海を越える前に

作:550

「それじゃあ社長。これまで本当にありがとうございました」
「うむ。君はまだ、我が765プロの社員だからね。いつでも顔を出しにくるといい」
 頭を下げる俺に対して、社長は優しい声でそう言った。

「本当に……本当にお世話になりました」
「頭をあげたまえ。お礼を言うのはこちらの方だよ。
765プロをここまで大きくしてくれたのは君の……いや、君と彼女のおかげと言っても過言ではないからね」
「そんなこと……」
「謙遜することはないよ」
 俺の言葉を遮って、社長は笑う。

 謙遜なんかじゃない。
 だって、俺たちがこうして頑張ってこれたのは、社長が影からずっと支えてくれたおかげなのだから。
 どれだけ感謝したって、足りない。
「彼女を大切にしたまえよ。何と言っても、うちの事務所の大切なアイドルなんだからね」
「……はい、必ず!」
 まっすぐに社長の目を見据えて言うと、社長は満足そうに笑い、
それからほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべて「君たちの活躍を期待しているよ」と俺の肩を叩いた。 


 桜の花びらはとうに散り、頬を撫でる風がどこか夏の訪れを感じさせるようになった季節。
 俺はここ――765プロダクションを退社することとなった。
 いや、もうちょっと正確に言うのなら、あと一ヶ月で、かな。
 この先は溜まりに溜まった有給の消化に当てることになっているので、正式な退社はもう少し先になる。

 とはいえ、これまでのように定時刻に出社することは……おそらくもうないだろう。
 春香や伊織にさんざん汚いと怒られた俺のデスクは、いまでは綺麗さっぱり塵ひとつない。
 あまり整理整頓が得意ではないので、片付けにはかなり苦戦したわけだが……まぁ、その話は置いておこう。

 社員や所属アイドルたちによる送別会もしてもらった。
 仲のよかったプロデューサー仲間とも何度も呑みに行ったし、
事務員の人たちからは、なんだかやたら可愛らしい生活用品を大量にもらった。
 これからの新生活のために是非使ってください、と笑みを浮かべた小鳥さんが頭に浮かぶ。

(……ほんと、いい会社だったよ)
 去るのが惜しい気持ちはやはりあったけれど、それでも、俺はこの先の未来を信じているのだ。
 事務所の出入り口で深々と頭を下げてから、俺は765プロを後にした。 


「プロデューサー!」
 事務所を出たところで、声をかけられた。
 声がした方に目を向けると、そこには日傘を手にして壁にもたれかかる千早がいた。
「千早、来てたのか」
「昨日、事務所に挨拶に行くと言っていたので、もしかしたら会えるかもしれないと思って」
 千早はそう言って壁から背を離すと、白い日傘を開いて俺の元に歩み寄ってくる。
 キャミソールに薄手のカーディガンを羽織り、下はジーンズというラフな格好だったが、
その端整な顔立ちとすらりとした体型のせいか、どこか上品な印象を受けた。

「日傘を差しているなんて珍しいな」
「紫外線に気をつけろとおっしゃったのはプロデューサーじゃないですか。アイドルたるもの日焼けは禁物、って」
「そっかそっか。うん、いい心がけだ。偉いぞ」
 笑顔で千早の頭を撫でてやると、千早は慌てた様子で俺を見上げた。
「ひ、人に見られます」
「あーそうだな。じゃ、やめとく」
 あっさり俺が手を離すと、千早はなぜか不満気な顔でこちらを見た。

「な、なんだその目は」
「別に、なんでも」
 ぷいっと目線をそらす千早に苦笑しながら、俺は歩き出した。
「行こう。この後は暇なんだろ?」
「あ、はい、それはそうですけど……でもどこに?」
 千早は小走りで俺に追いつくと、そう言って日傘を閉じた。

「? 傘は差しておけば?」
「いえ、日焼け止めも塗ってありますから。それに……」
「それに?」
「……傘を差したままだと、プロデューサーの顔に傘の骨が刺さりそうで」
 確かにふたりの身長差を考えると、俺の頬が傘に攻撃されてしまう恐れがあるけど……。
「だったら、ちょっと離れて歩けばいいじゃないか」
「…………」
 すぐに意地悪なことを言う、とでも言いたげな瞳を向ける千早。
 拗ねたような表情の千早に、俺はついつい頬を緩めてしまう。
 想いが通じ合っているからこそ出来るやりとりは……ほんの少しだけくすぐったい。
「冗談。ほら、おいで」
 そう言ってちょいちょいと自分の隣を指すと、千早は納得がいかないような表情で俺の隣に並んだ。 

「それで、今からどこへ行くんですか?」
 歩き出してから千早が尋ねてきた。
「こんな平日の真昼間からぶらぶら出来ることなんて滅多にないし、ドライブにでも行こうかと思ってさ」
 今日は過ごしやすい気温だし、風もある。
 窓を全開にして車を走らせたらきっと気持ちいいだろう。
 まだ午前中。時間もたっぷりある。

「ドライブ、ですか」
 嬉しそうに頬を染める千早の顔を覗きこむと、俺はにっと笑ってみせた。
「そんな暇があったらレッスンをした方がいいのでは?」
「……それ、もしかして私の真似ですか、プロデューサー?」
「てっきりそう言うかと思ったけど違ったか」
 俺の言葉に、千早はつんと顔を背けてしまう。

「そんなこと言いません。心のゆとりは、歌にも良い影響を与えますから」
「最初のミーティングで雑談をする暇があったら、って言ってたのは誰だっけ」
「……あまり意地悪を言わないでください」
「ははっ」
 肩をすくめて笑う俺を、千早は非難めいた目で見つめる。
 俺はごめんごめん、と謝るとポケットに手を入れて空を見上げた。上空には、青く澄んだ空が広がっていた。 

「海にでも行くか」
 車を走らせながら、俺は助手席に座る千早に言った。
「あ、行きたいです」
 千早が弾んだ声でそう返してきたので、俺はウインカーを出して車を右折させた。
 この時期ならあまり人もいないだろうし、のんびりするにはうってつけだろう。

「じゃ決定。途中でハンバーガーでも買っていこう」
「向こうに行ったら、やっぱりそういうものを食べることが多くなるんでしょうか」
「うーん、健康管理はしっかりしていきたいからね。できればあまり食べて欲しくはないけど」
「ふふ、それじゃあしっかり自炊しないといけませんね」
「英会話だけじゃなくて、料理も勉強しないといけないわけか……」
 俺が渋い顔をしてみせると、千早はくすくすと肩を揺らした。

 あと一ヶ月したら、俺たちは日本から飛び立つ。
 俺の隣で歩いている少女――如月千早と、新たな夢を追いかけるために。
 そう。彼女はより高みを目指すために、活動の場を海外へと移すことを決意したのである。
 そして俺はそんな彼女を支え続けるために、海の向こうへ行っても千早のプロデューサーであり続けると、そう決めたのだ。

「向こうに行ったら、部屋は隣とはいえ同じマンションだからね。
本当に四六時中いっしょになるわけだけど……プロデューサーの顔は見飽きました、とか言うなよ」
「そんなこと、言うはずありません」
 千早はきっぱりと断言してから、少しだけ言いにくそうに目を伏せた。
「私は……その、ずっとプロデューサーと一緒にいたいと、そう思ってますから」
「……光栄だね。日本の歌姫にそうまで言ってもらえるとは」
 冗談交じりに言うと、千早は照れたように微笑んだ。 

 車内で昼食を済ませ、しばらく車を走らせた頃、ようやく海が見えてきた。
「やっぱり全然人がいないなぁ」
 夏場は海水浴場として賑わうこの場所も、
さすがにこの時期――しかも平日の昼間とあっては人もいない。
「でも、人がいない方が落ち着けていいです」
「だな」
 千早は日本では知らない人などいないトップアイドルなのだ。
 人ごみになど行ってしまったら、ゆっくりするなんて夢のまた夢である。
「さて、このへんでいいかな」
 俺は適当なところに車を止めると、浜辺へと向かった。

 さらさらの砂を踏みしめて歩く。
 午前中に比べてやはり少し日差しは厳しかったが、それでも潮風がほんのりと冷たいおかげでそこまで不快感はなかった。
「静か、ですね」
「うん」
 聞こえてくるのは、引いては返す波の音だけ。
 真っ青な空と、目の前に果てしなく広がる海は、俺たちの心を静めてくれた。
 そのまま、特になにをするわけでもなく、ふたりで浜辺を散歩する。
 靴の中に砂が入って少しだけ気持ち悪かったが、特に気にすることもない。

「なんだか、こんなに穏やかな時間って久しぶりです」
 隣を歩く千早が、風で乱れる髪の毛を押さえながら言った。
「最近はなんだかんだでバタバタしてたからなぁ。明日からもレッスン漬けだろうし、また忙しくなるぞ」
「ふふ、望むところです」
 たくましい答えを返してくれる。

 それきり会話が途絶えて、俺たちは再び足を進める。
 無言の空気は決して居心地の悪いものではなく、ただ隣に千早がいるというだけで十分に楽しい時間だった。
 そしてそれは千早も同じようで、なにやらご機嫌な様子。
「髪、長いな」
「え?」
 突然俺がそんなことを言ったものだから、千早が少しだけ驚いたようにこちらを見た。
「いや、なんとなくそう思っただけ」
 そう言うと、千早はそのさらさらの髪に手をやる。
 腰に届きそうなくらいに長い髪は、海に反射した光によってきらきらと輝いていた。

「短くした方がいいでしょうか? 歌うのに、髪の毛が長い必要はないですし……」
「まぁ、千早が切りたいなら止めないけど、俺は今の髪型似合ってると思うよ」
「……それじゃあ、このままにします」
 嬉しそうに微笑んで千早は自分の髪を愛おしげに撫でた。 


 それから15分ほどの散歩の後、俺たちは堤防に腰かけた。
 肩が触れるくらいの距離で並んで座るふたりの上空では、
どこからか流れてきた真っ白な雲がふわふわと揺れている。
「…………」
「…………」
「…………」
「……あの、プロデューサー」
 じっと海を眺めていた俺たちだったが、ふいに千早が口を開いた。
「なに?」
 首を捻って横を見ると、千早はなにやら言いにくそうに考え込んでいる。

「どうした?」
 安心させるように千早の頭を撫でてやると、千早はほっと息をついてちらりと俺を見上げた。
 そのまま、よし、と決意したように頷いてこちらに体を傾けてくる。
「千早?」
 俺の肩に千早の頭が預けられる。長い髪の隙間から覗く耳は……真っ赤だ。
 どうやら、千早にしてみればかなり勇気のいる行動だったらしい。
「どうした、急に甘えちゃって?」
 からかうように言うと、千早はぺし、と俺の膝を叩いた。
 それがなんだかおかしくて、ついつい笑いが漏れてしまう。

「もう、プロデューサー」
「っくく、悪い。なんか面白くって」
 ぺし。
 あ、また叩かれてしまった。
「……少しだけこうさせてください」
「…………」
 消えそうな細い声に、俺は少しだけ心配になってしまう。
 千早がこんな声を出すときは、何かを不安に思っているときだ。

「どうした? 何か心配事が?」
 尋ねると、千早はゆっくりと首を振りかけて、ぴたりと止める。
 やがて、ほんの少しの静寂の後、千早はそっと口を開いた。
「プロデューサー、私についてきてくれるって決めたこと……後悔していませんか?」
「え……?」
 思いもよらない言葉に、俺は思わず千早の顔を見てしまう。
 しかし俺にもたれかかったままの千早の目は伏せられてしまっていたので、目が合うことはなかった。

「なんでそんなこと」
「時々思うんです。私はプロデューサーがいれば何でも出来ると……そう言ったけれど。
だけどそれは……私の我侭なんじゃないのかって」
 千早は微動だにせずに言う。 


「私はプロデューサーに、プロデューサーとして、
そしてひとりの男性としてずっと側にいて欲しいと、そう思っています。
……でも、そのためにプロデューサーの人生を狂わせてしまうことが許されてもいいのか、と」
「…………」
「海外で一から活動を始めることは、大きな賭けだと思います。
そんな賭けにプロデューサーを巻き込んでしまうことが……本当に――」
「千早」 
 少しだけ強い口調で言うと、千早の体がびくりと震えたのが伝わってきた。

 千早の気持ちは分かる。
 俺だって、もしも誰かが自分のために今の生活を捨てることになったら、きっとすごく悩む。
 自分に人の人生を狂わせるだけの価値があるのかと、そう考えてしまうから。
 だけど、俺は。
「俺は、絶対に後悔なんてしない」
「…………」
 そうやって悩むことはしょうがないことだと思う。
 止めろと言って止められるものでもないと思うから。でもな、千早。

「こういうのは、お互いを信頼していくしかないんだと思う」
「それは……」
「不安に思うのはしょうがないよ。でも俺は、後悔は絶対にしないと言った。俺のその言葉を信じて欲しい」
「…………」
「俺のこと、信じられるか?」
 少しだけ、意地悪な言い方だったかもしれない。
 だってこんな風に言ったら、千早はきっとこう答えるだろうから。 

「……信じられます。私は、プロデューサーのことを、心から……!」
「うん、だから安心して。俺だって、千早と一緒に夢を追いかけたいと思っているんだから」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あのさ」
 長い沈黙を打ち破ったのは、俺だ。

「俺、結構クサいセリフ言ったんだけどさ、リアクションがもらえないと、
それはもう顔から火が出そうなくらいに恥ずかしいわけですが」
 そう言って、照れ隠しに鼻の頭を触りながら千早の顔を覗き込む。
 すると千早は慌てて俺から顔を背かせて立ち上がり、そのまま背中を見せてしまった。
 細い背中と、それを包み込むカーディガン。海風に煽られてひらひらと揺れていた。
「……泣くなよ」
「泣いて、ません」
 ずずっと鼻をすする音。まったく、本当に素直じゃない。
 素直に泣き顔を見せてくれるようになるまでは……どうやらもう少し時間がかかりそうだ。

 無理にこちらを向かせるのも可哀想なので、そのまま千早の背中を眺めていると、千早は大きく息を吸った。
「――――……」
 美しい声が、日本中を魅了してやまない歌声が、響いた。
 俺に背を向けているせいで声を真正面から受け止めることは出来なかったが、
それでも千早の心がしっかりと伝わってくる。
 俺はそっと目を閉じて、一音たりともその歌を聞き逃さないように耳に神経を集中させた。 

「……どうでしたか?」
 一曲歌い終えた後に、千早が相変わらず向こう側を向いたままで尋ねてきた。
 俺はぱちぱちと拍手をしながら立ち上がると、千早の背中に向かって、
「これからもずっとプロデュースしたいって思わせる歌だ」
「……それ、最高の褒め言葉です」
 満足気な声で千早が答えた。そのまま、静かな声で続ける。
「私の歌は、海の向こう側に……それから、空の向こう側にも届くでしょうか」
「どうだろうね。俺には分からないな」

 海の向こう側に……そして空の向こう側に届く歌が歌えたかどうか。
 それは、千早が答えを出すことだから。
 きっと届くさ、と言ってやることは簡単だけど……それは出来ない。
 千早は俺の答えにクスクスと笑いを漏らすと、そうですね、と呟いた。

「……うん」
 千早なりに答えが出たのだろう、彼女は納得したように頷いた。
 それを追求するような野暮なことはしない。
 千早が話したいと思うのなら、そのときはもちろん聞いてあげるつもりだけど。

「プロデューサー」
「ん?」
「私、プロデューサーに出会えて本当によかったです」
「…………」
 プロデューサー冥利につきる言葉、だな。
 俺はじっと千早の背中を眺めたままだったが、一歩、二歩と近づいていく。
「ごめん、俺、今だけプロデューサー辞める」
「え――」
 千早が驚くのも構わずに、俺は千早のその細い体を後ろから抱きしめた。 

 すっぽりと胸の中におさまってしまうその体。
 どうやったらこんなに華奢な体から、あの声が出るのだろうと思わずにはいられない。
 まぁ、日々のトレーニングのおかげで、実は意外と筋肉質な体であるということは知っているのだけれど。
「あ、あの、プロデューサー……」
「担当アイドルにこんなことするなんて、プロデューサー失格だよなぁ」
 そう言いつつも腕を緩めたりはしない。
 そのまま俺は空を見上げた。うん、いい天気だ。

「……千早?」
 しばらくそのままでいると、腕の中の千早がもそもそと動き出す。
 一体どうしたんだ、と腕を緩めると、千早はその場でくるりと180度回転した。
 必然的に千早の顔が胸に埋められる形になる。
 そのまま千早は、ぎゅっと俺の背中に手を回した。

「……プロデューサーがこんな風にしてくれたの、初めてですね」
「そりゃ、ね」
 さすがに現役アイドルにこんなことをしたら、やばいにも程がある。
 今がやばくないかと言えばそれも疑問だが……まぁ一応は引退後ということだし、と自分に言い聞かせる。
 今は自分の気持ちに正直でいようと思った。

「ふふっ」
「何がおかしいよ」
「別に、そういうわけじゃ」
 そう言いつつも笑っているじゃないか。そうは思うが口には出さない。
「ま、別にいーですけど」
 棒読みで言うと、千早はおかしそうに俺の胸の中で笑い声を漏らした。
 こんな些細なやりとりなのに、ふたりの絆をはっきりと感じることが出来るのは、やはり嬉しいことだった。 

「さー、また明日から英語漬けだなぁ」
「プロデューサー、英語は苦手なんですか? あまり成長が見られませんが……」
 なんとも厳しいお言葉をいただきました。俺ははぁ、と深いため息をつく。
「現役の高校生と比べるなって……。俺は英語なんてもう何年もやってないんだから」
 ぐてっと千早の肩にもたれかかると、
千早はくすぐったそうに身をよじらせて、俺の後頭部をぽんぽんと軽く叩いた。

「…………」
 これから覚えること、やるべきことは山ほどある。
 海を越えて上手くいくかは誰にも分からないし、苦難だって当然のことながら多いだろう。
 俺にも、千早にも、まだまだ課題は山積みだ。
 だけど、それでも――
「頑張りましょう、プロデューサー」
「……おう」
 この笑顔のためなら、きっと俺はどんなことだってやれる。
 そんな気がした。 




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