如月千早 活動週マイナスX

作:プラムティスト

 暦上の夏はまだ少し先のことだというのに、体感は既に夏だった。
 夕刻になり若干涼しくなったとはいえ、路地裏の狭い道をこつこつ歩いていると、
じっとり汗がにじみ出てくる。
 アスファルトとコンクリートのイメージが強い東京でも、下町と呼ばれるこの辺
りは緑も多く、木漏れ日が地面をまだらに染めている。
 ひたり、とその男は足を止めて、見慣れた店の引き戸に手をかけた。
 色あせた紫の布地に『小料理 志乃』とかかれた暖簾を、心のどこかで邪魔だと
思いつつ、ぞんざいにくぐった。
「いらっしゃい……あ、順ちゃん」
 『順ちゃん』と呼ばれた男の名前は、高木順一郎。芸能事務所『765プロダク
ション』の社長を生業としている。弱小といわれている小さな事務所だが、高木自
身の人望は厚く顔も広い。
「今、用意するわね」
 ボックス席から空になった徳利を回収しながら、女将の志乃が言った。
 ちなみに、高木と志乃とは中学からの同級生である。
「ビールでいい?」
 宵の口で客は少なめだったが、小さな店でも客足が途絶えることなく続いている
のは、志乃のひとなつこい笑顔と気風の良い性格のなせるものである。
「いやそれは後で戴くよ。それより志乃ちゃん。源さんから何か預かってないかな?」
 高木は、椅子には座らずに尋ねた。
「やっぱりその話? ちょっと待ってて」
 心得ています、とばかりに志乃は言うと、カウンター席の向こう側、壁際の棚の
中から一つの茶封筒をとり出した。
「はいこれね。奥の部屋、使う?」
「ああ、ありがとう。いつもすまないね」 

 軽く礼を言って、高木は店の奥にある座敷部屋へ足を踏み入れた。
 ふう、と一息入れて、志乃から受け取った茶封筒を開く。

『如月千早に関する身辺調査の件』

 ホチキスで綴じられた紙束の表紙には、パソコンからプリントアウトされた文字
が無表情に綴られていた。
 数日前、たまたまテレビののど自慢番組で見たひとりの少女。粗削りな所はある
ものの、その声と歌唱力にはどこか惹かれるものがあった。
 コネを使って取り寄せたビデオで、何度も確認した。
 歌の上手い娘ではあった。だが、それと同時に、言いようのない不安を抱いた。
 その原因は、彼女自身の内面にあることは、紛れようもない事実だったから、そ
の感想も無理もない話だろう。
 高木が受け取った資料には『如月千早』という少女の経歴が微に入り細に入り、
克明に綴られていた。
 生い立ち、周囲の環境、家族構成。ロックや民謡で日本一をとり、動揺の地区大
会での優勝の記録もあること等々。
 歌が好きなことはそれだけでも容易に想像ができた。それと同時に、彼女を取り
巻く環境は、15歳という少女にとって過酷なものだということも……
「さて、どうするべきか」
 高木は誰に聞かせるともなく言って、壁を眺めた。
 果たして、彼女をアイドルにすることが、本人にとって幸せなことなのだろうか?
 芸能事務所にとって、アイドルは商品である。だが、それ以前に人間なのだ。
 華やかに見えてもトップアイドルと言われるピラミッドの頂点に辿り着けるのは、
ほんの一握りの人間にすぎない。
 事務所がアイドルを育てるということは、その人の人生の何ページかに介入する
ことであり、例え失敗しても本人の心の傷になるようなことだけはしてはいけない。
 それが高木の信念でもあった。
 だからこそ、アイドルをスカウトする時には慎重に考慮する必要があるのだ。
 じっくりと吟味するように、もう一度書類を頭から目を通し、そして高木は立ち
上がった。 

「ありがとう志乃ちゃん。ビールもらえる? それと何かつまむものを」
 部屋を出た高木は、カウンター席につくと酒を要求した。
 もともとそれほど飲むほうでは無かったのだが、暑さもあって冷たいものが欲し
くなったのだ。
 志乃は「はい」と短く答えると、冷蔵庫からビール瓶を取り出す。
 高木はつと、時計に目をやった。それほど長居したつもりはなかったが、店に入っ
てからは既に1時間が経過していた。
「暑いな」
「ごめんね、エアコンがポンコツで」
 自虐的に言って、志乃は笑った。入店したときよりも客は増えているのに忙しい
そぶりも見せず、平然としているあたりは流石に年季が入っている。
 高木は、他愛のない世間話を二、三言、志乃と交わした。
 ………と、
「母さん、電話」
 お客用とは別の向こうのドアから、電話の子機を持ってひとりの少女が顔を出し
た。志乃の娘の柚香である。
「柚、少しの間、店をお願い」
 手ぬぐいで手を拭きながら、志乃が言った。
 入れ替わるように、カウンターの向こうに立った柚香は、エプロンをつけながら、
ぺこりと客達にお辞儀をした。
「やあ、柚ちゃん。久しぶりだね」
「あ、いらっしゃい、高木のおじさん」
 にこりと笑う顔は、志乃と雰囲気が似ていた。
「テニスのほうは、まだ続けてるのかい?」
 高木は尋ねた。
 柚香は今年高校生になったばかりだ。数カ月前、高木が入学祝いを贈ったとき、
彼女は中学から頑張っていたテニスを、高校でも続けたい、と話していたのを思い
出したのだ。
「うん、でも流石に中学の時とはちがって、練習がハードなの。毎日くたくた」
 そう言って屈託なく笑う柚香は、心から楽しそうにみえた。
 どれだけ疲れていても、好きなことに打ち込んでいる人の目は、生き生きとして
いる。
 ふと、高木はテレビで観た千早の姿を思い出した。歌っている時の目は、柚香と
同じ輝きを持っていた。だが、それ以外の場面で、ちらりとカメラのフレームの端
に写った千早の瞳は、柚香とはまるで違っていた。
 何かに達観したような覚めた横顔と、生きることを諦めたような暗い目の色。
 おそらく、普通に番組を見ていた人の中で、そんな事を考えていたのは高木以外
にはいないであろう。
 だからこそ、如月千早という少女について、詳しく知りたいと思ったのである。 

 柚香は、高木の後ろのボックス席から聞こえたお酒を注文する声に答えて、その
場を離れた。
 ほとんど時を待たずして、笑い声が聞こえて来る。
 かいがいしく働く娘である。
 きっと志乃が大事に育てたのだろう。ひとあたりが良くて、屈託もない。

 あの娘は……如月千早は、あんな風に笑うことがあるのだろうか。

 ふと、そんなことが高木の脳裏をよぎった。
 結局、なんだかんだと理屈をつけたところで、初めから結論は決まっていたのか
もしれない。『如月千早』という少女の人生に関わってあげたいというのが、高木
の本心だったのだ。
 電話を終えた志乃が再び顔を出したのをきっかけにして、高木は席を立った。
 すっかり日が落ちた外の空気は、放射冷却のためかひんやりと涼しい。
 家には帰らずに、高木は事務所に向かった。そして電話をかけた。しばしの会話
のあと、用件を告げる。
「……そう、例の如月千早くんの件だ。我が事務所で預かりたいとおもう。だが、
まずは本人の意思を確認しなければいけない。……ああ、君も知ってのとおり彼女
の家庭事情は複雑だ。街のどこかで偶然を装って接触してほしい。もちろん、我々
が内偵していたことは、本人に知られてないようにな」

 後に国民的アイドルと呼ばれるようになる如月千早。だがそのデビューの裏側が
明かされることは永久にないのである。

                                  終わり 






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