ダンス

作:550

「違う違う! また同じところでミスしてるぞ!」
 レッスン室に響き渡るその声は、ひとりの少女に向けられていた。
「はぁ、はぁ……はい……!」
 その少女――如月千早は、頬を伝う汗を拭いながら、力強く頷いた。
 かなり長時間レッスンをしていたのか、千早の頬から首筋にわたって大粒の汗が伝っており、その頬も赤く上気している。
「どうしてもここのフレーズのステップがうまくいかないね」
 そう言って千早の元に歩み寄ってきたのは彼女のプロデューサーを務めている男性である。
 ワイシャツに緩めたネクタイという出で立ちの彼は、音楽を止めると千早にタオルを差し出した。
「はい……ここのステップが不規則で、歌いながらだとなかなか上手く……」
 乱れた息を整えながら、千早はタオルで汗を拭った。
 その場にペタリと座り込み、奥歯をかみ締める。
 悔しい、という感情をなんとか心の奥へと押しやろうとするが、千早とてまだ十台半ばの少女だ。
 体の奥から溢れてくるその感情を完全に押さえ込むには、彼女はまだ若すぎた。
「まぁ、あまり焦らないようにな。力抜いて」
 思いつめたような彼女をリラックスさせようとプロデューサーは千早の肩をポンと軽く叩くが、千早の表情は未だ硬いままだった。

 千早がオーディションに落ちたのは、先週の話だ。
 デビューして半年が経とうとしているが、類まれな才能を持った千早は、これまで順調にアイドルランクを上げてきていた。
 もちろんオーディションに落選することが初めてというわけではない。
 しかし過去に落選したそのどれもが、自身の能力以上のオーディションであったり、
経験を積むために勝敗は考えず受けたものであった。
 だからこそ、先日のオーディション――周りの人からは合格確実と囁かれ、
そしてプロデューサーや千早も自信を持って望んだ――において、
下から数えてふたつめという無残な結果を残したことは、大きなショックを彼女たちに与えることとなった。
 敗因は何かと言われれば、その難易度の高いダンスにあったとはっきり言うことができる。
 ダンスに気を取られるあまり、千早のもっとも大きなアピールポイントである歌がおろそかになってしまったのだ。
「振り付けの先生に頼んで、少しダンスを変えてもらった方がいいな」
「…………」
 プロデューサーの提案に、千早の表情が険しくなる。
 彼の判断はきっと正しいのだろう。
 ダンスに気を取られてここで足踏みを繰り返すことが得策とは思えない。
 しかし頭では理解できても、そうですか、と簡単に納得することなど出来るはずもなかった。 


「もう少しだけ時間をいただけませんか。きっと……完成させてみます」
「……時間は無限にあるわけじゃないよ。レッスンに費やせる時間だって限られてる」
「それじゃあ、妥協しろって言うんですか」
 つい喧嘩腰になってしまうが、もはや引っ込みがつかない。
 プロデューサーはわずかに戸惑いの色を浮かべたが、やがてまっすぐに千早の目を見つめた。
「より確実な方へと切り替えることを妥協とは言わないよ」
「……そんなの、屁理屈じゃないですか」
 分かっている。彼が言いたいことは、千早とてもちろん分かっているのだ。
 それでも、ここで出来ないことに背を向けてしまったら、きっとその先が見えなくなってしまう。
 自分でも不器用だとは思う。しかし、それでも――
「……はぁ。とりあえず今日はもう上がろう。そろそろ時間だ」
「プロデューサー!」
 小さなため息とともに左腕につけた腕時計を見るプロデューサーに、千早は詰め寄る。
「まだ話は終わってません」
「落ち着けって、千早。そんな風に頭に血が上った状態で話し合いなんて出来ないよ」
「……くっ」
 いくらなだめられても、腹の奥から溢れてくる感情を飲み込むことなんてできなかった。
 いつもだったら、もっと上手く感情を殺すことができるのに。今日はなんだかおかしい。

「ほらほら疲れただろ? ジュースでも奢ってやるから」
 重い空気を引きずらないようにと気を使ったのか、プロデューサーは明るい口調で言う。
 そういった切り替えが上手いところは、やはり大人の人だなぁ、と千早は思う。
 だけど、自分は無理だ。
「私、残って練習をしていきます」
「…………」
「していきますから」
 千早にまっすぐ見据えられて、プロデューサーは眉尻をわずかに下げたが、すぐに厳しい表情を浮かべた。
「……勝手にしなさい」
 普段の温厚な彼からは滅多に聞くことができないような冷めた声。
 そのまま彼は、千早を一度たりとも見ることなく部屋を出て行った。
「…………」
 レッスンルームに静寂が訪れる。彼が出て行ったドアに目をやるが、再びそこが開くことはない。
 なんだか鼻の奥がツーンとする。気を抜いたら涙が溢れてくる、その寸前独特の感覚だ。
「……練習しよう」
 誰に言うでもなく呟くと、千早はもそもそと立ち上がり、コンポの電源を入れた。 


「――あっ!?」
 そんな声があがるのと同時に、千早のお尻に鈍痛が走る。
 一瞬何が起こったのか自分でも分からなかったが、どうやら足がもつれて尻餅をついてしまったようだ。
 再びレッスンを開始してから、約3時間が経った。

 あれからほぼ休みなしでダンスのレッスンを続けたものの、問題のステップは未だ完成の兆しを見せてはいなかった。
 いや、それどころかこれまで出来ていた部分すらもミスが増えてきてしまっている。
 尻餅をついた箇所も、先ほどまでのレッスンでは問題なくこなせていたところだ。
「なんで……っ」
 誰もいないレッスンルームで、思わず声が漏れる。
 ――なんで、上手く出来ないのだろう。
 簡単だ。自分の実力が理想に追いついていないから。
「…………」
 なんだか妙にやるせない気持ちになってしまう。
 それでも、このままでは終われない。
 疲労で重くなった体を持ち上げると、千早は再びCDをかけなおした。
(ここで……右足を引いて)
 リズムに乗って、体を動かす。
 重い。足が重い。腕が重い。頭も重い。
 それでも止まることなく全身の筋肉をしならせていく。
 痛い。足の関節が痛い。腰が痛い。頭が痛い。
(ここで、ステップを速めて――)
 問題のステップに差し掛かる。
 全身が悲鳴をあげているようだったが、それでもここまでミスをしていない。
 この調子なら、きっと出来る。
 歌を口ずさむと、自分の声が頭に響いた。それでも足を止めない。
(1、2、1、2、3――)
 足が不規則なステップを刻んでいく。
 いける。そう思った。
 そして、千早の足が最後のステップを踏み込んだそのとき。
「――――……」
 彼女の視界が、真っ白に染まった。





「…………ぅ」
 うめき声のような音で、目が覚める。
 何の音かと思ったが、それは自分の喉から漏れた声だった。
「……お、気がついたか」
 頭上からそんな声がして、千早はぱちくりと瞬きを繰り返す。
 ぼやけた視界から徐々に焦点が定まっていき、やがてはっきりと瞳に映ったのは千早の顔を覗き込むプロデューサーの顔だった。
「プロ……デューサー……?」
 ふと、おでこに冷たいものが当てられていることに気がつく。
 一体なんだろうと思い額に手を持っていくと、自分の手よりもゴツゴツと骨ばった手に触れた。
「ん? どうした急に?」
 突然手を触られて、やや驚いた風のプロデューサー。
 しかし、驚いているのは千早も同じである。
 そもそも、現状がどうなっているのか、彼女はまったく分からないのだ。
「あ、もしかしておデコ冷たかったかな。さすがにジュースはダメか」
「ジュース……?」 
「これ。氷嚢の代わり」
 そう言って彼が見せてきたのはタオルで包まれた缶ジュース。
 どうやらこれを千早の額に当てていたようだ。
 なるほど、先ほどはこれを握っていた彼の手を触ってしまったらしい。 


「……というか、プロデューサー。ここは? それに、私――」
 そこまで言いかけて、ふと気がつく。
 頭の下には柔らかい感触。そしてプロデューサーが自分を覗き込んでいる。
 この姿勢は……。
「あの、もしかして、私、膝枕……されてます?」
「正解」
「っ!」
 あっさりと肯定されて、慌てて起き上がろうとするが、体に力が入らない。
「っと、こらこら。急に動くな。熱があって、レッスンの途中に倒れたんだから」
「倒れた……? あ、そういえば、レッスンの途中から記憶がない……です」
「んで、ここは事務所の休憩室」
「事務所……ここまで運んでくれたのは、プロデューサー? あ、それに服も……」
 視線を下げて自分の体を見ると、ジャージ姿からTシャツとハーフパンツに変わっている。
「…………」
「ち、違うぞ」
 千早の視線の意味に気がついたプロデューサーは、慌てて
「ここまで運んだのは俺だけど、着替えさせたのは小鳥さんだからな!」と付け足した。
「でも、プロデューサーがどうして……。帰ったはずじゃ」
「どこの世界に大事な担当アイドル置いて帰るプロデューサーがいるんだよ。外でずっと待ってたんだよ」
 軽い口調で言うプロデューサーだったが、ふと神妙な面持ちでこう続けた。
「その、ごめんな。勝手にしろ、だなんてプロデューサーが言っていい言葉じゃなかった。大人気なかったって反省してる」
「プロデューサー……」
 そんな言葉をかけられたら、胸がいっぱいになってしまうではないか。
 いま口を開いたら、涙が溢れてしまいそうだった。熱のせいなのか、感情が高ぶっているようだ。
「私も……意地になってて……すいません、でした」
 なんとかそう搾り出したが、案の定視界が歪む。きっと瞳が潤んでいるのがバレバレだ。
「いや、そういう気持ちって大切だから。謝ることはないよ。それよりも体調が悪いことに気がついてあげられなくてごめん。
いま思えば、いつも以上にブレーキがぶっ壊れてたもんな……もっと早めに気がつくべきだった」
 いつも以上、という言葉に引っかかりを覚えてが、あえて突っ込むことはしない。 


「とりあえず、今は体を直すことを先決しよう」
「はい……」
「んで、元気になったら、来週からのオフはダンスレッスンに当てるぞ」
 プロデューサーの言葉に、千早は小さく驚きの声を漏らす。
「オフを潰すな、なんて文句は言わせないからな」
「そ、そうじゃなくて……そんなことしたらプロデューサーのオフもなくなってしまうのでは……」
「俺が過労死する前にダンスを完成させろよ?」
 悪戯っぽく笑う彼の姿を見ていると、なんとか半泣き状態で留めていた涙が溢れてきてしまう。
「プロデューサー……」
 まるで子供が親にすがるように、千早の手がプロデューサーのネクタイを掴む。
 予想外に強い力にプロデューサーは驚いていたが、すぐに体を屈めて千早の頭を抱え込んでやる。
「あの、オーディション、すごく……っく、すごく、悔しかった、んです……」
「うん」
 千早の手にさらに力がこもり、プロデューサーの体が彼女に引き寄せられる。
「何もかもが半端になって……自分の思うように踊れなくて、歌も……中途半端で……」
「頑張ろう。その悔しさを忘れないでいたら、もっと大きくなれるから」
 温かい声だ、と千早は思う。
 なぜ彼の声はこれほどまでに温かく、心に染み渡るのだろう。
「頑張ろうな、千早」
「…………はい!」
 涙交じりではあるが、力強い返事。
 このふたりがトップへと上りつめる日は、そう遠くない。 



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