癪の種

作:510

 何と言う事のない、ある日の昼下がり。
 765プロダクション本社の休憩室で、昼食代わりにブロック状のバランス栄養食をドリンク状のバランス栄養食で
流し込んだ私は、「ポテト味は意外と美味しかった」とか、「ベジタブル味をなかなか見かけないのは、
やっぱり従来からある御三家が強すぎるからか」とか、取りとめのないことを考えていた。……要するに、ちょっと
暇を持て余していた。
 そんな風にぼーっとしていたら、ふと、ある人の顔が思い浮かんで。
 ……よ、よし。
 私は人知れず気合を入れると立ち上がり、休憩室を後にした。

 事務所に入った私は、そのままある席へと視線を移す。
 そこにあるのは、私の面倒を見てくださっている、プロデューサーの姿。……ちなみに、先ほど私が思い浮かべた人
そのものでもあって。いや、これはどうでもいい話なんだけど、本当に。
 音楽かな、イヤホンをつけて何か聴いているようだった。……よく見ると、その表情は凛々しい……と言うよりは、
なんだか険しい。
 何か、あったのかしら? 私は恐る恐る、彼に声をかけてみる事にした。
「……あの、プロデューサー」
「うん? どうした、千早?」
 机の上のMP3プレイヤーを一時停止させ、そこから伸びるイヤホンを外すと、彼は微笑を浮かべた。
「……いえ、その」
 ちょっと顔が、熱くなる。
「その、何を聞いてらっしゃったのかと、思って」
 これだけ言うだけでも、緊張してしまう。彼はそれに気づいた素振りを見せず、ちょっと考える仕種をして、答えて
くれた。
「一応クラシック、って事になるのかな?
 ……なんだか、この前と同じ会話だな」
「そ、そうですね……」
 二人で苦笑いを浮かべてしまう。思い出すのは、先日の話。
 プロデューサーが何か聴いていると思ったら、よりによってジョン・ケージの「4分33秒」で、それを知った私が
思わず脱力してしまったのは、今から2ヶ月ほど前の話。
 ちなみにその後感想を訊いてみたら、凄く微妙な表情をして「……こういう発想が出てくるセンスっていうのは、
真面目に凄いと思うよ」という返事が返ってきた。私としては、曲の内容にも触れてみせて欲しかったところ
だったのだが、それを言うと「無茶を言わないでくれ」と苦笑いされたのが印象的だった。
「……なんだか、この間を思い出してしまうので、ちょっと不安が募りますが。
 あの、私も聞いてみて、宜しいでしょうか?」
「ああ、いいよ。イヤホン片方、使って」
 プロデューサーはそう即答して、左耳のイヤホンを外して手渡してくれた。その手の温もりをちょっと意識しつつ、
私はイヤホンを左耳に装着します。
「正直、前回と同様に、君の期待するものではないと思うけど……」
 プロデューサーは、そうポツリと呟いた。……なんだか、不安が加速されるような。
「……今回は、ちゃんと音が聞こえますね。ピアノですか?」
「ああ、ピアノの……ソロ、って事になると思うんだけど。ああ、今回は生音じゃなくてMIDIで……ええと、
 パソコンで擬似的に作った音だから、音質については気にしないでくれよ」
「? は、はあ、パソコンには詳しくないので、よく解りませんが……」
 取り敢えず、生音と違うのは理解できる。これが恐らく、みでぃ、とか言うものの音なんだろう。 


 しばらく、そのピアノ曲に耳を傾ける。
「……明るい曲じゃないんですね。それに……これは、同じフレーズの繰り返し……ですか?」
「うん、1分程のメロディをループさせる曲だな。一つのメロディは、52拍からなる」
 ……それにしても。これは、どういうジャンルの曲なんだろう。
「カノン……ではないですよね。完全に同じフレーズの繰り返しですし」
「ああ、このフレーズを全部で840回繰り返すんだそうだ」
 ……は?
 何か今、凄い回数を聞いてしまった気がする。
 約1分のフレーズを840回。それはすなわち、約840分……単純に計算して、約14時間の演奏時間を要するという意味だ。
そんな冗談のような曲と言えば……私は恐る恐る、プロデューサーに尋ねてみた。
「……あの、プロデューサー。
 まさか、この曲は」
「……やっぱり知ってたか」
 プロデューサーは何故か眉間に皺を寄せ、重々しく頷いた。
「そう、これがギネスブックにも世界一長い曲と認定された曲、『ヴェクサシオン』だ」
「……こ、今度はエリック・サティですか……ッ!!」
 私はまたしても脱力。思わずプロデューサーの机に突っ伏してしまった。
 エリック・サティの3曲の遺曲の一つ、「Vexations」。事務所の後輩である星井美希のスマッシュヒット曲である、
「relations」に似て非なるタイトルのこの曲は、そのタイトルを和訳すると「いやがらせ」「癪の種」となる。
 その曲の内容は先ほどまで私やプロデューサーが触れた通り……52拍、約1分程からなるフレーズをなんと840回も
繰り返す、正気の沙汰とは思えない代物だ。
 ちなみに、先ほど私が「単純計算で約14時間」と言ったが、実際にはそれどころではない。なんと実際に何度か
コンサートでも演奏された事があり、この曲の演奏には18時間以上かかっている。技術的には1人でも弾ける曲だが、
精神的な問題や物理的な問題からそれは不可能で、実際のコンサートには10人以上のピアニストが参加するらしい。
ちなみに、この曲を最初に演奏したのが、あの「4分33秒」を作曲(?)した事で有名な、ジョン・ケージその人だ。
……いや、そんな事は取り敢えずどうでも良いんだが。
 プロデューサーは腕組みをしながら、この曲を聴くに至った経緯を説明してくれた。
「いや、一度聴いてみたいとは思ってたんだけど、流石にこんなトンデモない代物、CDやMP3でも見つからなくてね」
 それはそうだろう。演奏時間が長すぎてCDには入らない。プロデューサーが以前「MP3のファイル容量は、
おおよそその曲の演奏時間に比例する」と仰っていたから、MP3ファイルがないのもきっとそれが原因だろう。
「それで困ってた矢先、実際の演奏を録音するのではない、MIDIファイルなら存在すると知ってね。
 それで手に入れて、今聴いてみてるんだ」
「あ、相変わらず……」
 しょうもない事には全力を尽くしてしまう人だ。私は続きのセリフを飲み込んだ。
「いやあ、心が折れそうになるね、この曲。最初は徹夜してでも全部聴いてやる、って思ってたんだけど、予想外に
 曲が単調だし同じフレーズを延々聴かされるしで。まだ3時間しか聴いてないんだけど、残り24時間あるんだよな、
 このMIDIファイル」
「……27時間、ですか」
 それを徹夜して全部聴く気だったのか、この人は。
「たかがMIDIファイル一つで、約1MBだぞ? もう正気の沙汰じゃないよ、本当に」
「……いえ、私はパソコンの事はよく解らないので、そういう愚痴を言われても」
 ……何と言う事のない、ある日の昼下がり。
 イヤホンの片方を返すのも忘れ、深々と溜息をつくプロデューサーの隣で、私は机に突っ伏しているのであった。
「……そうだ」
「この曲の要素とか言うのは無しですからねっ、プロデューサー!」
 私が彼の言葉を遮って懇願したのは、言う間でもない。 



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