Like a river(後編)

作:缶珈琲

オーディションの控え室で、千早は一人、開かないドアを見つめ続けていた。

(プロデューサー、遅い……)

 いつもなら、オーディションが始まる前はプロデューサーが付き添っているのが
当たり前だった。他の参加者の技量や傾向、そういったものを見極めて対策を
練るのもまた、プロデューサーの仕事なのだから。
 しかし。
 ドアの開く気配がし、千早は顔を上げたが、入ってきたのは別の人物……妙齢の
女性だった。
 一礼してから、参加者一同を見渡し、今日のオーディションの審査員の一人で
あることを告げ、参加者の確認を始める。

(……私は、見捨てられたのだろうか)

 そんな考えが千早の頭をよぎる。

「……番。エントリー6番!」

「……あっ、はい!」

 あわてて顔を上げると、審査員は少しあきれたように千早を見やっていた。

「6番。集中するのは結構ですが、人の話は聞いておきなさい。それでは改めて、
今日の意気込みを聞かせてもらえますか?」

 他の参加者のくすくすという笑いが聞こえた気がして、千早は、くっ、っとほぞを
かんだ。プロデューサーさえちゃんといてくれれば、こんな恥はかかずに済んだ
はずなのに……

(……いや、もういい)

 自分が見捨てられたと言うのなら、こちらも相手を見捨てればいいだけだ。所詮、
この厳しい世界で、本当に頼れるものは自分だけなのだから。
 千早はきっとまなじりを決して、審査員にこう答えた。

「……私を、見てください!」 

「プロデューサーさん! 大丈夫ですか、プロデューサーさぁん!」

「こら春香、あまり大声を出すな、いちおう医務室なんだから」

 と言いつつ、青年はこの部屋の様相を思い出して、弱弱しい苦笑を漏らす。
かろうじて横になれるだけの狭いスペースと、申し訳程度の救急箱。たまたま
余った部屋に、医務室と名前をつけてあるだけというのが実情だろう。
 青年は、蒼白な顔色をして、そこに横たわっていた。

「……実は、この間から体調が優れなくてな。朝の時点で、こりゃ今日はやばい
かな……とは思ってたんだが」

「もう……驚かせないでくださいよぉ。ほんとに……心配したんだから……」

「ああ……ごめんな、春香」

 謝りつつも青年は、壁に掛かっている時計に視線を移す。春香もつられるように
それを見た。

「……千早のオーディション、始まっちゃいましたね……」

「ああ。……そのことで春香に頼みがある」

「はい?」

 青年は切り出した。

「今日のオーディション、俺の代わりに、千早のアドバイザー役を務めてくれないか」

「えっ? ……えええーっ!?」

 目と口で三つの正円を作って、春香は叫んだ。

「だから大声を出すなってば」

「むっ、無理ですっ、プロデューサーさぁん!」子供がいやいやをするように、春香は
首を振る。「だいたい、千早の方が私より歌もうまいし、ダンスだってできるし、だい
たい、けんかしてる最中なのに私の言うこと聞いてくれるわけないし……」

「大丈夫。俺に出来るなら、春香にできないわけないさ。春香の方が、あいつとの
付き合いは長いんだ。……だろ?」

「で、でもでも、失敗したら……」

「その時は俺が責任を取る」青年は弱弱しい声で、しかしきっぱりと言った。「なあ、
千早のそばについててやってくれ。頼めるのはお前しかいないんだ、春香」

 春香はぐっとうつむき、そのままたっぷり1分以上は考えていただろうか。
 やがて顔を上げたとき、春香の顔は不安げに曇ってはいたが、少なくとも瞳は、
しっかりと青年を見つめていた。

「どこまでできるか、わかりませんけど……とにかく、やってみます!」 

 千早がオーディション会場に入ると、そこには、先ほどの女性の他に、あと2人の
審査員が席について待っていた。
 肩書きを確認する。作曲家、有名な元ストリートダンサー、番組のディレクター補。
おそらくは、それぞれ歌唱力、ダンス、ビジュアルに重点を置いて採点するのだろう。
千早がこれまで受けてきたオーディションとほとんど同じ編成だった。

「それでは6番、始めてください」

「はいっ! 6番、如月千早です! よろしくお願いします!」

 イントロが流れ始め、それにあわせて千早はステップを踏みつつ、自らののどに
宿る、神から与えられた最高の楽器をかき鳴らしはじめた。
 他の参加者の歌はすでに聴いていた。現在の流行にあわせて、過半の受験者が
ボーカル力に焦点を合わせたアピールを行っていた……が、客観的に見て、自分の
歌唱力は一歩抜きん出ていたと思う。

(そのアドバンテージさえ生かせれば……!)

 千早は声量も豊かに、会場の空間を歌で満たした。


 春香が会場にたどり着いたのは、千早の歌がサビに入ろうかというところだった。
まず最初に美しい声が耳を打つ。さすがだな……と思ったが、歌う千早に目を向け、
そして愕然とした。
 千早は歌に集中していた――集中しすぎていた。ステップは正しくリズムを刻んで
はいたが、本来あるべき躍動感がそこからは失われていた。表情は硬く、この歌の
持っている明るさや楽しさを伝えていなかった。

(……いけない、それじゃいけないよ、千早!)

 しかしその春香の思いが、千早に届くはずもなかった。
 ダンス担当とビジュアル担当審査員の、手厳しい評価が投げられるまでは。 


 第一審査終了。
 控え室に戻った参加者たちは、それぞれ思い思いに、自分の担当プロデューサー
と、次へ向けての打ち合わせをしている。
 そんな中で、ただひとりの千早は、ぽつんと浮いていた。

「千早……」

「春香? ……何をしに来たの、今ごろ。プロデューサーは一緒じゃないの?」

「それが……」

 春香はここまでのいきさつを説明しはじめた。それを聞いている間、千早の表情は、
いつもと変わらぬ冷静さを保っていた。保っているように見えた。

「……そういう事情なら、プロデューサーについててあげて。私なら、一人で大丈夫
だから」

 そう千早に言われて、春香はかぶりを振る。

「さっきのオーディション、途中から見てたよ。千早、いつもプロデューサーに言われて
るよね? いくらボーカルが得意でも、それだけアピールしてちゃダメだ、って」

「……あなたに言われなくたって!」

 激発しかけた感情を、千早はかろうじて押しとどめた。目を閉じて数呼吸数え、
どうにか平静を取り戻す。
 そのまま、春香と目を合わせないように、うつむいたままで言う。

「そろそろ、二次審査が始まる……行くわ」

 春香に背を向ける。その瞬間、春香の顔が一瞬だけ視界の隅に映った。

「千早の、わからずや!」

 投げかけられた叫びに答えることもせず、千早はそのまま歩き出した。
 しかし――
 今、春香の顔に見えたもの。
 あれは、涙ではなかっただろうか――。 


(同じ間違いは、繰り返さない)

 ダンスとビジュアル面。前節でないがしろにしすぎたそれらに対し、千早はバランス
よくアピールする事を心がけ、そして確実にこなしていった。
 その分、ボーカルアピールのインパクトが薄まることは否めないが、止むを得ない。
そう、止むを得ないのだが……
 最も得意とするボーカルをおざなりにする。その不安感が、千早の心にさざ波を
立てた。いいのか、本当にこれで勝てるのか……?

『いいか千早。使い古された言葉だけど、歌は心だ』

とっさに千早がすがりついたのは、かつて聞いたプロデューサーの言葉だった。

『歌が人の心を震わせるなら、その逆も真……つまり、心の震えから歌が生まれ
るんだ。だから、歌い手はいつも、感動したことやうれしかったこと、それを心の中に
持っておかなくちゃいけない。それはきっと、歌手の武器になる――』

 その言葉自体、実は社長からの受け売りだったのだが、そんな事を知る由もない
千早は、その言葉にすがりついた。すがりつくしかなかった。
 心の地層から、埋もれた何かを掘り起こそうとあがく。
 きらり、と光る何かが見つかった、と思った。


『――今からクッキー焼くんです。手伝ってくれませんか?』


 その記憶は、どこか懐かしい笑顔とともに、千早の脳裏によみがえった。

(……くっ!)

 我に返ったときにはすべてが遅かった。
 まず、足がもつれた。ぐらり、と世界が傾き――むろん、実際に傾いているのは
千早の体の方だ――体勢を立て直すために体に力を込め、それが呼吸を乱して、
歌の流れを一瞬途絶えさせた。後悔と失意が、千早の端正な顔を暗い色に染めた。
 無我夢中で残りを歌い終えたとき、審査員は言った。

「6番。……あなた、やる気あるの?」

 失望を隠そうともしない一言だったが、千早の耳には、奇妙に遠い声のように
聞こえた。

(……どうして。思い出を探して、どうしてあなたが出てくるのよ……)

 千早は無言のまま、その場を立ち去った。

(どうしてあなたなの、春香……っ!) 

「千早……」

「話しかけないで……」

 消え入りそうなその声は、かつてステージの上で自信をみなぎらせていた千早とは、
まるで別人のもののようだった。

「そっとしておいて欲しいの、お願い……」

 かすかな声の中に、明確な拒絶が含まれていたが、春香は引かなかった。

「……そんな訳にいかないよ。プロデューサーさんに、千早のこと、頼まれたし、
それに、やっぱりほっとけないよ……」

「……どうして?」

「どうしてって、それは……」春香は、自分の気持ちを言い表す言葉を捜した。「千早に
とっての夢を、あきらめて欲しくないから……かな」

「夢を……?」

 千早ののどから、くくく、と嗚咽に似た音が漏れた。それは、ひきつった笑いのような
ものに変わり、そして怒りとなってほとばしった。

「簡単に言わないで! あなたに、私の夢の重さが分かるの!?」

「分かるよ!! だって……」

 春香の視線はまっすぐだった。千早の瞳を、正面から受け止めるかのように。

「だって私、千早の事、ずっと見てたもん! 一人で傷の手当てしてたのも! 
暗い部屋で涙を拭いてたのも! 全部! 全部見てた!」

 頭を殴られるような衝撃を、千早は覚えた。

「だから……だから、私……千早に笑って欲しかった……千早の力になりたかった
……なのに……」

 春香の大きな瞳から、大粒の雫がぽろぽろとあふれ出す。

「デビューしてから、私、自分のことだけでいっぱいで……ごめん……ごめんね、
千早……!」

 ようやく、千早は全てを悟った。この友人の優しさを、心遣いを。
 そして、あの日のクッキーの意味を。
 泣きじゃくる春香に近づき、その頬を、千早はそっと指でぬぐった。

「バカ……なんで謝るのよ」

 謝るべきは私だ。この出会いが、いかにかけがえのないものだったか、それに
気づけなかった、私だ。
 千早は、喉まで出かかったその言葉を押しとどめた。今、口に出す言葉はそれ
ではないはずだ。
 そう、今、口にすべきことは。

「……プロデューサー代行、最終審査の対策と指示をお願いできますか?」

「……千早?」

 春香に見つめられて、千早の生真面目な表情が崩れ、少し照れたような微笑が
それにとって代わった。

「次の審査……全力で取りに行くわ。だから、あなたの力を貸して、お願い」

 春香の顔が輝いた。 

 今日のオーディションは、どうも退屈だ。これといって見所のある奴がいない。
 そう思っていたダンス審査員は、最終審査に至って、思わぬ展開に眼を見張る
こととなった。
歌は抜群にうまいが、それ以外は精彩を欠き、ほとんどノーマークだった6番が、
突如として方向性を変えたのだ。
 ときに激しく、ときに優しく。緩急自在のステップには、観る者をひきつける魅力が
あった。

「おっ……6番のダンス、来たねぇ……」

 思わずそんな声を漏らす。それは千早と、関係者席で見守る春香の耳にも
届いていた。
 続いて、ビジュアル審査員が、ひゅうっと口笛を吹いた。6番の輝くような、それで
いて恥じらいや甘え、拗ね、そんな多彩な感情を包みこんだ笑顔。それは異性
だけではなく、同性さえ魅了するだろうと確信できる物だった。

 ダンスとビジュアル、その二つにアピールを集中する作戦。千早の志向とは
正反対のスタイルだったが、今の千早に迷いはなかった。


『私、思うんだけど……ボーカルの審査員さん、そろそろ帰りたがってると思う。
今日、ボーカル中心のユニットが多いから……』

『分かるの? 審査員の態度を読むのは、プロデューサーだけの特技だと思って
たけど』

『プロデューサーさんほど、自信を持って断言できないけど。でも、いらいらしてる
仕草とかから、なんとなく、そうかなって思う』

『分かった。春香の判断を信じるわ。だとすれば、作戦としては……』

『うん。まず最初はダンスとビジュアルに集中するの。それで、その途中で、審査員
さんの興味をとり戻すことができたなら……』


 二人の審査員は、半ば身を乗り出すようにして、千早のパフォーマンスに見入って
いる。まずは順調と言えた。後は。

(三人の興味を一気に引き付けなくちゃいけない。その為には……!)

 さっきの審査では失敗した。だが、今なら。あの記憶の本当の意味が分かった
今なら、失敗なんてしない。するはずがない。

(……私の心よ、翔んで! あの日の『思い出』へ!)

 時間が圧縮され、とてつもない速さで逆流した。 


 リストバンドをめくると、小さなあざができていた。

(顔じゃなくて、よかった)

 投げつけられた灰皿を、とっさに腕でかばえたのは上出来だった。千早は、傷に
膏薬を塗りながら、そんな事を考えていた。容姿を自分のセールスポイントにする
気はないが、顔に傷跡でもできてしまえば、芸能活動にあたってのマイナスになり
こそすれ、プラスにはならないだろう。
 自分のことだと言うのに、千早はまるで他人事のように分析していた。いや、そう
しようと努めていた。そうしなければ、折れてしまいそうだったから。
 頬を何かが伝った。それが自分の涙であることを理解するのに、数秒を要した。

(……こんな事ぐらいで、負けてなんかいられない……)

 この765プロの門を叩いたのは、ほんの数日前のことだ。まだ、誰一人デビューを
果たしておらず、そもそもプロデューサー職が一人もいない、果たして、社長に
やる気があるのか疑わしい事務所。だが、たかが15の小娘である千早が、親の
協力もなく芸能の道を志すには、これが精一杯の選択だった。

「ええと、如月さん? そこにいますか?」

 ほがらかな声が響いて、千早はあわてて傷跡をリストバンドで隠した。確かこの
声は、この事務所の……そう、天海春香という名の少女だったか。

「あ、いたいた♪ 如月さん、こんにちはっ!」

「え、ええ……こんにちは」

「ちょうど良かった。私一人だと、ちょっと手が足りないなぁ……って。えへへ」

 まだ、ほとんど見知らぬ相手に近い千早に、春香は人懐っこい笑顔を向けた。

「ええと、今からクッキー焼くんです。手伝ってくれませんか?」 


 ♪すてきな夢見たおひるねタイム おっかけフォーカスふりきり♪

 765プロの小さなキッチン――事務所の規模から言って、そんな物がある事が
千早には信じられなかった――で、クッキーの生地を平たく伸ばしながら、春香は
ずっと歌っている。
 変な歌だ、と千早は思った。

 ♪二人で走る 青いバイク 潮風の中♪

「ええと、それは、天海さんのデビュー予定曲か何か……ですか?」

 千早が聞くと、春香は屈託のない笑顔のままで答えた。

「違いますよぉ。私もまだ、ぜんぜんデビューの予定なんて立ってないし……。
これは、子供の頃に好きだった、アニメの歌なんです」

「……アニメ?」

「はい。でも、なんだか楽しい歌でしょ? そのせいかな、お菓子作りの時は、
なんだか自然に出てくるようになっちゃって」

「そうですか。私はまた、息抜きしながらも自主ボーカルレッスンを欠かさないのかと……」

「あははっ、それもちょっとありますけど。でも、いちばんの理由は、クッキーをおいしく
焼くためなんですよ」

 言いながら春香は、キッチンの引き出しから型抜きをとりだした。やり方がわから
ないらしく、戸惑っている千早に、やり方を実演してみせる。

「ほら、お菓子って、みんなでおいしく食べるためのものでしょ? だったら、作ってる
人が楽しい気分じゃなきゃ、食べる人にも伝わらないって思うんです」

「……そんなものでしょうか?」

「私は、そう信じてます。あ、そういう所の型を抜くコツは……」

 バットの上に、さまざまな形のクッキーが並んでいく。そろそろ千早が手馴れてきた頃、
いつの間にか春香は歌の続きを口ずさんでいる。

 ♪地球の平和を守るため はるかな星から来たけれど♪

 正直に批評すれば、それほどうまいとはいえない。それが千早の感想だった。
 だが、なぜだろう。この子の歌には、どこか人を惹きつけるものがある。自分には
ないかも知れない何かが――。

「あー! はるるん、クッキー焼いてるぅ!」
「ねえ、真美たちに味見、させてさせて〜!」

 どたどたと騒がしく走りこんできたのは、この事務所最年少の双子、双海亜美と
真美の姉妹だ。

「うーん、焼きあがるにはもうちょっとかな。それより、他のみんなに、声、かけて
きてくれるかな? もう少ししたらおやつにしましょう、って」

「ちぇ〜。後でい〜っぱい食べさせてよねっ!」
「それじゃ、他のお姉ちゃんたち呼んでくるね〜!」

 来たときと同じく、二人が元気に走り去っていくと、少しだけの静かな時間が生まれた。

「ねえ、如月さん」

「……何ですか?」

「友達になりませんか?」

 いきなりの申し出に千早は鼻白んだが、春香はお構いなしに続ける。

「私だけじゃなく、ここのみんなと。こんなお仕事だから、仲がいいだけじゃダメかな
……って言うのは分かるけど、でも……みんな夢はおなじだから、きっと、最高の
友達になれるって……そう思います」

「友達……」

 まったく、どうもこの子といると自分のペースが乱れる。そう千早は思ったが、しかし、
不思議と不快ではなかった。
 小さな咳払いをしてから、千早は答えた。

「……とりあえず、どうすれば?」

「そうですね、最初は……うん、私を、春香って呼んでくれるところから……かな」 


 それは時間にすれば、ほんのひとまたたきの回想だった。
 ほんの数分前までは、とりたてて特別ともいえない、心の中の石ころのような記憶。

(でも、春香の告白が本当ならば)

 その記憶は別の意味を持つ。そうだ、あれは私への――ただ一人で泣いていた
私への、まだ友達でもなかった私への、優しいプレゼントだったのだ。そう、春香と
いう少女は、そういう子だった。これまでも、きっとこれからも。
 今、その思い出は光り輝いていた。暖かくすべてを包み込む、春の香りがする
日差しのように。
 心の中で、何かが動き出しているのを千早は感じた。それは心の中で生まれ、
今まさに心の殻を破って外へ出ようとしていた。閉じ込めておくことなどできそうにない。
 だから、千早はすべてを開け放った。
 そして、解き放ってはじめて、千早は、自分の中から生まれ出でたものの正体を見た。
 それは、歓び。歌の姿をした、歓喜そのものだった。

 ボーカル審査員は、心音がワンテンポ跳ね上がるのを感じた。
 ダンス審査員は、知らず知らずのうちに足でリズムを取っている自分に気がついた。
 ビジュアル審査員は、一刻も早くこの少女をカメラのフレームに収めてみたいと思った。
 他の参加者たちは、それが自分と競合するライバルであることさえ忘れて、その
旋律の優しさに身をゆだねた。
 
 そして、その場にいた他の誰よりも強く、震える心があった。

(すごい……すごいよ! 千早!)

 今、この関係者席に――歌い手の外側に身を置いて、春香は改めて思う。千早と
いう子は、こんなにもすごかったのだと。そして、歌とは、こんなにも聞き手を感動さ
せるのだと。
 それよりも、何よりも嬉しかったのは。
 自分もまた、そんな歌を人々に贈る事ができるという事だった。
 なぜなら、自分は。
 アイドルという、この道を選んだのだから。

 春香の中でもまた、歌が弾けようとしていた。
 腰を下ろしているパイプ椅子が、やけに冷たい。分かる。この椅子は私を拒んでいる。
私のいるべき場所はここじゃないから。
 止まらない。止められない。誰にも。自分自身にさえ。
 そう、私のいるべき場所は――!

 視線を千早に向けたその瞬間、千早も春香を見た。

 いい?

 いいよ。

 一瞬のアイコンタクト、それで充分だった。
 その瞬間から、オーディション会場を満たす歌声は二つになった。
 審査員たちが、驚いたようにもう一つの声の源を見たが、そんなことはもう、どうでも
良いことのように思えた。

 そして、二人は歌った。
 優しさを歌った。希望を歌った。ときめきを歌った。
 情熱を歌った。親しさを歌った。夢を歌った。
 心を歌った。
 歌い続けた。 


「……はい……はい、ご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ありませんでした……」

 携帯を片手に、プロデューサーである青年は、相手に――おそらく、審査員の
誰かだ――かれこれ20分近くは謝り続けていた。誰もいない空間に向かって、
ぺこぺこと頭を下げている姿がどこか滑稽にも思えるが、そうなった原因を考えると、
そうも言っていられない。
 オーディションの合否は、終了後すぐに発表される事になっていたが、今日は
それが遅れていた。それが、春香の、ルールを無視した途中参加のせいなのは、
誰の目にも明白だった。

(落ちてる、だろうなぁ……)

 高揚感に身を任せて行動したとき、その興奮が去ってしまうと、とたんに自分が
恥ずかしくなることがある。今の春香がそれだった。

「……ええ、それはもちろん。本人たちにもよく言って聞かせておきますので……
はい、二度とないようにいたしますので。はい……はい、ありがとうございます。
では、失礼いたします……」

 ピ、と携帯の通話終了ボタンを押して、青年は二人に向き直った。

「……まったく。お前たちときたら、やってくれるよ。『オーディションの公正性を損なう
から、二度とやるな、今度やらかしたら出禁だ』だってさ。さんざ絞られちまった」

「ご、ごめんなさい……」

 小さくなる春香をよそに、千早は。

「プロデューサー? 体調、ずいぶんと良くなったようですね。声に張りがありますが」

「……げほげほ。そ、そんな事はないぞ。ほら、顔色だって悪いだろ」

千早は、やれやれ、といった表情で首を軽く横に振る。

「冷や汗ですか? 溶けてきてますよ、顔色を白く見せるメイクが」

 青年は、反射的に自分の頬をさわった。そして、一拍遅れて、しまったという顔を
した。あまりにも単純な引っ掛けだった。

「えっ……ええっ? どういう事? 千早?」

「プロデューサーに担がれた、って事よ。あなたも、私もね」

「いやぁ……ははは……」青年は、気まずげに頭をかく。「事務所の備品を借りて、
初めてメイクってのをやってみたんだが、難しいもんだなこれ。こんなのを毎日
やらなくちゃいけないなんて、女の子は大変だ……」

「……ごまかさないでくださいっ!!」

 さっきまでしょぼくれていたのもどこへやら、顔を真っ赤にして春香が青年に詰め寄る。

「あー……。すまん。悪かった」

「すまんじゃすみませんっ! 心配したのに! 私、本気で心配したのにっ! 
どーしてそんなウソなんかつくんですかぁっ!」

「仲直り、できたろ?」

「……あ」 


 ふぅ、と、ため息とも苦笑とも着かない吐息を漏らしたのは千早だ。

「つまり、私たちはプロデューサーの手のひらの上で踊っていた、と」

「それはどうだかな。さて……と。改めて聞かせてくれないか。今でもまだ、デュオを
解消したいと思うか?」

 青年の問いかけに、二人は真剣な顔になる。
 まず、口を開いたのは千早だった。

「この世界で身を立てていく以上、いずれは……そういう選択もあると思います」

 春香がはっと息を呑む気配を感じたか、千早は軽く振り向いて、小さく微笑んだ。

「だけど、それは今じゃない。今は、二人だからできる事を……二人でしかできない
事を、極めてみたい。それが今の私の、正直な気持ちです」

「わっ、私も!」春香が追いかけるように言う。「うまく言えないけど……二人で歌い
たいですっ! すごく!」

「……そうか」二人の言葉を聞き終えて、青年はようやく、白い歯を見せて笑った。
「それじゃ、名デュオ復活、だな」

「はいっ!」
「はい」

 二人の声が重なる。一人は元気に、一人は噛み締めるように。極小の、それは
ハーモニーだった。

「さて、と。それじゃ、そろそろ行こうか」

「行くって、どこへ?」

「TV出演の打ち合わせに決まってるだろ」 


 狐につままれたような表情の二人に、青年はいたずらっぽく笑いかけた。

「言わなかったか? 『本来受験するはずのデュオの片方が、不慮の事態のために
参加が遅れた』……と言う形で、あくまで今回だけの特例として扱ってくれるそうだ。
……合格だよ。おめでとう」

 その言葉の意味が、春香と千早の頭の奥まで染みていくのに、すこし時間がかかった。

「……やった。やったぁっ! やったよ、千早っ!!」

「ちょ、ちょっと春香、くるし……」

 抱き合って喜ぶ二人を前に、青年はこほんと咳払いをした。

「急いでくれ、時間が押してるからな。リハから何から、ちょっと強行軍になるが、
やってくれるよな?」

「まっかせてください!」

 春香は、こぶしでどんと胸を叩いてから、その手のひらを開いて、隣に立つ少女へと
差し出した。

「ほら、行こっ、千早っ」

「……ええ!」

 二つの手が、一つにつながる。
 その手を離すことなく、二人は走り出す。

「こらっ! 急げとは言ったが走るなっ! OA中のスタジオもあるんだぞっ!」

 青年は言ったが、二人は聞こえていないかのように、一本の道を走っていく。

「ああ、もうお前らときたら……待てっ、ちょっと待てっ!」

 さっき千早は「手のひらの上で踊らされていた」と言ったが、決してそんな事は
ないと青年は思う。なぜなら、この二人の少女は、おとなしく手のひらの上で
満足しているような二人ではないからだ。
 見ろ、今のあいつらを。まるで、空へ向かって飛び立つ鳥のようじゃないか――

 インスピレーションが、電撃のように青年の心を撃った。

(鳥……空へ飛ぶ……広い空へ……はばたく……)

 青年に、作詞や作曲の才能はない。だからそれは、楽曲に形を変える前の生の
イメージで、それゆえに鮮烈だった。

(たとえ傷ついても……飛び立つ………蒼い、鳥……!!)

 これだ。これが自分がプロデュースするべき歌だ。あの二人に贈る、新しい歌だ。
 青年はそう確信した。


 人の心というものは、川に似ている。
 ひとたび荒れ狂った川が、ふたたび穏やかさを取り戻したとき、そこには、上流から
運ばれてきた肥沃な土がある。
 それは、新たな命を芽吹かせ、根付かせ、育み。
 そして。
 いつかきっと、ふたたび美しい花を咲かせるのだ。
                              (FIN) 

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