亜美と真美と二人の心

作:@クラ

 空は青い。
 今日も何事もない世界。
 いつもと同じ通学路をいつもと同じに歩き、
 そしていつもと同じにクラスメイトと挨拶を交わし、
 いつもと同じように授業を受ける。
 そして時間は過ぎていく。
 どうしてだろう。
 思う。
 ぼーっとしながら、とめどなく考える。
 何を、というわけではない、とりとめのないことばかりだ。
 だが、一貫して思うことがひとつ。
 最近の自分はどうしたことだろうか、と。
 時々青い空が、彩り鮮やかに見えたり、生気を失ったように見えたり。
 変な霊感がついてしまったんだろうかと思った。
――霊感なんかじゃ、ないんだよね。
 実質が捉えきれないところは、霊感と似たようなものだ。
「あ〜」
――これって、恋なのかなぁ?

 きぃこ。

 ブランコの軋む音が相槌を打ったような気がした。
 当然そんなわけはないのだが。
 今の真美には、何もかもが、アレのことにとらわれてしまっている気がした。

 もうなんというか、あまり大声で言えることではないのだが、
 端的に言えば寝ても覚めても常に頭の中である人のことをいつも考えてしまうのだ。
 それは誰でもない、彼女の所属する芸能プロダクション765プロのプロデューサーである。 


 真美、そして、双子の片割れである亜美は765プロでアイドルをやっていた、
 学業や出席のことも考えて二人で一人のアイドルを演じているのだ。
 今現在はゆったりとした活動を続け、
 固定のファン層を持つ根強い人気の低年齢アイドルという位置にいた。
 そのプロデュースをしてくれる人物が、いま現在真美の心から離れない、現在のプロデューサーなのだ。
 彼との出会いは、普通だった。
 一緒にいた時間もたくさんあったわけではなかった。だけど、好きなのだ。

 過去。
 真美は、あるいたずらを考えた。
 亜美と真美のトレードマーク、ある意味では見分け方とも言うべき、髪形を変えて。
 プロデューサーに亜美の真似をして困らせてみようと思ったのだ。
 二人の性格は見分けのつかないほど似ていたし、絶対にわからないと思ったのだ。
『にーちゃーん! おっはー!』
『おう、真美。おはよう。今日も元気だなー』
 さらりと言われたのを覚えている。
 だが、それは自分を真美だと思っているだけだと思ったいた。
『やだなー、兄ちゃん! 亜美は、亜美だよ!』
『? なにいってんだ? ははーん。さては、髪型変えて、亜美の真似をしてるんだな?』
『え? ち、ちがうよー! なにいってんのー! 兄ちゃんたらー!』
 パソコンを打っていたプロデューサーは、ぴたりと手を止めて、じっと真美を見た。
 そして、
『やっぱり真美じゃないか』
 はっきりと言った。
『いくら真似て、似てるって言ってもわかるぞー』
 苦笑をもらすプロデューサーの横で、
 なぜだか心臓が締め付けられるような気持ちがわいてきたのを真美は忘れることはなかった。 


 亜美と真美は二人で一人のアイドルを演じている。だが、名前を売り出しているのは亜美だ。
 だから世間の人たちは、真美を見かけても、真美を『亜美』と呼ぶ。
 実際二人の正確に目立った差異はないため、それが真美か亜美かを区分けする線引きはかなり難しい。
 彼女達の友人や親ですら、亜美と真美を同じ髪型にさせてシャッフルしたら、
 どっちがどっちかわからないことだってしばしばある。
 真美は亜美にも言ったことはなかったが、真美は時々自分の存在を疑うときがあった。
 自分は、亜美の代役で生まれてきた、影だったのではないかと。
 今まではそんなことを考えたこともなかった。
 だが、最近。
 アイドルをはじめるようになってから、少しずつそんなことを考えるようになってしまった。
 そんなことを考えては、心を痛め、ため息を零すようになってしまった。
 いつもは楽しく能天気にはしゃいでいたはずなのに。
 今の真美は、完全に憂鬱をしょっているのが丸わかりだった。

「あーあ。どうしたらいいんだろ。兄ちゃん。真美は、どうしたらいい?」
 誰もいない公園で、ふとつぶやく。
 否、それは違った。
「なに黄昏てるのさ? 真美」
「へ?」
 情けない声で反応する、慌てて顔をあげるとブランコの柵の外に同じ事務所のアイドル、
「律っちゃん……」
 秋月律子が立っていた。
「どうして、律っちゃんが……」
「どうしてってことはないわよ。
 たまたまここを通りかかったら、沈んだ様子の後輩アイドルがいたってだけよ」
「……律っちゃん」
「? どうしたの? 悩み事? お金とかの問題なら、なんとか計算してみるわよ?」
 計算で解けるものだったら、それもありだな、と思った。
「じゃあ。解いてみてよ」
「あいよ。んで? 何を?」
「恋?」
 がくりと、どこからかソロバンを取り出していた律子はお笑いコントよろしくな感じでコケた。
「こ、恋?」
「もしくは、真美の、いる意味を……」
「……真美」
 やや尋常ではない発言に、律子は不安を覚えた。
 765プロの中でも真美は高槻やよいとひけをとらないくらいの元気な少女だ。それなのにこの沈みよう。
――年頃の少女になってきたってことだとは思うんだけど。さすがにちょっと悩みすぎよね。
 年頃の少女だから、色々多感なものだ。この頃は律子だって色々悩んだ。
 いや、今も当然悩んでいることはあるが、まだ幼かったときは、律子もこうやって一人苦悩したものだ。
「真美はね。亜美と一緒に生きてきた。
 アイドルになる前は、亜美も真美も二人で一緒に色々やってきたんだ」
 亜美と真美の仲の良さは誰もが知っている。
「アイドルになってから、真美は、亜美の代わりとしてずっとやってきた。亜美と真美は、同じだから。
 だけど、真美はアイドルやってる間、ずっと亜美だった。……そうしたらね」
 ふと、真美の脳裏を記憶がかけていく。
 いままでにあったこと、やってきたこと、全てが流れていく。
 その全てに亜美がいた、その全てに亜美の隣にいる真美がいた。
「真美は、ずっと亜美の影でずっと、真美だってわかってもらえないようになるんじゃないかって、
 そんなことを考えるようになって! 真美は……真美は」
 漠然とした不安。 


 アイドルになって、己を出すはずだった世界が。
 真美という存在をかき消してしまうんじゃないかと不安だった。
「怖いんだよ、律っちゃん」
 体を抱くように小さくなってしまう真美。
「本当は二人で楽しくやっていくはずだったアイドルが、真美のことを消しちゃうみたいで、
 真美が消えて、亜美だけどっかに行っちゃうみたいで」
 そして……
――兄ちゃんが亜美だけを連れて行ってしまうみたいで。
「真美」
 律子は、柵をまたぎ、真美のもとに寄り添った。そしてやさしく頭を撫でる。
「わかるよ。その気持ち」
「え?」
 律子の言葉に真美は、涙目になった瞳を向けた。
「私もね、今でこそ、アイドルをやっているけど。
 それまでは765プロで事務をこなしてただけの、ただの女の子だった」
 律子がアイドルになる前、自分がアイドルになるなんて考えもしなかったときだ。
「だけど、ウチのおとぼけプロデューサーがさ、
 『律子! お前、アイドルになれるぞ!』って言い始めてさ」
 そのきっかけは、
「ちょっと私が『私みたいな冴えない女の子には夢のような世界よね、アイドルは』って言っただけなのに」
 それをプロデューサーは、必死でそうじゃないと否定した挙句、
 律子をそこそこ有名なアイドルにしてしまった。
「アイドルになってすぐに、これは夢なんだと思ったわ。
 自分の中では夢の世界だと思っていたんだもん。そりゃ、当たり前よね?」
 そんなに昔のことでもないのに、どうしてかやけに過去のことに感じる話だと、律子は思った。
「ライブに出ると、ファンがいて。それを支えるスタッフがいて。それに答えるアイドルの私がいて。
 だけど、それが魔法だったんじゃないかって。
 夜の12時を過ぎると途端に何もなかったように消え去ってしまうんじゃないかって、心配だった」
「……怖かった?」
「そりゃあね」
 律子は頬を掻きながら苦笑いした。
「毎度毎度、あのプロデューサーもテンヤワンヤで、
 ぶっつけ本番だったり、トラブルありのハプニングありの……」
 そういうトラブルがあったおかげ、とまでは言わないが、
 それでも『夢の姿』であったアイドルという立場になっても
 彼女らしさが失われなかったのは、少しでも起因していると律子は思っている。
 天然なのかそれとも策略なのか、
 彼がもらたしてくれたアイドルの日々はとても楽しく、かけがいのないものだ。
「だけど、やってきたことの辛いことも嫌なことも、楽しいことも全て、
 なんだかんだでよかったかなぁ……なんて思うときもあるのよ」
「……律っちゃん」
「まぁ、過ぎたからこんなことも言えるんだろうけどねぇ」
 なんか年寄りになったような発言に微妙な苦笑がでてしまった。 


「そ、れ、に!」
 律子は真美の頭をぐっと抑えるようになでる、
「なーにが、亜美の代わり、よ! 真美は亜美の代わりなんかじゃないよ!」
「え?」
「ったくー、プロデューサーも、真美がこんなに悩んでいるのにほっぽといて〜」
「ちが、ちがうよ! 律っちゃん! 兄ちゃんは悪くないよ!」
 真美はあわてて律子の手を払い、腕を掴んだ。
「……あ、あら。そうなの?」
 ちょっと圧倒されそうな語調に律子は戸惑う。
 そして、ふと気づく。
――ああ、そうか、真美は、アイツのことが……。
「あはは、ごめんね、真美。そう、そうだよね」
 頼りないとこばかりだけど、でも律子の中にいるプロデューサーが人の気持ちを見てないことはない、
 鈍いところもあるけれど、それでもあのプロデューサーという人間はどこか安心できる空気を作る人だ。
――そんなあいつだから私は……。
 ふと、次の言葉が沸いてきて、
「ごふ! げふぉ!」
 あまりにも自然にでてきた、ちょっと恥ずかしい言葉に驚き律子は咽返ってしまった。
「律っちゃん?」
「いや、あはは。ごめんごめん、ちょっと咽ちゃった」
 ピリリリリリ。ピリリリリリリリリ。
「っと」
 律子の携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「ちょっとごめんね」
 律子は一言断ると慌てて電話を受けた。
「はい? もしもし」
『お、律子か? 俺だ』
「……どちらのオレオレ詐欺様でしょうか?」
 声の主はわかっていたが名乗らない相手に対し、
 少しだけ意地悪な気持ちが沸いて、そんなことを言った。
『あはは、手厳しいな律子は。お前のプロデューサーだよ』
「もう! ちゃんと名乗るようにって言ってあるでしょう?
 営業とかしてるときも名乗らないとかってことありませんよね? まさか」
『な、ないない! そんなことないぞ!」
「ちょっとどもりましたね? ……まぁそれはいいとして、なんですか? 今日はオフの日ですけど」
 不機嫌そうな振りをしておく。あまり、オフの日に仕事を持ち込まれるのは好きではない。
 メリハリをつけないといけないと思うからだ。
 振りなのは、それでもアイドルという仕事が結構好きだからなのだが。
『ああ、えっとだな。亜美と真美を見かけてないか?
 あいつら、今日レッスンなんだが、まだ来てないんだよ』
「亜美と、真美。ですか?」
 真美は自分のすぐ隣にいることを確認するように、ちらりと横目に真美の姿を確認する。
「?」
 自分の名前、そして亜美の名前がでてきたので、真美は少なからず興味を覚えたようだった。
 ちょこちょこと、律子の携帯を盗み聞こうとつま先立ちをするが、
 若干背丈が足りず、薄くしか音が届かなかった。 


「実は、真美は、いまここにいるんですけど……」
「……? 兄ちゃん、怒ってる?」
 レッスンをさぼってることがバレているのだと思った真美は、苦い顔になった。
 こうなるとはわかっていたが、プロデューサーの困った顔や怒った顔を想像すると、心が痛くなる。
――レッスンにいっても、いかなくても辛くなるなんて、どうしたらいいんだろう……。
 大きくため息をつく真美の隣で、
 律子はふんふん、電話口で何度か頷くと、最後に「わかりました」とだけ言って電話を切った。
「真美。今日、レッスンだったんだって?」
 にっこりと笑う律子だが、その額には薄く青筋が見え、たような気がするほどのオーラがでていた。
 真美はそのオーラを目の当たりにして、
 兄ちゃんの前に律っちゃんだったー、と心で舌をちろりと出しておどけてみたが、
 それを実際にやる気にはならなかった。
 絶対に怒られることを確信していたからだ。
 律子の性格、立場からしても、レッスンをサボるなんてことは言語道断だ。
 真美にはギロリと眼鏡の奥の瞳に大きな牙を剥いた狼が潜んでいるように見えた。
「……あ、あはー。……ごめん、なさい」
 素直に謝る。
 真美に非があるのは当然だし、真美だってやってはいけないことがあることは知っている。
 怒られることは必然として受け止めた。
 ……雷が落ちると思っていたので身構えていたが、その気配はなかった。
「……はぁ。次からは気をつけなさい」
 眼鏡のフレームの位置を直しながら、ため息をついた。
 どこか、呆れとは違ったそれに、真美は敏感に反応した。
「律っちゃん?」
 憂いたともとれる表情。いつもなら雷が落ちるのに、そうでない。
「どうしたの?」
「何が?」
 「いつもなら、ここで雷が……」と恐れ多そうにもじもじと言うと、
「な、なによそれー」
 カラカラとした笑いが漏れた。
「まぁ、レッスンのサボりの一度や二度や三度くらい、あるでしょう」
「律っちゃんも、あるの?」
「そりゃあ、……」
 軽く宙を見て、
「……ねぇ?」
 苦笑する。
 色々あるってもんよ、と心中でぼやく。
「……亜美まで来てないって言ってたけど、何か知ってる?」
「亜美、も?」
 亜美と別れたのは、学校の校門前だ。
 「一緒に事務所に行こう」と言われたのだが、先に行って、とそれを断ったのだ。
「ううん。わからない。真美、てっきり先に言ってるんだと……」
 いつもと変わらない笑顔で、いつもと変わらない様子で分かれたはずだ。
 もし、その亜美がまだ事務所に来ていないなら、
「もしかして、なにかあったのかな?」
「……亜美のことだから、どこか道草食ってるだけだと思うけど」
 真美は慌てて自分の携帯を取り出し、亜美の番号を参照し、発信ボタンを押す。
 やや間をおいて、発信のコールがされた。
 2度、3度。
 繰り返される単調なコールは、亜美のコロコロと明るい声に取って代わることはなく、
 留守番電話になることもなく続いていた。
「電話に出ないよぉ、律っちゃん」
「と、とにかく。お互いに連絡を取り合いながら手分けして探しましょう!」
「う、うん!」
 律子と真美は互いに頷きあうと、それぞれ別の方向に駆け出していった。 


 場所は変わり。
 喧騒な町並み。
 どやどやと行きかう人の群れは各々の速度で、何事にも干渉することもなくすれ違っていく。
 その中に、少しだけ非干渉の空気を塗り替える存在があった。
 とぼとぼと歩いている姿に、いつものテレビで見るイメージとはおおよそ想像できないからか、
 いつもよりは少ないのだが、その手のマニアは、すぐさまその存在に気づき、小さい声で呟く。
「おい、あれ、アイドルの双海亜美じゃないか?」
「あれ? あの娘、亜美ちゃんじゃない? わー、かわいーーー」
 ひそひそとした声は、主に自分に対する褒めはやす言葉だったりするのだが、
 小さな声で言われるとなぜだか後ろ指をさされているような、ちょっと後ろめたい雰囲気に感じる。
 商店街の道を歩いていると、たいていこんな感じだ。
 それは、アイドルとして知名度があがってきた頃からのことなので、だいぶ慣れた。
 小さな電気屋のショーウインドウに飾られている大型の液晶テレビに映っている時刻を見て、理解した。
 4時半を少し過ぎたあたり。
 ちょうど晩御飯の買い物や、学校が終わった生徒達が下校途中に寄り道をする時間帯だった。
 そんな時間に商店街に迷い込んだことを、後ろめたい雰囲気を背負った双海亜美はちょっと後悔した。
「そろそろ、レッスンが終わっちゃうかなぁ」
 にひひ、とどこかの誰かに似た、悪戯な笑みを浮かべる。
 ショーウインドウのガラスに映る自分の姿を見る。
 その姿は亜美だったが、双子の片割れの真美と同じ姿をしている。
――そういえば、真美には悪いことしちゃったなぁ。
 亜美が行っていないかわりに、一人でレッスンを受けている真美を思うと胸が痛んだ。
 それでも、今日はどうしても事務所に足が向かわなかった。
 どうしてかはわからなかった。
 なんだか先週のレッスンから、いまいち、テンションが不安定だった。
「ま、たまにはお休みってのもアリだよねー?」
 あははは、と笑う。それは乾いた笑いだった。
 なんて、面白くなさそうな顔をしているんだろう。
 どうして、自分はこんな顔をしているんだろう。
 亜美は、それがなんなのかわかっていた。
 フラッシュバックするように浮かぶ、あの人。
「亜美!」

 体をビクリと震わせる。
 聞き覚え、聞き飽きた、と言っても過言でないくらいよく聞く声だ。
「……真美?」
 振り向く。
 真美にみせるその顔は先ほどまでの煤けた彫像のようなくたびれた様子もなく、いつもの表情だった。
 真美は今まで走って亜美のことを探していたのだろう、ひざに手をつき肩で息をしていた。 


「真美?! どうして、ここに?」
「そ、それは、こっちのせりふだよー! 亜美ー」
 まだ激しく息を切らせながら、真美は亜美に詰め寄った。
「……兄ちゃんが、電話してきて。真美たちを待ってるって」
「……そっか。真美もレッスンに行かなかったんだね」
「……そ、そうだけど。まさか、亜美まで行ってなかったなんて」
 二人とも不安な表情で互いを見つめた。
 どうしてサボったのだろうか。
 楽しく楽しくてしかたがないアイドル業。
 それなのに、よくわからないモヤモヤが行く手を阻む。
「どうして、今日サボったの?」
「真美こそ」
 慌てた様子の真美に対して亜美は、やや穏やかだった。
 いつものことを思えば怖いくらい冷静だといえるだろう。
 亜美はいったい何を考えているのだろう。
 ぐるぐると巡る思考は何も生まず、真美は発する言葉すらも浮かばなかった。
「真美は行くと思った」
 亜美が呟く。
「真美は、兄ちゃんが大好きだから」
 どきりとする。
 気づかれているだろうとは思っていたが、こんなときにその話がでるとは思わなかったのだ。
「真美は、すごくすごく、兄ちゃんが好きだから」
 ショーウインドのテレビから時報の時の独特な音が流れた。ついで、ニュースが読み上げられていく。
 真美の耳に届く喧騒が、いっそうに騒がしくなった気がする。
 なんとなく本能的に、その次の言葉が、怖かったのだ、
「だから真美は頑張ってるんだって思った」

 プロデューサーの前の真美は輝いていた。
 ダンスレッスンで一生懸命に流す汗も、懸命に苦手な歌を歌ってのどを痛めるときも、
 どんなに辛くても笑顔で誰かと接するときも、どれもが輝き。
 同じ存在だったはずの亜美自身とは違うのではないかと思った。
 だけど自分は駄目なんだと思った。
 二人一役でやってきたアイドル。
 自分がオーディションを受けることもあれば、真美が受けることもある。
 だけど、気持ち、自分が輝けたときが少なかったのではないだろうか。
 真に頑張った真美がいたからこそ、自分はここまでこれたのではないか。

 そしてそれは、
「兄ちゃんのことが好きだから、真美は輝いているんだ」
 自分も焦がれる人を好きだから、輝いているのだ。
「真美はすごいよ」
 頑張ってる。そして輝いている。だからきっと、
「真美なら、きっと兄ちゃんもイチコロだね」
 大好きなプロデューサーとずっと一緒にいられるんだと思った。
 うらやましいと思った。 



「……亜美?」
 悲しそうな、今にも泣いてしまいそうな亜美。そんな亜美を見て、真美は戸惑う。
 どうしてそんな顔をしているのか、真美にはわからなかったのだ。
 二人の間に入るように流れていたニュースが芸能報道に切り替わった。
 ファッションショーの話や、今はやりの食べ物の話が流れ出した。
「……真美」
『……さて、次は、注目のCDセールスランキング!
 今週のピックアップセールスは、今、売出し中のアイドル。
 双海亜美のセカンドシングルの【ポジティブ!】です!』

 『目覚ましで飛び起きて笑顔で着替え』

 『いつものバス飛び乗り 仲間とダベリ

 自分たちの歌が流れた。
 亜美と真美の体も心も、この歌を染込ませるほど覚えていた。
 自然に踊りだせるくらいに大好きな歌だ。

 『授業がタイクツ メールでつぶす』

「あ、あの! 真美。あのね! 真美!」
 亜美が言葉を漏らした、その声は、まるで何かを制止させるように願うような悲痛な声だった。
 それが何を意味していたのか。
 それは真美にははっきりとはわからなかった。
 だけど、それがなにか重要なことなんだと感じた真美は、
 亜美の文章になっていない続く言葉を意識の片隅に追いやる。

 『帰りにどこ行く? クレープ食べたい』

「……真美!」
 そう、それは知られてはいけない。
 大好きなあの人。大好きなこの人のために。
 何があっても、なにもなかったことにしなければならないものなのだ。

 『気がつくと も一人 仮面つけた自分がいる』

 『本当はカラ元気なんじゃないの?』

 風が、揺れた。
 二人のトレードマークの髪型を揺らし。
 二人のおそろいの服を揺らし。
 二人の同じ想いが、揺れる。 


 真美は気がついた。
 真美は気がついてしまった。
 自分が頑張ってきたことが、自分が頑張ってこれた理由が、亜美も同じだったことに。
 目の前で歯噛みしている、己と同じ姿をした少女は、自分と同じ気持ちを持って過ごしてきたのだ。
 だけど、それは隠されていた想いで、真美が内面を演じ、亜美が外面を演じていたのだ。
 実際はどちらも同じ面だというのにだ。
 真美の心が締め付けられるように痛んだ。
――痛い。痛いよ。こんなにも痛いのに、亜美は亜美は……。
 なにも知らないと言った風な仮面をつけて、今まで過ごしてきたのだ。
「亜美の馬鹿! どうして言って、どうして。言ってくれなかったの!?」
 いつの間にか溢れていた涙が、ぽろぽろと流れ去っていく。
「……だって、言ったら真美。悲しむと思って」
「だからって、亜美がずっと苦しむことはないじゃん!」
 激昂しながらも、その荒げた声の行き所がどこにもないことがわかっていた。
 だけど、あまりのことに叫ばずにはいられなかったのだ。
 喧騒ながらものどかだった商店街に響く怒鳴り声は目立つらしく、
 最初は数人の人が立ち止まるだけだったが、
 アイドルである亜美の姿を見つけると、その数は確実に数を増していった。
 そうやってギャラリーが増えていることに気づけない二人は、言い争いを続けていた。
 その群集を上手く掻き分け、といってもなるべく男に触れないようにしながらなので
 実際はかなり奇妙な動きなのだが、一人の少女が顔を出した。
 その女性は、亜美と真美の姿を見つけると別の場所から顔を出している少女に目配せし、互いに頷く。
 そしてその後の出来事はあっという間だった。
 群集から飛び出した二人の少女は亜美と真美の側まで近寄った。
 そして片方が持っていた日傘が亜美と真美の姿を覆い隠した。
 そして次の瞬間には亜美達の怒鳴り声は消えた。
 そこにチョコチョコ〜っと、聡明そうな少女が飛び出した。
「さ、さぁさ! この日傘に隠れた少女たちがイリュージョンで消えてしまいます!」
 日傘の奥からごそごそとなにやら準備をしている音が丸聞こえだが、
 なんとかそれは発声で鍛えた声量で押さえつける。
「OKです、律子さん」
 背後から小さな声。
 律子と呼ばれた聡明そうな少女は、後ろ手に了解の合図を出した。
「せーの! 1、2、の3!」
 そうして、亜美達と少女達を隠していた日傘を思い切り取り払うと、
 そこにいたはずの人達が全員姿を消してしまっていた。
 おーーーーーーーーーーー!
 と湧き上がる歓声に、少しだけ得意げな気持ちになった律子は、
 照れ隠しだろうか眼鏡のフレームの位置を直そうとして、今は眼鏡をはずしていることを思い出した。
――っとと、しまった。
 アイドルの亜美が、亜美そっくりの真美と口論している光景なんて、スクープもいいところだった。
 真美の存在がバレたら亜美のアイドル活動にも支障がある。
 律子はたまたま途中で会った、同じ事務所のアイドルの子を引き連れて亜美を探していたところ、
 口論をしているところに出くわしたのだ。
 そして今のようにマジックのショーに見せかけるため、律子は眼鏡を外して、
 『アイドル律子』とばれないように図りつつ矢面に立ったのだ。 


「どもどもー! 流れの芸人のイリュージョンショーでしたー!」
 とびきりの営業スマイルを振りまいた。
 いつもテレビで見せる姿よりも、若干気持ち悪いくらいのブリっ娘な感じを表現してみる。
 そうすることで、自分が律子だとバレる可能性が低くなるだろうとふんだのだ。
「なーんだー。イリュージョンかー」
「亜美ちゃんに似てたような気がしたんだけどなぁー」
「まっさかー、こんなショボイ商店街で営業なんかにくるかよー」
「さーて帰るかー」
 だが、群集は律子にさしたる興味は見せずに散っていった。
 ……。
 元の喧騒に戻る。
 あまりにも群集が容易に引いたので、律子はちょっとだけ肩透かしを食らった気分だった。
――い、一応中堅アイドルがいるんだから、
 少しくらい「あー、律子ちゃんだー」って言ってくれてもいいのになー。
 バレたら困るので、本当はバレてない方がいいのだが。
 あまりにも気に留められないというのは寂しいものがあった。
「……まぁ、いいか」
 後ろに振り返り、人一人通れそうな路地を見る。
 なんてことはない、マジックでもイリュージョンでもない。普通に逃がしただけだ。
「とりあえずあとのことは、ちょっとあの二人に任せますか」
 律子は、ポケットから携帯を、胸ポケットから眼鏡を取り出した。
 折りたたみ式の携帯を開くと、プロデューサーの番号を履歴から見つけ、発信する。
「……あ、もしもし、秋月です。亜美を見つけましたよ。……はい、大丈夫です。
 一応無事です、あ、いえ無事です。
 ………今は、…………ですから、ちょっと間をあけて迎えに行ってあげてください。はい。
 ……いえ、これも休日のイベントだと思っておきますよ。
 ……はい、それじゃあ、現場で。はい。じゃあ」
 一通り状況を伝えると、律子は電話を切った。
「さて、私も行きますかねぇ」
 そしてトレードマークとも言うべき眼鏡をかけた。
「あーーーーーーーーーーーーー! アイドルの秋月律子ちゃんだーーーー!」
 その次の瞬間に、補足されてしまった。
「え? あ! 本当だ! 律子ちゃんだー!」
 どやどやと律子に取り巻くファン達。
 再び営業スマイル――だが今度はほころびから苦笑が見て取れた――を振りまきながら、
――眼鏡がないと、認識できないんかい!!!
 思い切りツッコミを入れる律子だった。 


 所は変わり。
 律子の尊い犠牲のおかげで、スクープを逃れることのできた
 亜美と真美は、人気のない公園に連れてこられていた。
「ふぁー。走ったから疲れちゃった……。大丈夫? 雪歩?」
「はぁ、はぁ。……う、うん。なんとか。……大丈夫ですぅ……」
 雪歩と呼ばれた整った顔立ちの少女は完全に息が上がってしまっているようで、
 飲み込む唾がやけに重苦しそうだった。
 ぐったりと公園のベンチに座り込み、二人で息を整える。
 もう一人の少女、春香はちらりと元気なくそっぽを向いている亜美達に目をやった。
 沈んだ表情の二人は微かに肩で息をしていたが、落ち着いて見える。
 決定的にいつもと違うのは。二人ともまだ一言も口を開いていないことだ。
 春香と雪歩はある程度の事情は律子から聞かされていた。
 二人には亜美達のケンカの理由はわからないが、なにが起因となっているかはすでに予想できていた。
 恋をする少女の気持ちは、恋をする少女が一番よくわかる。
「……亜美、真美」
 よくはわかっているのだが、どう声をかけたらいいものなのか。
 春香は自分が言われてきて、救われた言葉を探すが、うまく見当たらない。
――こんな時は、私はどうしただろう?
 ふと考え、すぐ行き着いた結果は、ちょっと赤面してしまう内容だった。
――そういえば、すぐプロデューサーに逢いに行ってたなぁ。
 ……あの時はいてもたってもいられなくて……。
「亜美ちゃん、真美ちゃん。……どうして……そんな悲しい顔をしているの?」
「……だって亜美が……亜美が! ずっと隠してたんだよ! 亜美は兄ちゃ……!」
「亜美は!」
 真美の言葉を遮る。
 そして沈黙が紡がれると、亜美は続けた。
「亜美は、何も隠してないよ? はるるん、ゆきぴょん」
「亜美!」
 急に想いを翻した亜美に真美は戸惑う。
 さっきまではプロデューサーのことを好きだと肯定するようなことを言っていたはずだった。
「真美ったら! じょ〜だんだよー! じょ〜だん!
 ちょーっと悪戯しようと思ったら……少し、オオゴトになっちゃ、った」
 申し訳なさそうに頭を下げる。反省している、という意思を込めているのだろう。
「はるるん。ゆきぴょん。ゴメンねー! 亜美、今日レッスンサボっちゃって。
 それに、はるるん達にも、迷惑かけちゃった……」
「兄ちゃんにも謝らないとね……」
 唖然としてしまった真美、そして何が起きたのかついていけなかった春香は
 真美が後ろ足を一歩踏み出したことに気づけなかった。
 もしもこのまま踵を返して駆け出していたら、もう誰にも亜美を捕まえることはできなかっただろう。
「亜美ちゃん!」
 真美と春香はびくりと肩を揺らした。
 座っていたベンチを立ち上がり、雪歩は亜美の肩を掴んだ。
 雪歩が時折しか見せない、強気な瞬間。
 その奮い立つような声は、萎縮しかけた春香と真美の心にぴしゃりと活を与えた。
「亜美! どうして隠そうとするの?」
「亜美、私達でよければ相談に乗るよ……。だから、一人で辛い思いはしないで」
 真剣な真美と春香の表情に亜美は、首を振る。
 言葉は出ない。言葉は出せなかった。
 一言でも弱気な言葉が出ると、一気になにもかもが堰切ってしまいそうだったから。
 亜美の目じりに涙が溜まっていく。
 何も言えず、だけど言いたくて、だけど言えなくて。 


 それは雪歩自身だ。
 それは雪歩の姿によく似ていた。
 『私が、プロデューサーのことを好きだと言ったら、春香ちゃんや千早ちゃんは……』

――亜美が、兄ちゃんのこと好きって言ったら、真美は、きっと応援してくれる。
 応援して、笑って。笑って……笑って。亜美を押しちゃうんだよ……。だから。だから!

 そんな気持ちが伝わってくる。
 過去、同じことを考えていた雪歩は、なんとなく感じるのだ。
 亜美の表情で。亜美の仮面の笑顔で。
「亜美ちゃん」
 雪歩は亜美を抱きしめた。
 雪歩の細い腕で、さらに細くか弱くなった亜美の体を包み込む。
「好きって気持ちは、隠していたら寂しくて悲しいよ?」
 春香がその言葉に微かに反応する。
「……だけど」
 春香の唇が自然に言葉を紡ぐ。
「好きという気持ちが、外を散歩していても、どこか寂しくて、悲しくて」
「……だけど、好きという気持ちは、それ以上に楽しくて、嬉しくて」
 亜美を抱きしめる腕に微かに力が加わる。
 ぽろりぽろり。
 亜美の目じりからは、臨界を越えた涙が零れ始めていた。
「そんな不安と幸せを、持っていかなきゃいけないんだよ」

――それが、恋?

 春香と雪歩の言葉のやり取りにも見えた言霊は、
 確実に亜美と、そして真美の心に深く刺さり、思考を促していく。

「……ううう! うああぁあぁ! わぁぁぁぁん! 亜美! 亜美ぃ!」
 亜美が雪歩を抱きしめ返す。その腕は、雪歩の体を少しだけ強く締め付けたが、
 亜美がそれだけの辛さを感じてきたことを思えば、雪歩には耐えられた。
「亜美は! 亜美は……兄ちゃんが大好きなんだよぉ……ずっと好きなの!」
 吐露する想いは、もう誰もが知っていた。だけど誰も何も言わず、しっかりと聞きとめる。
「ゆきぴょんも、はるるんも! 律っちゃんも!
 765のみんなは、兄ちゃんのこと好きなんだって、思って!
 だから……亜美じゃ、きっと駄目だって、思って……」
 言葉と涙が比例するように流れる。
「……亜美ちゃん。……大丈夫。亜美ちゃんは素敵な女の子だよ」
「そうよ、亜美。駄目だって話なら、そそっかしい私だって、そうだしね……。だけど」
 春香はえへへと苦笑いした。
「……それでも好きだし。くよくよしてたら、プロデューサーさんに、心配かけちゃうよ」
 前向きな春香の言葉は、普段前向きな考え方の亜美達には心地よかった。
「それに……恋のお話で隠し事すると、春香ちゃんがすごく怒るんだよ?」
「あ、ちょ、雪歩! 私は別に怒ったりしないよ〜!」
「あぅ。ごめんなさいぃ〜」
 少しだけ、春香と雪歩だけの世界が作られていた。
 その間を縫って、亜美は真美に視線を投げかけた。
――ごめんね。真美。
――いいよ、亜美。
 そして互いににかりと笑って。
「兄ちゃんは……」
 大切な人を想う気持ちは、いつも晴れやかで。
 曇り空になっても、その後に必ず晴れることを祈り、今日も過ぎていく。
「亜美のだよ!」
「真美のだよ!」 


「あぅ、亜美ちゃん達も盛り上がってますぅ〜」
「うーん、新ライバル出現かぁ。これは、ちょっと大変になってきたなぁ」
 冗談ともとれない言葉に、互いに肩を竦めあい、困ったように笑った。
「……まずは、兄ちゃんに謝らないと」
「そうだね。ムダンでお休みしたから、いーーっぱい、謝らないとね!」
「うんうん! ちょーっとサービスにちらりってやってあげれば、兄ちゃんなら許してくれるよねー?」
 まだ涙ぐんではいるが、ちょっと悩ましげなポーズをする亜美を見て、
 少しずつ元の調子に戻ってきたことを感じ、春香たちは安堵のため息をついた。
「お? おー! いたいたー! 亜美ー真美ー!」
 公園の入り口に、プロデューサーがひょっこりと顔を出した。
 事前に、春香たちと集合場所を決めていたので、ちょうどいいタイミングだった。
 亜美も真美も、今日だけで色々なことを考えてしまったので、
 すごくプロデューサーに逢いたい気持ちが一杯だった。
 だから、その声に嬉々として振り向き、愛しい人の温もりを感じるがために、駆け出そうとした、のだが。
「!」
 そこに、ありえない光景が展開されていた。
「……はぁ、しっかしなんでまた、あんなところで足をくじいてるかなぁ。」
「しょうがないじゃない!! 事故よ! 事故!」
 何事があったかは、亜美達には到底想像もつかないが、
 プロデューサーが伊織をお姫様だっこしながら現れたのだ。
 ちんまりとした背丈と、フリフリとした私服のヴィジュアル面に後押しされ、
 伊織をお姫様と言うのはかなり的を射た表現だった。
 その『女の子なら憧れる』大好きな人にロマンチックにお姫様だっこという絵面は、
 相当の衝撃と羨ましさを刺激した。
 端的に言えば、亜美達4人が、嫉妬の炎を燃やしたということだ。
「亜美も真美もいないから、どうしようかと思ったよ。
 春香、雪歩も、一緒に探してくれてありがとうな? そ。そうい、えば? 律子は?」
 最初は安堵した様子で笑っていたプロデューサーだったが、4人の雰囲気がどうみても殺気に満ちていた。
 鈍感と事務所の人には言われ続けているプロデューサーだったが嫌な汗が背中をつたった。
「えっと? どうした? みんな?」
 どうして殺気を向けられているのかわからない、というところはやっぱり鈍感なのだろう。
 何事が起きているのかまったくもって理解できていなかった。
「にひひっ。アンタって意外と背が高いのね。結構視点が高いわ」
 満面笑顔でプロデューサーに抱きつきなおす伊織。 


 ぴきっと、亜美と真美の口元が引きつった。なんだか言いようもない怒りのようなものが心を取り巻く。
 ……。
――だけど。
 二人は同じことを思った。
 さっきまでよりも、何故だか心が晴れやかで、辛い気持ちだけど、
 それでも何故だか踊るように楽しい気持ちも沸いてきて。
――やっぱり! 兄ちゃんが好き!
 プロデューサーの下へと思い切り駆け出していく。
 口々に伊織とプロデューサーをはやしたて、側まで行き着いた頃には。
「ふ、ふん! 別にプロデューサーになんか助けられなくても、歩けるわよ!」
 色々と言われて恥ずかしくなったのか、伊織をプロデューサーから引きずり落としていた。
 あまりにも自然な、そして息のあった言葉回しに、春香と雪歩は苦笑しながら感心し、
密かに、さきほどよりも本気でライバルという対象の中に二人の名前をいれたのだった。
「にーちゃん、セクハラだよー?」
「イオリンに訴えられちゃうぞー?」
 とびっきりの笑顔とテンション。
 それこそが持ち味の二人。
 これからも色々なことを感じ、その度に悩み、悲しんで。それでも楽しんでいくのだ。
 彼女達はわかったからだ、恋も人生も『ポジティブ』に考えるのが楽しむ秘訣だと。



 さて一方その頃。
「あははー。これからも秋月律子をよろしくお願いしますねー」
 次々とサインと握手をせがまれ、休む暇も、春香たちと合流する場所に行く隙すら見出せず、
 オフだというのに営業スマイル全開でファンサービスをし続けている律子。
 己の中堅アイドルとしての威厳は保たれたような気はしたが、
 それでも久々のオフ日を潰されるというのはかなり痛手だった。
――うーーー! 休日出勤手当てはでるんでしょうねぇぇ? プロデューサー!
 ファンの前では到底言えないような台詞を心中で時々叫びながら、
 律子は百数十枚のサインと数百人の握手をこなしたのだった。 



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