逆上がり

作:456

あの日、星井美希は、姉に負けた。
夏の小学校、休日の青空、さびのついた低い鉄棒。
どうやっても、何をしても追いつかない姉への高さ。
慰めてくれる父と母。
あの日、何でもできる星井美希は、何にもできない姉に負けたのだ。 


ランクDともなれば、当然もはやルーキーとは呼ばれない。
ちらほらと全国区のテレビにも出演するし、それなりに名前も認知されてくる。
そうであれば、このレベルで沈んでしまうアイドルなど掃いて捨てる程いるし、
逆に言えば、このレベルで満足せずにさらに上を目指すアイドルのみが頂点を目指せるともいえる。
言えるのに、
「…うれしくないのか?」
「あふぅ…。何が?」
「その、今日のオーディションに勝った事、とか」
何だ、そんな事、とでも言いたげに、美希は口を手で覆うと、
「んー…。何だろ、うれしいって言うか…。良くわかんない」
そう言って、美希は再び欠伸をした。
もうすぐ美希のプロデュース活動をして2ヶ月ほどが経とうとしているが、プロデューサーは美希からある種の印象を感じていた。
美希は確かに天才だった。ダンスは上手い、歌は小器用にこなす、加えて天性のルックスを兼ね備える。
まさにアイドルになるべくして生まれた存在――だが、それはそのまま美希の弱点となっていた。
器用すぎる。要約すればこの一点に尽きる美希の欠点は、それ故に改善が非常に難しいのだ。
ハングリー精神がない、と言ってしまえばそれまでだが、そこから生まれるのはある種の閉塞感だった。
それでも、今回のオーディションの成績だけ見れば美希はトップを独走しているのだが。
「わからないって…。その、さ。例えばもうちょっと踊れたなー、とか。今日の声の伸びは良かったな、とか。
練習しててよかったな、とか」
言うと、美希は「んー」と唇に指を当て、
「あ、そうそう、思ったんだけど。ほかの参加者を見ててね?」
「うん」
「何か、必死だなぁ、って」
「そりゃあ、」
当たり前だ。その言葉を飲み込んで、プロデューサーはタイムスケジュール表に目を落とした。
もうすぐ今日の収録が始まる。美希自身が何をどう思うか、ブラウン管の向こうには伝わらない。 


ランクCへの到達は4ヶ月を目標にしている。先日勝ったからと言って、今日もオーディションをしなくてよい道理はなかった。
今日のオーディションは獲得ファン数7万人を誇る全国ネット「Idol-Vision」。
この勝負に勝てれば一気にCランクに近づける――プロデューサーはそう踏んでいた。
「このオーディションを獲れば、一気にトップに近づける。頼んだぞ、美希!」
「うー…。まぁ、適当に頑張るよ」
「適当って…」
相変わらずな美希に肩を落とし、視線をさまよわせて控え室のホワイトボードを見る。ホ
ワイトボードには今日のオーディション参加名簿が貼られていた。何の気なしにそれを見やると、
「…げ」
「? なぁに、どうしたの?」
とんでもない名前を見つけた。『魔王エンジェル』。
近日の特別オーディションを歴代最高得点で総ナメした化け物のようなアイドルだった。
よりにもよってこれと争う事になるとは。
「なに? そのユニットがどうしたの?」
「ああ、その、これは――」
不審そうな表情でプロデューサーを見る美希に、この化け物をどう説明しようか考えあぐねていると、
それは、唐突にやってきた。
ドアが開く。コツ、とヒールの音がする。
エンジェル、とはよく言ったものだった。
圧倒的な存在感、アイドルとして容姿には自信のあった参加者を釘付けにするそのヴィジュアルと、
瞬間的にその場に居合わせた全員をひきつける絶対的なカリスマ性。
エンジェルだ――。
参加者の口から、絶望とともにその名をささやかれつつ、『魔王』は控え室を歩く。そして――
よりによって、美希の前で停まった。
冷や汗が止まらない。目の前のモノが自分と同じ『アイドル』だなんて信じられない。
意図せずに目が見開かれていくのがわかる。
そんな美希の前で、『魔王』はその口をゆっくりと開き、
「退いて頂けますか?」
それだけを言った。
同時に、すさまじいまでの圧迫感が美希を襲う。
足を動かす本能が告げる、こいつの視野に納まっていてはいけない。コレは違う、何か別のモノだ――。
『魔王』が美希があけた席に悠々と座ると、ほかの参加者たちはため息を付きつつ席に着く。
「美希、美希? 大丈夫か?」
「あ…、プ、ロデューサー。そ、その…」
しまった。完全に美希は動揺してしまっている。
本番前だと言うのに美希の額からは汗がにじみ出ているし、何時もの余裕など欠片もなく、呼吸も荒い。
あれが一流のアイドルなのか――改めてそう思う。
それでも、美希はこれからあの化け物に戦いを挑まねばならない。
6人の参加するオーディションで、合格者はわずか1名。
1名の座席に座るために、勝ち目のない戦いに挑まなければならないのだ。
絶望的な戦いが、もうすぐ始まろうとしていた。 


最近忙しかったし、今日はお休みにしようか。
そんな事を言われて、美希は765プロデュースの廊下を歩いていた。もう一度眠る、そんな気には到底なれない。
『魔王』と対面してから、美希のモチベーションは最悪だった。
何もしたくない…。気が付くと、美希の足は自社ビル裏の公園に向かっていた。
そろそろ夏に向かおうという気候は、それでも外で過ごすには快適な温度だ。
ベンチに座る。誰もいない初夏の公園は、野良犬と鳩のオンステージだ。
完敗だった。何一つ勝てなかった。
こんな事、はじめてだなあ。
プロデューサーは、どう思ったんだろう。
空を仰ぐ。やわらかそうな羊雲がゆっくりと流れていく。
改めて公園を見回す。ジャングルジムに、ブランコに滑り台。
へぇ、結構遊ぶの揃ってるんだ。シーソーに、砂場に、それに―――
ふと、この気持ちが以前に経験した事があることに気がついた。
小さな頃の、あの夏の日。
休日の小学校。
どうやっても、何をしても追いつかない姉への高さ。
美希の足は、自然にそれに向かっていった。

美希のモチベーションを全快させるには『魔王』を倒すほかにないのだと思う。
そう考えたプロデューサーは、見てくれはいつも通りの美希に休日を与えると、資料室に篭った。
過去数年間の『魔王』のオーディションデータを全て洗う。
総合ポイント、競った765プロデュースのアイドルのレベル。
ダンス、ボーカル、ヴィジュアルの総合得点と最高点に最低点。
何が得意で何が不得意なのか。
差し込む隙はあるのか。
「…うーむ」
調べれば調べるほど、化け物じみた戦績しか出てこなかった。
つい気弱になってしまう自分に活を入れ、もう一度資料と睨めっこを始める。
「ふぅ…。ちょっと休憩するか」
どうしようもない資料から顔を上げる。
かび臭い資料室に長い間いたせいか、無性に外の空気が吸いたくなった。
出社許可を得ると、自社ビル裏の公園に向かう。
設備が揃っている癖にあまり人のいないこの公園は、最近プロデューサーの格好の休憩場所になっていた。
あまり人がいないくせに。
「…あいつ、何やってるんだ?」
思わず口をついて出る。
目線の先で、美希が鉄棒にぶら下がっている。

「むー…。回れないなぁ…」
本日何度目かの呟き。さっきから一向に上手くいかない。
助走は十分だし、飛ぶ瞬間に膝も畳んでいる。
教わったとおりにやっているはずなのに、さっきから一向に成功していない。
それでも。もう一度。
「せぇ…のっ!」
息を止める。鉄棒を強く握り、地面を蹴り上げた足を畳む。首を思い切り後ろにそらし、
よく知っている顔を見た。 


「何、やってるんだ?」
ベンダーで買ったりんごジュースを渡す。
汗だくになるまで悪戦苦闘していた美希は、勢い良く缶を半分ほど開けると、少し赤くなって
「逆上がりの練習してたの。その、ちょっと懐かしいな、って思って。それより、」
いつから見てたの? と問われ、ついさっき、と返す。
「ずいぶん熱心にやってるんだな。汗、大丈夫か?」
「うん、へーき。それに…熱心にやってたってわけじゃないし」
「嘘つけ。だったらそんなに汗かかないだろ」
確かに、自分でも説得力はないと思う。ジュースの残りを喉に流す。
冷えたジュースは胃に落ちて、少しの余裕を与えてくれた。
この人になら、話してもいいかな、と思った。
「逆上がりがね、できなくて。他のはなんでもできたんだよ?」
「ああ」
「お姉ちゃんには簡単にできてたの。美希は何回やってもできなくて」
どうやっても、何をしても追いつかない高さに登った姉は、うるさいくらいに応援してくれていた。
頑張れ、もうちょっと――
「それで、結局?」
「ん…。そのまんま。時間も遅くなっちゃって、帰ってご飯食べて寝たの」
「そうか…」
努力なんてしたくない。疲れることは嫌い。でも、それでも、
「だから、逆上がりの練習。思い出しちゃったから」
悔しさとか、置いていかれるって言う気持ちとか。
「美希は、お姉ちゃんに負けたんだと思う。何にもできないお姉ちゃんに」
悔しかった。悲しかった。でも、それ以上に、
置いていかれるのが、怖かった。
「…なぁ、美希。今日は、逆上がりの練習するか」
「へ? …いいの?」
驚く。いつもはボイストレーニングとか、ダンストレーニングなのに。
今日は逆上がりの練習なんて。
「いいよ。その代わり、ちゃんと回れるまでやるぞ?」
「…うんっ!」 


特訓が始まった。
一度回ろうとして失敗し、ダメ出しと講義後に再チャレンジ。
また失敗し、ちょっといじけそうになり、またチャレンジ。
だから、手の握りは逆手じゃないと上手く回れないって!
それより、足をもうちょっと畳んだほうがいいと思うの!
アイドルとプロデューサーと逆上がりという、なんとも阿呆な特訓は、お互いの主張を上手く入り混じり合わせつつ進んでいった。
「…うん。何か、さっきより上手く回れそうって思うな」
「おう。じゃあ、最後だ。回る瞬間に身体を腕に引き寄せてごらん。身体をコンパクトにまとめて回りやすくするんだ」
「こんな感じ?」
実際に鉄棒を掴み、胸を鉄棒に近づける。そうそう、と頷くプロデューサー。
「うん、わかった。じゃぁ、やってみるね!」
「おう。頑張れ!」
頑張れ。
嫌いな言葉だった。それが、今は不快ではない。
すでに身体は汗だくだ。腕はさっきからびりびりして痛いし、地面を蹴る足にも力が入らなくなってきた。
それでも。
頑張れ、もうちょっと――
あの日のあの時のお姉ちゃんが、一回転した地球の向こうで待っている。
「せぇ…のぉ…っ!」
地面を蹴る。
身体を腕に近づける。
足を畳む。
残った有りっ丈の力を運動エネルギーに変え、足を空に放り投げる。
「…わっ」
ふわりと、浮いた。
瞬間、地球が回る。勢い余って足が地面に付いた。後を追うように金髪が背中めがけて降りてくる。
「…できた」
「おう」
「……できたーーー!!」
叫んだ。
歌で鍛えた響く声が、夕日の向こうに消えていく。 


それから少しで、回りきった後も鉄棒に残っていられるようになった。
「プロデューサー、もう完っ璧に回れるようになったよ!」
「おう。頑張ったな!」
「うん!」
頑張った、と言われてうれしかった。
上手くバランスをとりつつ鉄棒に留まる。
遠くに見える夕日は、どれだけ長い時間特訓をしていたかを物語っていたかのようだった。
「…綺麗だねー」
「そうだね」
「…ねぇ、プロデューサー」
返事の代わりに鉄棒に寄りかかる。夕焼けが2人の顔を照らしている。
相変わらず2人しかいない公園。ジャングルジムにブランコに滑り台。
設備だけは良く揃った公園の、砂場の横にある鉄棒。
「美希ね、もう少し頑張ってみるよ。頑張ってみるから、」
あの日のあのときのお姉ちゃんは、ずっと美希を見ていてくれた。
だから、きっと、
「美希の事、ずっと見ててね?」
「おう。…任せとけ」
きっと、この人もずっと美希を見ていてくれる。 


次のオーディション会場は大掛かりだった。
勝率70%以下お断り、出演できたならばアイドルとして大成功が約束される「HIT-TV」の控え室は、さすがに緊張に包まれていた。
どのアイドルも歌詞や振り付けの見直しに余念がない中、美希はのんびりと歌詞チェックを行っていた。
ホワイトボードには参加者の名前が羅列されており、星井美希はその中ごろに入っている。
そして、最上部には。
「まさか今回もかち合うとはな」
「? ああ、何だっけ、ラ王エンジェル!」
「そういうギリギリな間違いは厄介だからやめなさい…」
「はーい。面白いのに」
ちょっと笑いながら歌詞チェックに戻る。
美希の仕上がりは今までにないほどだった。
テンションも最高に近いし、何より今回はオーディションに向けてあらゆる努力を惜しまなかった。
練習量だけなら、ここにいる誰にも負けないと思
突如響くヒールの音。
圧倒的な存在感、アイドルとして容姿には自信のあった参加者を釘付けにするそのヴィジュアルと、
瞬間的にその場に居合わせた全員をひきつける絶対的なカリスマ性。
畏怖と絶望の声を背中に受けつつエンジェルが進む。
そして当然のように美希の前に立ち、そして当然のように、
「退いて頂けますか?」
「席ならどこでも空いてるよ」
当然のように、美希がそう返した。実に見事なカウンターだった。
「HIT-TV」の合格枠も6名中の1名だ。だが、今回は怯まない。たった1名の座席を得るために、『星井美希』は勝ちに行く。
洋々とステージに向かって行く。
不安などない。あるのは期待だけだ。
そして、いよいよオーディションの幕が開く。 


「今回のオーディションはちょっと癖があってさ」
オーディション前日のミーティングで、プロデューサーはおもむろにこう切り出した。
「HIT-TV」は26ある特別オーディションの中でもきわめて攻撃的な採点方法を採っていることで有名だ。
「癖? どういうこと?」
「中間採点で1位にならないと、そのセッションの得点が入らないんだ。つまり、」
「2位、3位じゃ意味がないって事?」
その通り。従って、最高得点が得られる流行1位は苛烈な争いが予想される。
「ってことは、当然『魔王』も流行1位を狙ってくるって事だよね。うわぁ…。抑えられるかな…」
すでに『魔王』がオーディションに参加する事を前提に考えている美希に、少しだけ苦笑する。
オーディション敗退は痛かったが、そのおかげで美希に自覚が生まれたのなら安いものだと思う。
じゃあ、『魔王』がオーディションに参加する事を前提として、と前置きし、
「そう思うだろ? でも、そうじゃない可能性が高いんだ」
「へ?」
どういうこと、と美希が問う前に、プロデューサーはやたら分厚いファイルを取り出した。
『魔王対策ファイル』と名されたそのファイルを開くと、
最初に飛び込んできたのは最近行われたオーディションと、『魔王』の勝利数の表だ。
「うわ。凄い数勝ってる」
「さすがは『魔王』ってところか。でもな、ここに流行の線を入れるとこうなる」
そういうと、プロデューサーは朱色と青で流行の移り変わりを書き加えた。
波目のように移り変わる流行の中でも、『魔王』は安定して勝ち続けているように見える。
「? ぜんぜん変わんないよ?」
「うん。最後に、ここに『魔王』の各オーディションの得点を書き加えると…」
今度は黒で各オーディションの得点を書き加える。
美希ですら出した事のないような点が書き加えられていく中、美希はある事に気がついた。
「あれ? コレとコレって、他に比べてずいぶん」
「点が低い…それにしたって凄い点だけど。じゃぁ問題。このオーディションは何だ?」
「『舞道場』と、…『DANCE-MASTER』?」
そう。『舞道場』、『DANCE-MASTER』の得点は、『魔王』のいつもの点に比べてひどく低い。
これは、すなわち最高点が与えられる流行1位であまり成績が振るわなかった事を示している。
つまり、 


「『魔王』は、ダンスが苦手ってこと?」
「他に比べれば、だけどね。でも、今週に入って、流行1位は変わったね?」
「…あ! ダンスだ!」
先週に変わり、今週の流行1位はダンスになっていた。
これは、つまり流行1位で『魔王』に付け入る隙が生まれた事を意味している。
「ここでさっきの『1位にしか点が入らない』っていうルールが生きてくる。
つまり『魔王』は、みんながダンスの点を狙いにいく事を見越してボーカルとヴィジュアルの点を稼ごうとするはずだ」
流行2位と流行3位の得点をあわせれば5点。
この5点を取り続けることができれば、3セッション全てで実際に流行1位の点を取れなくても、
3セッション全てで流行1位を獲り続けたに等しい点を取得する事になる。
そして、『魔王』以外のユニットが15点以上を狙わなければならない場合、
必ずどこかで流行2、3位の中間1位を奪取しなければならない。
当然、それは『勝つ気でいるならば獲り続けなければならない流行1位』
に割くアピールの割合を下げなければならない事につながっていく。
「でも、どのユニットもそう考えているだろうから、アピールは乱立する事になる。
必ず1位が取れるユニットでもない限り、流行2位と3位の得点は各ユニットで分散される。
結局『魔王』以外のユニットは共倒れせざるを得なくなる。
そうなったら、『魔王』は口をあけて待ってるだけで合格が転がり込むって寸法だ」
「…むー、難しいよ…。で、美希は何をすればいいの?」
「うん。流行1位で中間得点1位を獲り続ければいい」
「へ? それだけでいいの?」
驚く。あれだけ難しい事を言っていたのに、美希が実際にやる事といったらそれだけなのだろうか?
「うん。中間1位を獲り続ければ全部で15点だろ?」
そうすれば少なくとも、『魔王』と同等の点をオーディションで獲得できる事になる。
いかに『魔王』といえど、流行2位、3位の中間得点1位を守り続ける事は、
「不可能じゃないだろうけど、そこまで簡単な事でもない。
流行1位得点取得を狙ってたほかのユニットが、いつ流行2位と3位に矛先を向けるかわからないからね」
「ふーん…。でも、こういうこと考えてるのが美希たちだけじゃなかったら?
 流行1位ばっかり狙おうって言うのが、『魔王』以外の全員だったら、」
「そのために、美希にはこの1週間ダンス漬けの日々を送ってもらったろ?」
「…あ!」
思い出す、この1週間のスケジュール。
ダンスダンスダンス営業ダンスダンス。確かにダンス漬けの日々だった。
アクセサリーにはダンスイメージを増幅させるものを選択しているし、衣装も然りだ。
「後は、ボーカルとヴィジュアルで最低点を取らないようにして失点を防ぎつつ、流行1位を狙えばいいわけだ。
もっとも、この失点をしないって言うのも大変なんだけど」
「でも、そうすれば勝てるんでしょ?」
「…可能性は、あると思う」
「じゃあ、信じる。美希、プロデューサーさんのこと、信じるよ」
まっすぐにこっちを見る。
――美希の事、ずっと見ててね?
――任せとけ。
思い出す。鉄棒の約束。任せとけ、という言葉。
「…うん。じゃあ、明日は頼んだぞ!」
「もっちろん。プロデューサーさんこそ、ちゃんと見ててね?」
「おう。任せとけ」 


音楽が始まった。
今回のオーディションで美希が選んだ曲は「relations」。
一度聞いただけで美希自身が気に入った勝負曲だ。
軽快なダンスリズムに合わせ、音楽に飲まれないようにステップを踏む。
ある時は足を交差させ、またある時はダイナミックに腕を振り回す。
ステップを軽やかに、表現は重厚に。
身体をスピンさせ、与えられた振り付けを豊かにこなしていく。
――凄い。身体が、動く!
記憶の中のダンス漬けの日々がよみがえる。
よりダイナミックに、より繊細に曲を表現するための手段としてのダンス。
それ故に曲がおろそかになることは許されず、歌はダンスとつながって表現を作り出す。
お膳立ては整った。今度は、ダンスに加えて歌が始まる。
息を吸う。泣いても笑っても2分間で終わる勝負が始まる。

♪夜の 駐車場で…♪

『ねえ、プロデューサーさん?』
『うん?』
オーディションに向かう車の中、何気なく思った疑問をプロデューサーにぶつけた記憶がよみがえる。
『『魔王』って、最初から『魔王』だったの?』
『へ?』
『んー、だから、『魔王』は最初からあんなに凄かったのかなって』
『あー…いや、そんな事はないと思うよ』
赤信号につかまったところで、プロデューサーはあごに手を当ててそう答えた。
『そうなの?』
『自信はないけど。でも、あれだけの事が最初からできる人なんてそういないよ』
『ふーん。…頑張って、『魔王』になったってこと?』
『なったっていうか、頑張った先に『魔王』っていう称号みたいなのがあったんだろうね』
青になり、周囲の車が動き出した。右折レーンに入った車はそのまま若干の足止めを食らって停まる。
『称号?』
『うん。頑張って練習して技術を身につけて、そのうちオーディションで負ける事が滅多になくなって、あんな名前になったんだと思う。
最初から何もかも持ってたんじゃなくて…ひょっとしたら、何にもないところからスタートしてるかもしれないし』
『何にもないところって、何にもできないところからってことだよね?』
頷いた。補助信号が右折を示し、車は急いで車線を変える。オーディション会場まではもう少しだった。
『じゃあ、美希は何にもできなかった人に負けたんだね』
『悔しいかい?』
『ちょっと。…でも、凄いと思うな』
何にもできなかった『魔王』は、何でもできる『魔王』になった。
何にもできない、と、何でもできる、の間の努力の量がどれほどなのか美希にはわからないが、それは想像できないほどの量だろう。
何にもできなかったお姉ちゃんは、努力して練習して逆上がりのできるお姉ちゃんになった。
それは、美希にも、
『…美希にも、できるかな』
『できるさ。俺が保障する』
『ホント?』
会場に着いた。ドアを開ける。
『もちろん』
『…うん!』 


なんて事だ。オーディションの最中、『魔王』はそんな事を思う。
あの控え室に入ったとき、真っ先に目に入った新人は、およそ新人らしからぬ輝きを持っていた。
他のユニットが意に介す事もない有象無象で、その新人が光って見えたのならば話は別だ。
だが、新人の輝きは本物だった。
脅威を感じた。『魔王』と呼ばれた自分が。
近いうちに必ず、自分を脅かす存在になるであろう新人に。
芽を潰さなければならなかった。自分が輝き続けるために。その芽が、危険であるならばなおの事。
およそアイドルらしからぬ物言いを新人にぶつけたのもそのためだった。
そしてその時、新人は確かに潰れた。
潰れたと思った。それなのに。
わずか数日の間に、新人は立ち直った。
立ち直っただけではない。新人は…『星井美希』は、以前以上に輝きを増した。
何があったかは分からない。分からないが、1つだけ分かる事がある。
『星井美希』は、すでに自分の脅威であった。
だから、手を抜く必要は全くなかった。
自分の持てるあらゆる力を動員し、ライバルを蹴散らしにかかる。

美希の1セッション終了時の中間得点はダンスが1位で5点だった。
計画通り。引き続きダンスアピールに重点を置きつつ、ボーカルとヴィジュアルで点を引かれないように注意しながら展開する。
その時、突然、
「1番のダンス冴えてるね!」
と言う声が聞こえた。1番と言えば『魔王』だ。
動揺する。なんで? ダンス苦手じゃなかったの?
驚きと怯えの表情を笑顔で押し隠し、目線だけでプロデューサーを探す。
作戦を変更するのか。
するとしたらどういう配分にするのか? それとも作戦はこのまま変更しないのか?勝算はあるのか?
プロデューサーの姿はすぐに見つかった。
審査員席の後ろ側、客席後列の関係者席の一番右の下から4段目。
まっすぐに、こっちを見ていた。
―――任せとけ。
思い出す。あの時の約束。
美希を見つめるその表情は、約束を交わしたあの夕焼けの表情と変わらない。
―――プロデューサーさんのこと、信じるよ。
動揺が消える。ダンスにキレが戻る。自信ある歌い手により、歌と表情に張りが生まれる。
「relations」のサビが始まる。

♪「じゃあね」なんて言わないで 「またね」って言って…♪ 


軽口哲也は、驚愕していた。
前回のオーディションで、『星井美希』は目を覆うほどに精彩を欠いていた。
ダンスにはキレがなく、声に張りはなく、表情は強張っていた。およそアイドルとはいえない――そんな印象さえ持った。
それが、今回はどうだ。
ダンスには細部まで神経が配られ、声は伸びやかに歌い、表情は歌詞にシンクロして歌を鮮やかに彩る。
前回の『星井美希』と今回の『星井美希』は、何か決定的なものが明らかに違う。
ポイント制の採点をしている以上、1位が入れ替わる事はよくあることだ。
1次セッションで群を抜いてダンスポイントを獲得していた『星井美希』が
2次セッションで『魔王エンジェル』に逆転されたときは一瞬動揺したようだが、それすらも一瞬で立ち直して見せた。
動揺すら演出。ダンスで、歌で、表現で魅せる。
「…3番、いいねぇ…!」
気がつけば、そんな声が漏れていた。

♪私のモノにならなくていい そばに居るだけでいい…♪
歌う。踊る。魅せる。
楽しくてたまらない。
喉に熱がこもる。
指先まで神経が伝わっているのが分かる。
表情が歌詞にあわせて自由に変化する。
今までにない経験だった。充実感が身体からにじみ出る。
いつまでも歌っていたい。いつまでも踊っていたい。そんな風にすら思う。
――ねぇ、プロデューサーさん。
目線を投げる。審査員席の後ろ側、客席後列の関係者席の一番右の下から4段目。
まっすぐにこっちを見つめる、自分を見てくれている人。
――美希、ちゃんとアイドルしてるよね?
楽しい時間の終わりは、徐々に近づいていた。 


「楽しかったー! ねぇねぇ、プロデューサーさん、今日の美希どうだった!?」
収録が終わり、事務所へ向かう車の中でも、美希はずっとそう言っていた。
「さっきも言ったろ? 最高だったって。美希だってそう思うだろ?」
「うんっ!」
さっきからずっとこんな感じだ。楽しくて仕方のなさそうな美希の様子を見て、遠足前の子供のようだ、と思う。
はしゃぎまくる美希の相手を適当にこなしながら車を走らせ、もうすぐ事務所に着くというところで、美希は突然静かになった。
「ねえ、プロデューサーさん」
「んー?」
「見ててくれて、ありがとう。今日のオーディションのときも」
視線だけを美希に向けると、美希は神妙な顔をしてこっちを見ていた。
視線を戻す。
「見ててやるって言ったからなぁ。お礼言われるようなことじゃないよ」
「そ、それでも!」
「なぁ、美希」
なおも食い下がる美希に向けて、声だけで応答する。
思い出す。オーディションのときの、伸びやかなダンス。張りのある声。
楽しくて仕方がないような、美希の笑顔。
「…トップ、狙おう」
「…うん。あ、じゃあ、もう一回、約束して?」
「何を?」
「美希を、ちゃんと見てるって。トップまで行っても、その後もずーっと」
もう一度視線を美希に向ける。相変わらず神妙な美希の表情。
あの日の夕焼け。汗だくになって逆上がりの練習をしたあの日。
「おう。…任せとけ」

その時、美希ならばきっと上までいける、そう確信した。
その後、『星井美希』は一気にブレイクするアイドルへと変貌を遂げるが、それはそう遠い事ではない。
(終) 



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