同窓会

作:550

「…………」
「…………」
 カウンターの奥から、ちらりと顔を覗かせる少女がふたり。
 街をこのふたりが共に歩こうものなら、数分も立たぬうちに人垣が出来てしまう、と断言できる。

 星井美希と天海春香。現在国民的人気を得ているアイドルユニットである。
「……あの、春香ちゃん、美希ちゃん。本当にいいのかい?」
 そんなふたりに親しげに話しかける中年男性。
 美希と春香の背後に立った男性は、板前風の装いでぽりぽりと頭を掻いている。
「へーきなの。おじさんは料理作ってていーよ」
「そうは言ってもねぇ」
 美希の言葉に、男性は苦笑を浮かべる。
 すると、美希の横にしゃがみこんでいた春香が申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、あのー、突然こんなことお願いしてごめんなさい……。本当に、私たちのことは気にしないで下さい。邪魔はしませんから」
「まぁ、ふたりにそうまで言われちゃあね。それじゃ、おじちゃんは厨房に戻るから、帰るときは声かけてくれよ」
 男性はにかっと歯を見せると、カウンターの奥へと引っ込んでいった。

 ここは都内某居酒屋。
 以前までは小さな個人経営の飲み屋であったが、盛況に次ぐ盛況で、先日新たな土地へと引越しが行われた。
 以前よりも格段に広くなったこの店は、最近では団体客の利用も多いう。
 今日もまた、店の入り口には「本日貸切」の看板が立てかけられていた。

 さて、この店の主人である男性と美希たちが親しげなのには理由がある。
 この店が以前まであった場所、それは765プロダクションの初代事務所の階下だったのだ。
 当時まだランク外アイドルであった美希や春香、そしてまだまだ駆け出しで、
給料日前になると財布が寂しくなるプロデューサーの面倒を、店の主人は何かとよく見てくれていたのである。

「ハニー、なんか楽しそう、だね」
 口を尖らせてそう呟いたのは美希だ。
「そりゃあ、同窓会なんだから楽しいんじゃない?」
 カウンターの向こう側に目を向けたまま、春香が答える。
 背後ではトントンと包丁がまな板を叩く音がしており、辺りには煮物のいい香りが漂っていた。

 カウンターに控えめに両手を乗せた春香が視線を向けたのは、20台半ばほどの若者の集団だった。
 20〜30人はいると思われる団体。各々がアルコールやジュースの入ったコップを抱えて談笑している。
 店の入り口の「本日貸切」の看板の理由は、つまりそういうことだ。
 そして、その団体の中にいるひとりの男性。美希と春香が今まさに注目している人物こそが、彼女たちのプロデューサーだったのだ。
 なぜ彼女たちが、こんなところでコソコソと覗き(?)をしているのか。
 それを説明するには、数時間前に遡る必要がある。 



――午後4時。都内レッスンスタジオ

「じゃ、今日はここまで。お疲れさま」
「え、ハニー、もう終わりなの?」
 上着の袖をまくり時間を確認するプロデューサーに向けて、美希が口を開いた。
 控えめに茶色く染められた髪は肩よりも短く、頭のてっぺんではぴょこりと跳ねた――いわゆるアホ毛が可愛らしく揺れていた。
「なんだか今日はいつもより早いですね、プロデューサーさん」
 なんでこんなに早いのー、とプロデューサーにじゃれ付く美希の背後から、春香が言う。
 ピンク色のスポーツタオルで額に浮かぶ汗を拭きながら、彼女はプロデューサーをちらりと見た。

 プロデューサーのレッスンは厳しい。
 と言っても、厳しいだけあってレッスンの密度は非常に濃く、ふたりとも彼のレッスンを嫌いだと感じたことはない。
 そんなわけで今日もまたレッスンに精を出す美希と春香であったが、レッスン終了時刻が今日はなんだか少し早い。
 いつもならどっぷり陽が暮れて星が輝き出すまでレッスンルームから出ることはないのだが、
今日はまだ窓の外にやや傾き始めた太陽が顔を覗かせている。

「俺の都合で申し訳ないんだけど、ちょっとこれから用事があって」
 プロデューサーは音楽機材を片付けながら、ほんと申し訳ない、と繰り返した。
「用事ってなんなんですか、プロデューサーさん。何か別のお仕事が?」
「実はこれから中学の同窓会があってね。俺は仕事があるから欠席するつもりだったんだけど……」
 そう切り出して、プロデューサーはこれまでの経緯を説明し始める。



 彼の話によると、事の流れはこうだ。
 先月のこと。同窓会の案内が来ていたにも関わらず、彼は期日ギリギリまで出欠の返事を出すのを忘れていたという。
 そこで、慌てて事務所にて往復ハガキの「欠席」に丸をつけていたところ、その様子を見ていた高木社長と音無小鳥に声をかけられた。

『せっかくの同窓会じゃないか。出席したらどうだね』
『そうですよ、プロデューサーさん。滅多に会えない人だっているでしょうし』
 そんなふたりに、しかし仕事があるから、と答えると、
『縁というものは一度切れたらなかなか復活しないものだよ。会える機会は大切にした方がいい』
『社長の言う通りですよ。ただでさえプロデューサーさんは、プライベートも仕事中心になっているみたいですし、
仕事とは関係のないところで息抜きをするのも悪くはないと思いますよ』
 と返された。そして、そのまま社長が続ける。
『今のうちから仕事の調節をすれば、オフも確保できるだろう。どうかね?』
 確かに最近は休日出勤、残業の嵐。稀にオフがあったとしても、自宅で企画書を練っていることが多い。
 小鳥さんの言う通りだなぁ、とプロデューサーは小さく笑いを漏らした。
『……それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます』 


「――とまぁそんなわけだ」
 かくしてプロデューサーは仕事の調節を始めたわけだが、
オフにするのではなく「仕事を早めに切り上げる」程度に留めておくのは彼らしいと言ったところか。
「ふ〜ん。ミキ、どーそーかいってやったことないの」
 プロデューサーの説明を聞き終えて、美希が言う。
「大人になってからの同窓会ってなんだか楽しそうですよね。
かつてほのかな恋心を抱いていた憧れの子と再開して、なんだか甘酸っぱい展開になったりならなかったり!」
「……あのなぁ。ドラマの見すぎだって」
 プロデューサーは苦笑しながら、胸ポケットからレッスンルームの鍵を取り出した。

「学生時代の同窓会なんて、ただワイワイ騒いで酒飲むだけなんだから」
「え〜、そうなんですか?」
 年頃の女の子というのはやはりそういったことに興味津々なんだなぁ、とプロデューサーは苦笑い。
 もちろん彼とてそういう淡い期待を持ったことがないわけではないが、
実際にそんなシチュエーションになったことなどこれまでに一度もない。
「……っと、もう時間だ。ほらほら、鍵閉めるから早く着替えておいで」
 プロデューサーは再び腕時計を見ると、ふたりを更衣室に行くよう促した。

「なんか今日のプロデューサーさん、ちょっとウキウキしてた感じがしたよね」
 更衣室でジャージの上着を脱ぎながら、春香が言う。
「そっかな?」
「いつも通りにしてたっぽいけど、そわそわしてるっていうか」
 そう言われて、美希は先程までの彼を思い出す。
 いつもと特に変わらないように思えたが、春香に言われてみると、確かにどことなく浮かれていたような気もしてくる。
「私も一度だけ同窓会行ったことあるけど、すっごく楽しかったなぁ。
プロデューサーさんも、今日は思いっきり羽を伸ばせるといいよね」
 すっかり汗を吸って湿ったTシャツを脱ぐ。汗で濡れた体はすぐに冷えてしまい、春香は小さくクシャミをひとつ。

 と、春香はふと思い出したように美希を見た。
「……そういえば、プロデューサーさんの私生活ってよく分かんないよね」
「ハニーの私生活? ……そういえば、そーかも」
 美希も春香も、彼との付き合いはそれなりに長くはなってきたが、やはり仕事関係で接することが多い。
 あれだけプロデューサーを慕う(慕う、という表現では生ぬるい気もするが)美希ですら、
プライベートの彼というのはほとんど見たことがない。
「プロデューサーさんって仕事仕事! って感じで、自分の話あんまりしないよね。……昔の彼女とか、やっぱりいるのかな……?」
「…………」
「…………」
 なんとなく、沈黙。
 美希はあからさまにむぅっと口を尖らせているし、春香は春香でなにやら複雑そうな表情を浮かべている。

「……ね、春香」
 ふと、美希が声を低くする。春香はジャージのズボンにかけた手を止めると、美希の方に目をやった。
「うん? どしたの、美希?」
「同窓会ってキケンがいっぱいだよね」
「へ??」
 脈絡のない発言に、春香は頭に疑問符をいくつも浮かべる。
 キケン、とは一体何がどう危険なのか。頭を捻らせ尋ねようとするが、それよりも先に美希が口を開いた。
「――ハニーが恋しちゃうかも!!」
「…………はい?」
「さっき春香が言ってたヤツ。甘酸っぱい展開……って、それだけじゃ済まないかも」
「それだけじゃ済まないって……」
 その先を想像して、春香はゴクリと喉を鳴らした。
「…………」
「み、美希? なに考えてるの? まさかとは思うけど――」
 ぽたりと大粒の汗を垂らした春香の「まさか」は、まさにそのまま的中したのであった。 


 場所を特定するのは簡単だった。事務所に戻ると、彼のデスクの上に案内状が置きっぱなしになっていたからだ。
 会場は幸いにも事務所から近く、さらになじみの店主がいる店。
 作戦(というほど大げさなものではなかったが)を決行しない手はなかった。
 
 そんなこんなで時は冒頭へと戻るわけだが、同窓会開始からわずか30分で、
すでに幾人もの人がアルコールで顔を真っ赤にし、いわゆる「出来上がっている」状態になっていた。
「うわ、プロデューサーさんも顔真っ赤だね」
「ハニーが酔ってるのって初めて見たの」
 プロデューサーに見つからないようカウンターから顔の上半分だけを覗かせて、ふたりはひそひそと言葉を交わす。
「なんか、今日のプロデューサーさんちょっと若いね」
「もー、春香。ハニーはまだまだ若いってば」
「べ、別に老けてるって言ってるわけじゃないよぉ。そうじゃなくて、なんていうか、いつもよりも幼いっていうか」
「それは……確かに、そうかも」
 事務所で着替えたのだろうか、プロデューサーは私服姿で、それすらも彼女たちには新鮮に感じる。
 普段の彼が別段老けているというわけではなかったが、やはりスーツ姿と私服では印象は違う。

 アルコールですっかり温まった会場は、徐々に盛り上がりを増していく。
 備え付けのカラオケで歌い出す者、ひたすらにジョッキを抱える者、さまざまである。
 そんな中、プロデューサーはかつての友人たちとジョッキを交わしながら楽しそうにはしゃいでいる。
 友人と話すプロデューサーはいつもよりも砕けた雰囲気だった。
 少しだけ乱暴な口調で友人に突っ込みを入れたり、けらけらと笑って冗談を言ったりしている。
「テンション高いなぁ」
 クスクスと春香が笑う。
 日頃がローテンションというわけではないが、今日はそれとはまたベクトルの違うテンションだ。
 下の名前で友人に呼ばれる様子も、普段ではなかなかお目にかかることはできない。

「でも、彼女っぽい人はいないみたいだね、美希」
 ちょくちょく女性とも会話をしているようだったが、特に疑わしい女性はいない。
 「元カノ」なるものは少なくともこの場にはいないようである。
「ん……そだね」
 てっきり「よかったー!」などと声をあげるかと思いきや、予想に反して美希の返事は暗い。
「美希、大丈夫? 気分でも悪いの?」
 心配したように春香は美希の肩に手をおくが、美希はふるふると首を振るばかりである。
 どうしたものか、と春香がオロオロと美希の顔を覗きこむと、ふと美希が一言呟いた。
「……なんか、ハニーが知らない人みたい」
「美希…………って、ちょ、ちょっと!! 美希!」
 美希は突然立ち上がると、そのまま駆け出して店の裏口から出て行ってしまう。
 春香も追いかけようと立ち上がるが、マイクを持っていた男性がカウンターのすぐ向こうに来てしまったので、慌ててしゃがみこんだ。
(ど、どうしよう、とりあえずバレないように外に出よう……)
 春香は四つんばいでそろそろと裏口へ向かっていく。
 外に出さえすれば、あとは走って美希を追いかければいい。 


「…………」
 カウンターの裏側を手と膝で歩き進んでいく。
 ――知らない人みたい
 美希の言葉を思い出す。なんとなくではあるが、美希の言いたいことは春香にも分かった。
 すぐそこにいる彼が、いつも自分たちに見せている顔とはまったく違う顔をしていた。
 それは、なんだか、妙な寂しさを胸に残したように思う。
(なんか、変な気持ち……ってあれ?)
 ふと、耳に聞き慣れた音楽が流れ込んできて春香は足を止める。
 カラオケから流れる伴奏。と、マイクを通した声が聞こえてきた。

「一曲歌いまっす! 曲は太陽のジェラジー!!」
 それは、先日リリースしたばかりの美希と春香の新曲だった。
 自分の知らない誰かが自分の曲をカラオケで歌うというのは、なんだか不思議な気分だ。
 男性が歌を歌い始めると、他の人たちもそれに便乗してマイクも使わず歌い出す。
 いつの間にやら、会場は太陽のジェラシーの合唱になっていた。
(なんだか、照れくさいな……って、早く美希を追わないと)
 今ならみんながカラオケの画面に注目しているし、立ち上がっても見つかることはないだろう。
 春香はそろりと立ち上がると、裏口へと足を進める。

 歩きながら、ちらりと会場を振り返ると、ふとプロデューサーの顔が目に入った。その表情は――
「っ!? うわわったたった――きゃあっ!?」
 どんがらがっしゃーん。そんな擬音が聞こえてきそうなほどに豪快にひっくり返る。
 足元から目を離したせいで、床に置いてあったビールケースに躓いたようだ。
「あいたたた……お尻打ったぁ……」
「大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です、えへへ……」
 照れ笑いを浮かべた春香は、頬を赤くして声がした方を見た。
「……春香、何やってんだ?」
「……………………」
 自分を見下ろすプロデューサーを見て、春香は硬直するのだった。 


「……はぁ」
 何度目か分からないため息をつく。
 店を飛び出した美希がたどり着いたのは、近くにあった公園だった。
 さすがに夜の公園に人気はない。いくつかあったベンチのひとつに、ちょこんと腰を下ろす。
「はぁ」
 もう一度、ため息。店内でプロデューサーを見ていたら、なんだか妙な気持ちになった。
 嫌な気持ち、というわけではないが、どこかモヤモヤとした落ち着かない気分だ。

「ハニーが知らない人みたい」というのは、ぽろりと勝手に漏れた言葉であったが、
この妙な気分の原因をとても分かりやすく表現していたように思う。
 自分の知らない人たちと、あんなにも楽しそうに笑っている姿。
 ヤキモチと言ってしまえばそれまでかもしれないが、
美希にとってはそんな簡単な言葉では表せない、もっと複雑な感情であるように感じていた。
「……なんか、ハニーが遠いカンジ」
「こんなに近くにいるけど?」
「っ!?」
 背後から声がして、美希はびくりと背筋を伸ばす。
 おそるおそる振り返ると、ベンチの背もたれの向こう側に、プロデューサーが立っていた。
 まだアルコールが残っているのだろう、頬が赤い。
「ハニー、どーそーかいは?」
「ちょっと抜けてきた」
「そうなんだ」
 ここまで来たということは、春香と共に店にいたことはもうバレてしまっているのだろう。
 謝った方がいいかな、などと考えていると、プロデューサーが口を開いた。

「なんであそこにいたかは訊かないでおくよ」
「…………」
「けど、なんで今そんな顔してるのかは教えて欲しいな」
「ハニー、今はお仕事の時間じゃないよ? ミキに構わなくてもいいんだよ?」
「ん? 美希らしくない発言だな。いつもは仕事だろうがお構いなしなのに」
「むー!」
 冗談めかした返しをされて、美希はむくれてみせる。
 そんな美希の様子を見て、プロデューサーはごめんごめん、と笑った。
「とにかく、何でもいいから話してくれよ。美希がそんな顔してたら、心配でしょうがないよ」
「…………」
「な?」
 ベンチの背もたれに手をついて、プロデューサーは美希の顔を覗きこむ。
 優しげな笑みに、美希もポツリポツリと言葉を漏らしていく。 


「なんか、ハニーが全然知らない顔してたから」
「うん」
「……ちょっと、悲しいって思ったの」
 プロデューサーは美希の言葉に、優しく相槌を打つ。
「ハニーを好きな気持ちは誰にも負けてないつもりだったけど、
好きだからって誰よりもハニーのこと知ってるってわけじゃないんだね」
 わずかに視線を落として美希は続ける。
「ミキの知らないハニーを知ってる人がいて、それがなんだか寂しいなって……」
 自分の気持ちを上手くまとめられないのがもどかしいのか、美希はむぅっと口を尖らせている。

 プロデューサーは美希に背を向けると、ベンチの背もたれに軽く腰をかけた。
「俺だって、まだまだ美希のこと知らないぞ」
「え?」
 プロデューサーの言葉に、美希は驚きの声をあげる。
 美希は自分のことを一番分かっているのはプロデューサーだと思っていたし、
自分が彼の知らない一面を持っているとは思えなかったからだ。
「俺と、美希と、春香。付き合いはそれなりに長くなってきたけど、
長い人生で見たらまだまだほんのちょっとの時間しか一緒にいないだろ? だから、知らない顔があって当然だよ」
「そう……なの?」
「でも、美希や春香を大切に思う気持ちは自信ある。
だから、ふたりのこともっと知っていきたいと思うし、知れば知るほど距離が縮まるのは嬉しいって思うよ」

 背中合わせに座っているから、プロデューサーがどのような表情をしているのか、美希には分からない。
「なんか、何が言いたいのかよく分からなくなっちゃったけど、これじゃダメかな?」
 プロデューサーは照れくさそうに笑うと、立ち上がり美希の正面に回った。
「ダメじゃ……ダメじゃないよ、ハニー! そうだよね、知らないなら、これからどんどん知っていけばいいんだよね、うん」
 先ほどまでの暗い表情はどこへやら、美希はいつも通りの明るい笑みを浮かべると、ぴょんとベンチから立ち上がった。
「やっぱりハニーってすごいね。さっきまであんなにモヤモヤしてたのに、もう直っちゃった」
「単純だな、美希は」
「うんっ! ミキね、ハニーといるとすっごく単純になっちゃうの」
 プロデューサーは、ようやくいつも通りになったな、と苦笑すると、
「そろそろ戻ろう。春香置いてきちゃってるし」
 と言って歩き出した。そのあとを、美希も小走りで追いかける、

「ね、ハニー。手繋いでいい?」
「ダーメ。誰かに見られたらどうするんだ」
「暗いから見えないよー。ね?」
 プロデューサーの返事を聞く前に、美希は彼の手を取る。
 酒が回っているからだろうか、彼の手はほかほかと温かかった。
「ったく、店に着く前には離すんだぞ」
「はーい」
 楽しげな返事と共に、美希の手に力がこもる。

「ね、ハニー。ハニーにはまだミキの知らない顔がいっぱいあるけど、ってことは、ミキしか知らない顔もあるの?」
「……そりゃま、あるだろうね」
「ホント!? どんな顔!?」
「さぁね。でも、美希にしか見せない顔があるように、
春香にしか見せない顔だって、社長や小鳥さんにしか見せない顔だってあるぞ」
「むー、それはちょっと悔しいな。あとで春香に訊いてみよーっと」
 今度は落ち込むことはない。悔しい、と口では言いつつも、どこか楽しそうな様子で美希は夜空を見上げた。
「やっぱりハニーって奥が深いね」
 そんな美希の言葉に、プロデューサーは、なんじゃそら、と苦笑いを浮かべた。 


 店に戻ると、会場の盛り上がりは最高潮となっていた。その中心にいたのは、マイクを握った春香である。
 多くの酔っ払いに囲まれて、半泣き状態なのはご愛嬌。
「それじゃあrelations歌います! みなさんも一緒に歌ってくださーい!」
 うぉぉと沸く会場に、プロデューサーも美希も驚くばかりだったが、
美希がちらりとプロデューサーを見ると、彼もこくりと頷いて親指でゴーサインを出した。

「春香! ミキも歌うね!」
「あ、ミキ!! もう、どこ行ってたの〜! ひとりで大変だったんだからぁ!」
「ゴメンなの」
「もー!」
 そんなやりとりを交わしつつも、伴奏が始まればそこはやはりプロである。
 息の合った振り付けを観衆に見せつけ、ふたりは歌いだす。
 歌いながら、春香は会場の隅にいたプロデューサーに目を向ける。
 友人に「お前本当にプロデューサーだったのかよ! しかも天海春香と星井美希って!!」と絡まれて、苦笑している。
 しかし、歌がサビへと差し掛かると、その友人たちも歌に参加し始め、
太陽のジェラシーのときと同じように会場全体での合唱へとなっていく。

 友人から開放されたプロデューサーは腕を組み、盛り上がる元クラスメイトたちを一歩引いたところで眺めている。
(――あ、またさっきと同じ顔!)
 転ぶ寸前に目に入ってきた表情。
 どこか誇らしげで、でも子供のような瞳で。まるで少年が秘密基地を自慢するような、そんな表情。
「ね、美希。プロデューサーさんの顔、見て」
 曲が間奏に入ると、春香はそっと美希に耳打ちする。
「え、顔? ……あ、ハニー、なんか嬉しそう」
「あの表情は、私たちしか知らないよね。なんか、ちょっと嬉しいって思わない?」
「春香って単純なの」
「えぇ!? 美希を励ます意図もあったのに、その言い草って〜」
 もう、とふくれてみせる春香。しかしすぐに笑いをこぼす。
「まあいいや、そういうのも美希らしいもんね」
 そう言って春香はマイクを握りなおすと、大きく息を吸った。

「今日はまだまだ歌っちゃいますよー。ね、プロデューサーさん!」
「うん! ハニ……じゃなくてプロデューサーのために、一生懸命歌うの!」
 突然話題を振られ、プロデューサーは面食らったような表情を浮かべていたが、
「思いっきりやれ!」
そう言うと、右手でオーケーサインを作り笑ってみせたのだった。 


「仕事とは関係ないところで息抜き……ってはずだったのに結局プロデューサーさんにお仕事させちゃったの?」
 翌日、昨晩の出来事を知った小鳥は、呆れたように言った。
「あ、あはは……わざとじゃなかったんですけど」
「でも、楽しかったの。ね、春香」
「うんうん、同窓会で歌うなんてお仕事、普通はない――」
 そこまで言いかけて、春香は小鳥の視線に気がつく。明らかに怒っている。
「ふたりとも、ちゃんと反省しーなーさい!」
 怒られてしょんぼりとするふたりを、二日酔いの頭を抱えたプロデューサーはただただ生暖かく見守るのだった。 



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