美の服のすそを軽く引っ張った。状況は他のみんなと同じようにおいてきぼりな所もあるが、
亜美は、真美の真剣な表情になにかしらを読み取ったらしい。心配そうな顔で、真美と律子を見比べた。
「律っちゃんは違うって言ってるんだから、あんまり……」
 真美を留める言葉が見つからず、亜美はおろおろしてしまう。
「……」
「……」
 互いに無言になってしまった。
 春香たちもなんだか言葉が出しづらく、再び重い沈黙が流れた。
「……」
 遠くで微かに話し声が聞こえる。誰かが会話をしながら事務所にやってくるようだ。
階段をあがる音が大きくなるにつれて会話の内容も聞こえてくる。
 真面目な音楽用語とスケジュールの打ち合わせのようなものが聞こえてくる。
 春香たちの顔に明るい色が戻ってきた。聞き覚えのある男の人の声。
この声は765プロを支えているプロデューサーの声だ。
 がちゃり、と入り口の扉が開いた。
「おお、おはようございます!」
 真と春香は背筋を不自然に伸ばして挨拶をした。
後ろの方の掃除用具入れでも比較的元気な声がしたが
二人の声に完全に消されてなかったことにされてしまった。
「……? みなさん? そろってどうしたんですか?」
 顔を覗かせたのはプロデューサーではなく、千早だった。
「? みんながそろっているのかい?」
 次いでプロデューサーが現れる。
「お、みんなオフなのに事務所に来るなんて、珍しいな。自主レッスンかい?」
 部屋にいるアイドル達ににこやかに笑いかけるプロデューサー。
アイドル達の瞳が輝きを放っていることに、
その光が自分に向かっていることにはまったく気づいていない様子だ。
 この瞬間から彼女たちの戦争は始まった。
 春香は気づく。自分の視界の中にいつの間にかあずさがいなくなっていることに。
プロデューサーが来たことを感じたあずさは自分のかばんの中から持ってきたチョコを探し始めたようだ。
だが持ち前の天然さのせいか、なかなか見つからない。 


 スタートの遅れたあずさ。一方春香の手元にはすでにチョコがある。
後はこれを渡せばすべては決まる。だが、その場を動けない。緊張して渡せないというのも当然あるが、
いきなり「チョコです!」といって渡すのはあまりにも風情というかロマンがない。
しかも周りにはライバルがいるのだ。だが、あまり悠長にやっていると一番最初にチョコが渡せない。
一番最初である必要があるかどうかはわからない。
だけどなんだか先を越されてしまったような気になってしまうのは嫌だった。
 そんな微妙な硬直時間。その隙をついたのは……以外にも千早だった。
「そうです。プロデューサー」
 隙をついたというよりも、事態を理解していないだけなのだが。
「今日はですね。これを……お渡ししようと思ってレッスンの時間を合わせたんです」
 千早は急に静かになった場に気づいていないのか、さっさと自分のロッカーを開けて、
中からシンプルな包み紙の四角いものをだした。
「!!!」
 その場にいる全員が驚いた。まさか千早が! といった気持ちだった。
実際に亜美は口から声が飛び出しそうになった。
 あまりそういう浮ついたイベントごとには手を出さないと思われた千早が、
あまりにもあっさりとチョコを取り出した。
――あの千早が恥ずかしげもなく出すチョコってことは。おそらく義理チョコよ……。
 瞬間的に冷静に分析をしている律子。そんな自分に気づき頬を染めた。
――あれが義理チョコかどうかなんて、私には関係ないじゃない。……関係、ないじゃない。
「プロデューサー。いつも、お世話になっているので……
町の雰囲気に流されたわけではないのですが。こんな物を用意してみました」
 千早が大切そうにチョコを差し出した。その行動に小さく「おぉ」っと歓声のようなもものがあがった。
「? ありがとう千早。……あー、そっか。今日はバレンタインか」
「な! そそ、そうですけど。そのチョコはいつもお世話になっているお礼で!」
 バレンタインという言葉が出た途端にわたわたと慌てだす千早。
この段階で春香とあずさと律子は何かを予感した。
「わかってるって、でも、ありがとな、千早」
 屈託のない、少し失礼な言い方をすれば子供のような無邪気な、
それでも包み込むような大人の笑顔が千早に降り注ぐ。
「……!」
 千早は言葉を失うと、顔中真っ赤に染めて踵を返した。
「わ、私は、レッスンに戻ります。
プローデューサー、新曲の仕上がりを見て欲しいので後で顔を出してください」
 ロッカーにしまってあったかばんから、タオルを取り出した。
「では……私は」
「あー! 千早お姉ちゃんのチョコ! ハートの形になってるー!」
「ふあ!」
 亜美の大声に千早はタオルを落としてしまった。
「おー、結構凝ってるなぁ」
 プロデューサーは、もらったばかりのチョコの箱を開けて、中のチョコを見ていた。
その後ろから亜美がプロデューサにしがみ付きながら覗いている。
「おー『アイラブユー』って書いてあるー!」
「本当に!?」
「うっそ!?」
「嘘です! そんなことは書いていません!」
 千早は慌ててプロデューサーの下に駆け寄った。そしてチョコの入った箱を傾けて中を確認した。
チョコの表面には普通に英文字で『ハッピーヴァレンタイン』と書かれているだけだった。
「……ふぅ」
 何かに安堵したように千早。
「ありがとうな千早」
「こ、こういうのは本人のいる前で開けるものではないと思うのですが」
 お、そうか。とプロデューサーは頭を掻いた。
「でもでも。チョコがはぁとの形だねー!」
 亜美がからかうように笑った。
「!」
 千早がまた真っ赤になる。
――まさか、千早ちゃんもプロデューサーのことが?
「っ! と、とにかく食べてくださればそれでいいんです!」
 千早は何を思ったのか、おもむろにチョコを掴みそれを思い切りプロデューサーの口に突っ込んだ。
「もご! むごもごご! むごご?」
 無理に突っ込まれたチョコをゆっくりと噛む。ほろ苦いちょこに少しだけ甘いクリームの味が広がった。
「おいふぃいよ、千早」
 ふてくされたように唇を尖らせている千早。そんな彼女に何を言っても無駄なのは、
付き合いの長いプロデューサーにはわかっていた。
 だから。だから、それは深い行為ではなかった。
 プロデューサーの手が千早の頭に置かれた。そして、ゆっくりと千早の頭を撫でた。
「ありがとうな……」
「あ……」
 !!!!!!!!!!!!!!!!
 空気が振動したようだった。もしもその場を表現できるとするならば、
ムンクの叫びの行列がジェット気流に巻き込まれてしまった、とでも言うのだろうか。
 その中にいるほぼすべての少女が思った。
 『なでなで! 羨ましい!!』 


 その中で一番憤りを感じていたのは伊織だった。
 みんなしてあまりの出来事に呆然としてる中、
座っていた椅子から思い切り立ち上がりツカツカと千早とプロデューサーの前まで歩み寄った。
「ちょっと! あんた! ほら!」
 持っていたチョコを差し出した。
「あ……」
 軽く千早を押しのけた伊織。ちらりと千早を睨む。
――ラブラブな雰囲気なんて許さないわよ! こいつは、私の下僕なんだから!
「お、伊織もくれるのか? ありがとうなー」
 ナデナデ。
「!!! ちょ! 子供扱いしなでいでよ!」
「あー! いいなー! いおりん! 真美、真美! 亜美たちもちょこあげよう!」
 真と春香は完全にその場の流れについていけず、チョコを持ちながらまごついてしまう。
「あらあら〜、そうしたら、私も渡しておかないと……」
 こんなときだけ身軽なあずさはそそくさと亜美真美の後ろに続いた。
「えっへっへー。兄ちゃん。これ、あげるよ」
 亜美がひらひらと得意げにチョコを振った。
「おー。亜美もくれるのか」
「? 亜美だけじゃないよ? 真美も……」
 亜美の名前しか言わなかったプロデューサーに不機嫌そうに唇を尖らせた、
だが真美に振り返ってみて、その意味がわかった。
「真美?」
 ここに来る前に一緒にプロデューサーにあげようね、って約束をしたはずだったのだ。
それなのに真美は何を躊躇しているのか、チョコを抱えたままうつむいている。
「……どうしたの? 真美―?」
 顔を覗きこむ。真美の表情は浮かない。
「……」
 覗きこんできた顔を見つめ返す。自分とそっくりな顔がそこにあった。
双子の姉妹なのだからそっくりなのは当たり前だ。
だが、考えることや、笑い方などははたして同じだろうか。
これは自分を映す鏡だろうか。
そんな考えが沸いて、すぐ水泡のように消える。
同じことを思っていたら、自分はこの自分とは非なる存在をどう思うようになるだろうか。
 真美は思う。
この大切だと思う人の次に、ほんのミクロの差もなく大切な亜美を嫌いになることがあるのだろうか。
争うことがあるのだろうか。もしも、自分と同じ気持ちを抱いていたら、二人はどうなるのだろうか。
グルグルと思考が回る。
 痛みすら感じてきそうな思考を繰り返す真美とは反面、
亜美は表情の暗い真美を気遣ってか明るい笑顔を向けている。
 ……。
「真美も? チョコ持ってきたでしょ? 兄ちゃんに渡そうよ」
 亜美はチョコを持った真美の手をとった。
そしてもう一度にこりと笑うと、強引にプロデューサーの前に差し出した。
「はい! 兄ちゃん。これ亜美達から! 
いつもありがとうっていう感謝の気持ちと、大好きって気持ちだよ」
 真美の背がぴくりと言葉に反応した。うつむかせていた顔を慌ててあげて亜美の顔を見た。
 亜美は悪戯な笑顔で満面の笑みを浮かべていた。いつもと同じ表情同じ笑い方。
それは真美自身が本来持っている笑顔だったのかもしれない。
だけど、いま、プロデューサーに抱いている想い、その想いの先にある不明瞭な世界に不安を隠せない。
「おー、亜美も真美もありがとうなー」
 だけど、プロデューサーの笑顔を見ていると安心する。
暗くなっていた気分が太陽に照らされたような気分になる。
――不思議だよ。兄ちゃん。心がグルグルしてるよ。楽しいんだか苦しいんだかわからないよ。
「? どうした真美? どこか痛いのか?」
 どこか切なげに見えたのだろう。プロデューサーも真美の顔を覗きこんだ。
「あ、ち、違うよ兄ちゃん。ちょっと、昨日夜更かししちゃって」
「そうか? アイドルは体が資本なんだから、あまり無茶するなよ」
 優しい言葉が心地よい。
だけど、それはアイドルとしての自分を気遣った言葉だと気づくと、途端に苦しくなる。
 不意に自然に足が前に進んだ。
すぐ目の前に大好きなプロデューサーの顔があったから、ついふらりと引き寄せられてしまったのだ。
「ま! 真美!?」
 驚いたプロデューサーが思わず顔を引いたが時すでに遅し、
真美の柔らかな唇が、プロデューサーの頬を奪っていた。 


「アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
事務所からいろいろな悲鳴が沸き起こった。
 その声に我に帰る。少し驚いているプロデューサーや、背後から感じる殺気に似た視線。
真美の背中に嫌な汗が滲んできた。
 ついやってしまったこととはいえ、取り返しのつかないことをしてしまった。
どうにか繕わなければいけないと思い、
「えへへ、チョコあげたんだから、そのお返しをもらったんだよー」
 と、勤めて明るく声を張り上げた。
「ちょっと、真美! お返しはホワイトデーにもらうものでしょう?」
 伊織が青スジを浮かばせながら、真美の胸倉を掴んだ。
「わわわ。いおりん落ち着いてよ!」
 ぐわんぐわんと掴まれた胸倉を振られる真美。
「た、助けて! 亜美! 律っちゃん!」
 たまたま近くにいた二人に助けを求めるが、
「まー、自業自得だよね」
 亜美は苦笑しながら、
「伊織、とことんやっていいわよ」
 と、二人に見放された。心なしか、律子の機嫌が悪いように見えた。
――なんで真美が! 真美が! こいつのほっぺを!
 本人は特に気にしてもいないのだろうか、
プロデューサーは、伊織と真美のじゃれあいを見て、苦笑いしている。
――こ、こいつは! 私のなんだから!!!
 伊織は少し錯乱していたのだろう、プロデューサーの顔を思い切り掴んだ。
逃げられないように固定したのだ。
 そして、勢いよく唇を近づけようとして。
「はいはいはい! あんまり暴走しない」
 今度は完全に行動を読んでいたのだろう、律子が伊織の頭をしっかりと受け止めていた。
「り、律子! ちょ! 離してよ!」
「そういうわけにはいかないわよ、あんまり暴挙を振るっちゃ駄目よ」
「あ、あんたにとっては暴挙でもなんでもないでしょ!?」
「……とにかく、落ち着きなさい!」
 律子が珍しく声を荒げた。伊織は肩を震わせると、すぐに身を縮めた。
「ど? どうしたんだみんな? 今日はなんか変だぞ?」
 何も気づいていないプロデューサーは、どうにもおかしい雰囲気に首を傾げた。
「……」
 伊織が律子の袖を引っ張り、自分に方に引き寄せた。
「?」
「ちょ…ちょっと。こういさせてよ」
 伊織は、なぜだか律子の胸に自分の顔を埋めていた。
「い、おり?」
「いいから……」
 伊織はどうしても律子を放さないつもりなのだろう、握られた袖は、力強く握られている。
 ふと気を抜くと、しずくがこぼれてしまいそうだったのだ。伊織はどうしてか涙がでていたのだ。
律子に怒られたことも関係あるのだろうか、なぜだか悔しい気持ちでいっぱいだった。
その理由は、この年頃にしてははっきりと、理解していた。真美がプロデューサーにキスしたからだ。
キスなんてなんてことはない、英国ではあいさつの一部だ。
だけど、そんな納得させるための言葉がでることからすでに許せなかった。
伊織は我侭な自分を知っている、なんでも一番がいい。一番であってほしかった。
だけどすべてが手に入らないことだって、少しずつ理解してきた。だから、少々の出遅れは理解していた。
実際あずさや律子などの方が、対外的には合法だ。
それはしょうがない、彼女の心の表面は認めていないが、
大好きなプロデューサーにロリコンのレッテルが貼られるよりはマシだ。
だが、それが。自分とほとんど年齢の変わらない少女に、可愛い後輩に、先を越されるなんて、
屈辱と言っていいほどの悔しさがあった。
「ふぅ……春香、真、あずささんも、ちゃっちゃと渡しちゃってください。
なんかややこしくなってきたので」
 律子は、このままではいけないと考えたのか、勤めて事務的に処理しようと考えた。 


「う、うん」
 春香達も、ここはとりあえず、なんとか収拾をつけようと思ったのだろう。
用意していたチョコを一斉に手渡した。
「いつもお世話になっています。これからもよろしくお願いしますね、プロデューサーさん」
「ボク、あんまりこういうのやったことないんで。ちょっと緊張しますけど。
……これ! どうぞ! 手作りじゃないんですけど……」
「どうぞ〜。こんなものしか用意できませんでしたけど〜。
お隣のおばあさんに教えてもらった、おいしいチョコ屋さんのチョコに作り方を教えていただいて〜、
少しアレンジしてみたんですけど〜、その途中で〜」
「あははは、ありがとうございます。いやー。まさかこんなにもらえるとは思わなかったなぁ」
「あはははは……そ、そうなんですかぁ」
 春香は微妙に引きつった笑いだ。
自分としてはちょっとだけアピールをしているつもりだったから、
少しくらいは気づいてくれていて欲しかった。
気づくまでいかなくてもちょっとくらい期待して欲しかった。
「チョコの食べすぎで体調を壊さないようにしてください。
レッスンやオーディションに支障があるといけませんので」
「そうね。自己管理はしっかりしてくれないと困るわね、プロデューサーなんだから」
「……ま、あんたなんかいなくても、別に大丈夫だけどね」
「いおりんー。プロデューサーがいないときいつも、いじけてるくせにー!」
 顔を伏せていた伊織も平静をとりもどしたのか思い切り顔をあげて、亜美を睨んだ。
「な! いじけてなんてないわよ!」
 なんとかいつもと同じ空気が蔓延し始めてきた。ほっと撫で下ろした律子。
だが、そこに。嵐、とでも言おうか。もとより元気な台風のような少女が舞い降りてきた。
「おはよーございまーーーーーす!」
 この765プロで最も元気な少女、高槻やよいだ。
「あれー? 皆さん、今日オフじゃなかったんですかー?」
「いや、まぁ、いろいろあってね」
 律子の苦笑交じりの茶の濁し方に首を傾げるやよい。
しかしプロデューサーを見つけるとぱっと表情を明るくさせて、近くにいるというのに小走りで駆け寄った。
「うっうー! プっロデューサー! おはよーございまーす!」
「お、やよい。おはよう。今日も元気だな」
「えへへー」
 やよいの頭を子犬にするように撫でるプロデューサー。揺れるツインテールが犬の尻尾のようだった。
「プロデューサー! これ! どうぞ! 今日はバレンタインデーですので!」
「おー。ありがとう、やよい」
「えへへ。今年はバシーっと気合を入れて作りましたー! 甘さが控えめのビターチョコです!」
「へー! 手作りなのか? 大変だっただろう?」
「うっうー。学校の調理室を借りて作ったんですが、
あまりにも時間がかかっちゃって、先生に怒られましたー」
 純粋な笑顔で笑うやよいを見て、他の春香たちは微笑ましい気持ちになる。
だが、ちょっと待てよ、と律子は違和感を覚えた。
さっきは千早が撫でられていただけでてんやわんやだったのに、
どうしてやよいだとこうも許容できるのだろうか。
やよいがライバルとしての資格がないからか? 
どちらかと言えばプロデューサーとやよいは
仲のいい兄妹といった風に見えるからそんな気持ちが起きるのだろうか。 


「ははは。やよいらしいな。学校で作ろうってところが、なんともな」
「そ、そうですかー? 家だと、調理器具が少なくて。大変だったから……」
 包装紙も自分で購入して自分で包んだのだろう、
手作り独特のいい意味でちょっとした精細さの欠いたところがやよいならではと言える。
「あ、あの。ですね。プロデューサー。……それで、ですね、そのちょっと早いんですけど……
いま、少しだけ、ホワイトデーのお返しをいただいてもいいですか?」
「? いいけど? 何も用意してないぞ?」
 やよいの声が小さくなっていたこともあるだろう、若干やよいの周りの空気が変化したことが、
思考モードに入っている律子の目に入らなかったことも原因だろう。
やよいの次の行動は、真美のしたそれよりもさらに予測不可能なものだった。

 ハグしたのだ。

やよいは「それでは失礼します」と小さく断ってから、プロデューサーに思い切り抱きついたのだ。
 プロデューサーに抱きついたやよいは、優しく、だけどできるだけ自分の体に
そのぬくもりが伝わるように強く力を込めた。
そして、愛しいプロデューサーの大好きな陽だまりのような香りを鼻腔に思い切り吸い込ませた。
その香りは上質なワインの香りのようにやよいの意識を酔わせるかのようだった。
「うわわわわ!!!! 何してるの!? やよい!」
 思考がようやく動き出した春香が慌ててやよいを引き剥がそうとしたが、
やよいはひらりとそれをかわすと、
「えっへっへ。ごめんなさーい」
 やよいは慌ててその場から逃げるように、事務所のドアを駆け抜けていった。
「こらー! やよいー! まちなさーい!」
「やよい! あんた! うらやま、じゃなくて! なんてことをー!」
「いおりん! 取り繕えてないよ?!」
「ちょ! みんな落ち着きなよ!」
「あらあら〜?」
 律子以外のアイドル達は、自分がアイドルであることを半分忘れてやよいを追って出て行ってしまった。
「……なんだ? みんなどうしたんだ?」
「はぁ……それはわざと言ってるんですか?」
「? 何がだ?」
 事態を把握していないプロデューサー。
 これのどこがいいんだか。律子は自分のチョコをとりだして、それをそっけなく差し出した。
「……これ、一応私からもあげておきますよ」
「お、さんきゅー」
「当然、3倍返しですからね」
 おどけて言った律子に「えー」っとうめき声をあげるプロデューサー。彼は少しだけ考えると、
「とりあえず、これくらいでいいか?」
 律子の頭を撫で始めた。
「! こ、子供じゃないんですから! やめてください……」
 そういいながらも、なぜだかその手を振り払えなかった。
みるみる間に律子の頬はりんごのように赤く染まっていった。
 律子とプロデューサー以外いなくなった部屋で、静かに静かに時は流れていく。
舞ったりとした空気がそうさせているのだろうか、撫でられている頭をふと感じながら、
たまにはこういうのも悪くないか、と諦めたように律子は自嘲した。


 さて、そのすぐ後ろの掃除用具の中。
そこには出てくるタイミングを完全に失った雪歩が、めそめそと泣いていた。
「うぅ、存在を忘れられている私なんて、穴にうまっていればいいんですぅぅ」


<The END> 



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