サンルーフ

作:456

ランクBに上がってからというもの、春香へのオファーはそれまでと段違いに増えた。
それはそうだろうと思う。いまや天海春香は日本を代表するアイドルの一人なのだから。
春香のランクアップと同時に、765プロデュース自身も大きな転機を迎えていた。
それまでのレンタル事務所からついに自社ビルを持つまでに至った
765プロデュースから見渡す関東の景色はそこそこにいい景色であり、満開の桜並木が良く見える。
移転した次の日などは社長が独断で大宴会を催した。
職権乱用もはなはだしいこの飲み会でプロデューサーをはじめとした成人は徹底的につぶされることになる。…かわいそうに。
ランクを上げたからといって、プロデューサーはそう簡単に春香に対するプロモーション活動を変えようとはしなかった。
最初からトップを目指してトレーニングを続けさせたプロデューサーにとってランクBは単なる通過点に過ぎない。
春香もそのことは十分に承知しており、相変わらずトレーニングにオーディションにと精力的に活動していた。
…徐々にトレーニングから営業活動に活動比率が変化するのは仕方のないところか。
昨日も4件の収録を済ませ、今日はこれから2件目のテレビ収録に向かうところだ。
向かうところだったのだが。 


「春香、春香? 大丈夫か?」
「…はい、大丈夫です。……………………多分」
助手席からちらりと横を見ると、春香の顔色は到底大丈夫ではなかった。額からは脂汗が浮かんでいるし、顔色は真っ青だ。
典型的な車酔い…最近のハードスケジュールは、春香から満足のいく休養を確実に奪っていた。
窓の外に見える鮮やかな桜色と対比されて、春香の顔色は重病人といっても通用するほどのように感じられる。
Bランクにあがった春香がプロデューサーの運転する車に乗っているのは理由がある。
プロデューサー自身は何度も設備の整ったロケバスを薦めているのだが、
『できれば、プロデューサーさんの車がいいです。ずっと前からあれでやってきたんだし』
と春香自身に言い切られてしまって以来、プロデューサーは無理にロケバスを薦められないでいた。
仕事もレッスンも不満を漏らさず頑張る春香が自分に対して言い張った少ないわがままくらい甘受しても良い、
彼はそう思っていた。それに――
大していい車じゃないんだけど。そうは思うが、それなりに気に入っている車を認められた気がしてうれしく思ったのもまた事実。
だが、今日はそんな自分を呪わしく思った。無理にでもロケバスに乗せていれば。
「春香、あと30分くらいでテレビ局に着く。それまで持ちそうか?」
「が、…頑張り…ます…」
絶対無理。
判断には一瞬すらいらなかった。運転席から操作して窓を全開にし、メインストリートから曲がって路駐する。
自分も春香も花粉症でない僥倖に感謝しつつ、ハンカチで額の汗を拭う。
「プ、ロデュー、サー、さん?」
「ちょっと休もう。これで汗拭いてな」
「で、も、お仕事、が」
弱弱しく視線を投げる春香に顔を向けていられずにサイドウィンドウに目線を移すと、
車は住宅街にある公園のそばに停まっていることに気がついた。
何も考えずに停めたにしては上出来だ。春香の方を改めて見ると、
「なーに、最近忙しかったからね。こんな休憩してもバチは当たらないだろう」
軽口を叩く。苦しそうな表情が少しだけ柔らかくなった。
よし。コンソールを操作してサンルーフを開けると、窓いっぱいに桜が飛び込んでくる。
景観は上出来だ。
今度事務仲間で飲みに来てもいいかもしれない。リクライニングを倒して春香を横に寝かせると、
「わぁ…。きれい…」
そんな声が聞こえる。上着を春香に掛け、
「だ、大丈夫、です。寒くないですし…」
「いいから掛かってろ。桜、見えるか?」
「はい。…きれい、ですね」
「おう。ちょっと寝てて、何か飲み物買ってくる」
「でも!…はい、分かりました」
何かを言いたそうにした春香の顔を正面から見やると、春香もしぶしぶ了解の意を示す。
大方テレビ出演に遅れてしまうと言いたかったのだろうが、まだ集合時間までは2時間近くある。
本当なら翌々日に控えていた大きなオーディションのために舞台慣れしておいてほしかったのだが、
オーディションなどより体調のほうが大事だ。
じゃ、と言ってドアを開けると、後ろから、いってらっしゃい、と聞こえた。 


さっきまでのぐるぐるした気分は、きれいな空気の流れと満開の桜でどこかに行ってしまった様だった。それに、
「プロデューサーさんの、上着…」
春香の父親が着るよりも薄い上着は、それ以上に暖かく感じられた。
ずいぶん昔にお父さんの上着をふざけて着たことはあったけど、こんなに暖かかったっけ。
ボンヤリした頭でそんなことを考える。いや、こっちの方が暖かい。絶対。自信持って言える。
身じろぎする。さっき見たプロデューサーさんの表情が忘れられない。
大丈夫、と言ったのに、プロデューサーさんの表情は泣き出しそうだった。
暖かい人だ。最初はもっと怖い人かな、なんて思っていたのに…。
気がついたらプロデューサーさんのことばっかり考えてるのよね。何でだろ…

ふと、サンルーフ越しの桜が揺れた。お花見もしばらく行ってないなあ。
今度時間が空いたら絶対にお花見をしよう。お菓子を作って、あずささんにも手伝ってもらって。
やよいちゃんは絶対よろこんでくれる。真や雪歩も来てくれるかな。
千早ちゃんや律子さんは嫌がるかもしれないけど…。ほかのみんなも、きっと一緒に来てくれる。
そして、そこに、
プロデューサーさんがいれば、…きっと楽しいお花見になるよね。うん。

いつの間にか気分の悪さは引いていた。もそりと上体を起こし、掛け流しだったプロデューサーの上着に袖を通す。
ぶかぶかでも気にしない。上を見上げると、桜が手招きするように揺れていた。
それを見て、春香の中にちょっとした悪戯心が芽を吹いた。
サンルーフから恐る恐る顔を出す。サンルーフは車の割に大きなつくりで、春香であれば簡単に身体を外に出せる。
思い切ってサンルーフから身体を出し、車の屋根に腰掛ける。手招きしているように見えた桜は意外に高い場所にあった。
手を伸ばしても届かないかな。
それでもいいと思う。いつか必ず、そこまで上ってやる。
プロデューサーさんと、二人で。 


「…はい、大丈夫だと思います。はい、…はい、よろしくお願いします」
念のためテレビ局に電話を掛け、遅刻するかもしれない旨を伝えると、ほかにも何人か遅刻確定の人がいるらしかった。
ほっと胸をなでおろし、公園そばのベンダーでコーヒーとオレンジジュースを買う。
車まで戻ると、我が765プロデュースの期待のホープは、あろう事か車の天井に座っていた。
「春香? もう大丈夫なのか?」
「はい。ご心配おかけしましたっ!」
声色も顔色もさっきよりは良いようだ。ボンネットに腰掛けてジュースを渡すと、えらく満足そうな表情の春香が目に入った。
「何よ」
「プロデューサーさん、今度お花見しましょう! 765プロデュースのみんなで、一緒に!」
何があったかは分からないが、だいぶ体調が回復したらしい春香の表情には自信がみなぎっていた。
「いいよ。じゃぁ、もうちょっとゆっくりしたら出発するか」
「はい! あ、プロデューサーさん」
「ん?」
「上着。ありがとうございます」
なるほど確かに春香はプロデューサーの上着を着ていた。
…心なしか顔が赤みを帯びてきているのは回復した証拠だろうが、それでも若干赤すぎる気がする。
「おう。でもそれじゃ寒いだろ?」
「そんなことないですよ、暖かいです。…とっても」
ふーん、と言ってコーヒーを啜る。この分だとこの後の収録もうまく行きそうだ。
本当にもうちょっと休んだら出発しよう。そう思う。
次のオーディションは、もうすぐそこに迫っている。 



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