アイドルKING〜いおりん・カレーを作る〜

作:426

■

「ちょっと待ってくれ、伊織……言ってる意味がよく分からないんだが」

彼がこう言うのは、別に車のエンジン音で話が聞こえないからではない。
むしろ、水瀬家専用リムジンの室内は、車の中とは思えないほど静かで、
テーブルに置かれたグラスに注がれた飲み物がまったく揺れていない。

「だから、もうアンタがわたしをプロデュースして40週になるでしょ。
そのお祝いをわたしがしてあげようって言ってるの!!
CDも100万枚売れて、パパや兄さんたちにも負けてないって証明もできたし」
「それは嬉しいんだけど……普通、逆じゃないのか?せっかくだから、
会社をあげて株主も招待して大々的にやった方が……
ほら、伊織は派手なのが好きだし、会社と伊織のイメージアップが同時にできる……」

「うっさい、却下!!」
もっともな彼……担当プロデューサーの提案を、伊織は一喝した。
多少乱暴な運転では揺れないグラスの飲み物が、彼女の怒号でちょっと揺れた。

「そんなのは適当にスケジュールの合間を縫って入れて頂戴。
わたしが言ってるのは、アンタと二人っきりでやるプライベートなお祝い!!
そ、その……わたしがトップに上り詰めるのに、アンタの力も多少はあったと思うし、
わたしや社長ばっかり注目されて、アンタに何もいいこと無いし……」
「俺は伊織が活躍してる姿を間近で見られて、充分幸せなんだが……」
「このわたしの恩返しが、受けられないって言うの!?」

傍から見れば、酔っ払いの定番みたいな文句のつけ方だが、
彼女……水瀬伊織にしてみれば、これは計画済みのプレゼントなのだから、
【いらない】なんていう返事を受け入れるわけには行かない。
多少強引でも、プロデューサーに承諾させなければならない事だった。 


そのために、TV局から手配されるハイヤーを断って、水瀬家専用リムジンを
回してもらったし、運転席からは間仕切りを置いて、会話は絶対に洩れないようにしてある。
プロデューサーの誕生日などは、きっとアイドル全員が砂糖に群がる蟻の様に
わらわらと彼に群がるに決まっているのだから、彼女だけにしかない記念日を、
何としてでも設定してプロデューサーに何か感謝の気持ちを表したかった。
そうして思いついたのが、デビュー40週記念という、記念日と言えなくもない日。

丹念にスケジュールを調べ、他のアイドル達と仕事のバッティングは無い事を突き止めた。
そして、勇気を振り絞ってプロデューサーにそのことを伝えたのが今現在。

「と、言われてもなぁ……特に欲しいものなんて」
「お金も彼女も地位も、ナイナイづくしの寂しい男が何言ってるんだか。
いまのわたしなら、渋谷に一軒家くらいの夢、叶えてあげられるわよ」
「カンベンしてくれ。一回り以上歳の離れた女の子からそんなもの貰えないって」
「じゃあ、水瀬家の誇る【お側御用大隊】27人を一年間貸してあげようかしら?
お目覚め名人、ねぐせ直し名人から子守唄名人まで、身だしなみと健康管理は
保障されたも同然のスーパーメイドたちの力、試してみたくない?」
「……いや、いい。俺のボロアパートにそんな人たちが入ってきた光景は怖い」
「しょうがないわね……じゃあ、和・洋・中の鉄人3人セットを……」

「そうだな……強いて言うなら、伊織が作ってくれたカレーが食いたい」
「はぁ!?」
スケールの大きすぎる伊織の提案を遮って彼が申し出たのは、
ある意味ささやかで、ある意味大変贅沢な願いだった。
「ほら……伊織の家が凄いのは知ってるけどさ、それは以前からそうだっただろ?
だから、成長の証として、水瀬家や新堂さん抜きで伊織がしてくれて嬉しいこと……
俺、カレー好きだから伊織が俺のために作ってくれたら、超嬉しいかな……って。
あ、やっぱダメか!?万が一包丁で怪我でもしたら、今後の仕事が……」
「い、いいんじゃない!それ!?」

思っても無い提案だったが、気付いた時には勝手に口が承諾していた。
「か、カレーなんて庶民の食べ物、あんまり慣れてないけど……この伊織様にかかれば、
朝メシ前のおちゃのこなんだからね!!じゃあ、来週のお昼はおなかを空かせておきなさい!!
オフなんて入れたら承知しないからね!!」

……Aランクのトップアイドルともなれば、普通は半日でもオフを要求するものなのだが、
プロデューサーのために自力ワクテカ状態の彼女にそんな常識は通用しないらしい。
かくして、伊織のカレー作りが気合と共にはじまった…… 


■

「にんじん、ジャガイモ、たまねぎはOKね。お肉はひととおりの種類を揃えさせたし」

あっというまに時間は流れ、765プロの給湯室……といっても、
自社ビルを構えるようになった最近は、給湯室と言ってもちょっとした調理室くらいの規模がある。
キッチンの広さは普通の一軒家並だが、ガスの火力から水周りまでのレベルが、
どう見てもプロ仕様のそれとなっている。
普段は春香や小鳥がここの主だが、今日だけは無理を言って貸し切ってある。
野菜と肉も、水瀬グループから取り寄せた、超が付くほどの高級品だ。

「とりあえず作り方は調べたけど……このわたしがアイツのために作るんだもの。
普通のカレーじゃ絶対許せないわ。スペシャルゴージャスなカレーにして、
アイツを驚かせてあげるんだから!!」

などと意気込んでみたはいいものの、カレーの基礎もよく分かっていない彼女のこと。
どうしたらスペシャルなカレーになるのかなど、全く知る由も無い。
とりあえず取り寄せてある材料には松葉ガニ、伊勢エビ、トラフグ、トリュフなど、
一般的に高級食材とされるものがあるが、さすがに何の考えもなしにこれらを
鍋にぶち込むほど伊織は常識知らずでも無い。

「アイツのためだもんね。ここは気にしちゃダメよね、ウサちゃん……
他人の知識を借りても、わたしが料理すればいいんだもんね?
うん、そうと決まればぐずぐずしてられないわ!!美味しいカレーを作るために、
ちょっとだけ、みんなの知恵を借りるわよ」

決意を固めた伊織は、買いたておろしたてのエプロンを付けたまま、
他のアイドル達がいそうな場所へと走って行った……


■

「……たしか、真は今日もダンスレッスン場にいたわよね」
765プロが誇る自社ビルの設備はけっこう凄く、ちょっとしたレッスンなら
出来るくらいの施設が全て入っている。
トレーニングルームを兼ねたその部屋には一面の大きな鏡があり、
暇さえあれば真が常駐する部屋となっていた。

「真、いる?ちょっと教えて欲しい事があるんだけど……」
「あれ……伊織?どうしたの、その似合わない格好?」
エプロン姿の伊織を見た真が思わず発したその言葉にカチンと来る伊織。
似合わないものは似合わないと言う。それが真の性格であり、
伊織もまた似たようなものである。
プロデューサーのために美味しいカレーを作るため、と思えばこそ、
いつものように喧嘩腰になるのをぐっとこらえ、伊織は正直に
プロデューサーのためにカレーを作っている、と言う事を話した。

「すごいよそれ、感動した!!普段人のつくったごはんに文句言ってばっかりの伊織が
プロデューサーのために料理に挑戦するだなんて!!」
「……なんか、褒められてる気がしないんだけど……で、真こそ料理が得意そうな
イメージは無いんだけど、美味しいカレーって、どんなものか分かるの?」
「ああ、ボクはこう見えても大のカレー好きだからね。父さんによく黄レンジャーになれるって
言われたものさ。ズバリ、カレーの極意は激辛にアリ、だね」

「カレーだから、辛いのは当たり前じゃないの?」
もともとお嬢様育ちで、カレーを食べる頻度があまりにも低かった伊織のカレー認識は、
実はかなり低いものだったらしい。普通の人は真の説明にツッコミを入れるものだが、
伊織はそのまま彼女の話を聞いた。
「カレーでも、甘口や辛口があるのは知ってるだろ?特に春香が作ったカレーときたら、
林檎やマンゴーを隠し味に……いいや、もうあれは隠れてないね!!
スパイス自体はカレーなのに、後から拡がる甘〜い後味がもう、気持ち悪くて……
……いや、別にまずいとは言わないけど、好みが合わないって言うか、ね……
特に、プロデューサーみたいな男の人は、夏は汗をかいて走り回る時期だろ?
塩分が不足しがちだから、味も濃い目の方が喜んでもらえると思うね」

唯一決めかねていた、ルーの方針が決定された事で、伊織は満足し、真に感謝した。
そして、礼を言うが否や、ダッシュでその場を離れ、次の行動を開始した……



※危険カレーポイントが【5】上がった。 


765プロのオフィスは、規模に比例して大きく……というわけでもない。
事務を統括する小鳥は相変わらず忙しそうにしているが、経験値の成せる業か、
アイドル10人(実際は11人だが)の書類仕事関係を一人でこなしているので、
事務作業をするオフィス自体は、資料棚を含めてそんなに広くない。

そこで適度に趣味の妄想を入れながら、快適にキーを叩いているのが音無小鳥。
アイドルと言ってもおかしくない容姿を持ちながら、765プロのアイドルたちを陰で支える
縁の下の力持ちであり、皆の頼れるお姉さんでもある。

「小鳥、いる!?」
オフィスのドアを開けて、伊織はまっすぐに彼女の元へ詰め寄った。
そこにはただ、一つの目的のために行動する、ある意味ハイテンション状態の
トップアイドルの姿があった。
方向性さえ間違えなければ、きっと無敵とも言えるアピールでオーディションを勝ち抜くだろう。

「どうしたの伊織ちゃん?カレー作りで何か分からない事でもあった?」
「はうっ……!?」
いきなり核心を突かれて伊織は弾かれたように後ずさるが、それも当然。
給湯室を貸し切る許可は小鳥に申請したものであり、さらに運び込まれた
食材を見れば、察しのいい人間なら気付いて当たり前。

「そ、そうよ……気まぐれでたまには料理でもしてみようかなって思ったんだけど、
庶民の料理ってよく分からないから一般市民のやり方を聞いてみたいのよ!!
どうすれば美味しくなる?普通じゃなくて、すっごく美味しいやつを作るには?」
一週間前から部屋を押さえるとはずいぶんと気の長い気まぐれね、という言葉は置いといて、
伊織がプロデューサーのために何かしようと思っているのを見抜いた小鳥は、
普通に美味しい、一般的なカレーの作り方を彼女に伝えた。そして、

「あとは……ね、隠し味でわたしはいつもコレを入れてるかな?」
小鳥が机の上から見せたのは、今飲んでいる珈琲だった。
「はぁ!?カレーと一緒に飲むんじゃなくて、入れるの?ヘンじゃないそれ」
「ふっふっふ……そこはびっくり意外な盲点!お鍋一杯のカレーに対して、
カップ一杯分だけ入れるの。そうすると味に深みが出て美味しいのよ。
深いコクを出すなら、マンデリンかブルマンあたりがオススメよ♪」

小鳥から珈琲豆を分けてもらい、テンションがさらに上がった伊織だが、
「いい?挽き方は荒挽きでいいからドリップはやさしくして、苦味よりコクを出すの。
まさかとは思うけど、豆のまま鍋に入れたりは……伊織ちゃん?」
猪どころか、荒ぶる牛のようなテンションを制御できる人間は、プロデューサーのみだった。
伊織は、運動など苦手なはずがすでに他の人のところへと全力疾走しており、
すでにその場から忽然と姿を消していた……


※美味カレーポイントが【2】上がった。
※危険食材【丸のままの豆】をゲットした。 


「ちょっと、雪歩!!」
「ひゃっ!?……ご、ごめんなさいごめんなさい!!別に怠けてたわけじゃ……」
日当たりのいいサロンで自作のお茶を入れてくつろいでいた雪歩に、
突然嵐のようなテンションの伊織が詰め寄ってきたからさあ大変。
慌てふためく雪歩を落ち着けるため、伊織はしばし、慣れない我慢を強いられた。
イライラを必死に抑え、正直にカレー作りのコツを聞き出そうとするが、

「ご、ごめんなさいぃ……うち、和食がほとんどだから、カレーは小学校時代の
給食くらいしか知らないんですぅ……ぐすっ……」
「何ですってぇ!?」
「ひうっ!!……あ、でもでもっ、お父さんのお弟子さん達は山へ修行に出かけるとき、
カレー粉をたくさん持っていきますぅ。そのままカレーにしなくても、
塩コショウとカレー粉で充分美味しくなるっていう話を、お弟子さんの一人がしてました。
カレー粉は、魔法の粉だって言ってたかも……」

「ふぅん……魔法の粉、ね……ってえ!?粉なの?カタマリじゃないの?」
「わ、わかりませぇん……お弟子さん達は、瓶に黄色い粉を詰めて持って行きます……
そのまま野菜炒めやごはんにかけて食べたりもするって言ってました」

「カレー粉、魔法の粉……これは何か秘密がありそうね」
雪歩に詰め寄った状態から携帯電話を取り出し、慣れた様子で登録先を探しダイヤルする、
「新堂さん?わたしよ、今すぐカレー粉の最高級品を765プロに届けて!!
粉よ、粉。カタマリじゃないやつ!!え?インド以外にもイギリス産やタイ産がある?
ん……とにかく全部!!ええ、お願いね、じゃ!!」

「……」

追い詰められて壁に寄りかかった雪歩の視点から見ると、仁王立ちの伊織は
最高のヒントを手に入れた満足感に溢れ、これから自分が作る最高のカレーを
思いおこし、ついてはプロデューサーの顔を妄想していた。

『伊織……さすがスーパーアイドルだよ。料理もこんなに出来るなんて!!
こんなに美味しいカレーは食べた事が無いよ』
すでに彼女の脳内では、プロデューサーの賞賛に対して『コレくらい当然よ』と言う
切り返しとタイミングまで計られていた。
「うふ、うふふふふ……雪歩ありがと、これでまた一歩完璧なカレーに近付いたわ」
「ほへ……」

涙目の雪歩を尻目に、伊織は大股でサロンを出て行った。
もうだいぶ理想のカレーは完成されている。あとはダメ押しとばかりにもう二人くらい
情報をゲットすれば、この世のものとは思えないカレーになると信じながら……


※危険カレーポイントが【4】上がった。
※美味食材【最高のカレー粉】をゲットした。 


「ふぅ……あとはヒマそうにしてて、カレーを食べてそうな人……そうだ!!」
伊織の脚はそのままエレベーターへ向かい。最上階へのボタンを押す。
目指す場所は……社長室。

「高木のおじさま……じゃなくて、社長。ちょっとお時間宜しいかしら?」
これまでの勢いは何処へやら。お嬢様として鍛えた完璧な立ち居振る舞いで
社長室のドアをノックし、本人の了承を得て伊織は中に入った。
「おお、水瀬君……今日の仕事は午後からのはずだが、どうしたのかね?」

一般的に社長室といえば、豪華な絨毯や調度品が揃い。
いかにも圧倒されそうな雰囲気を誇る部屋だが、派手なビルに反比例して、
765プロの社長室はどちらかというと地味な作りだ。
最上階にもかかわらずあまり明かりを取らず、TVを見やすいように、
やや暗めに調整されている。あとは電話と事務用机。そして大き目の本棚。

この日も流行情報をチェックするために、3つのTVが同時に映っており、
平然とした顔で仕事をしながらTVを流しているのだから、この社長も
ある意味異常とも言える能力を持っているのかもしれない。

「社長、カレーって食べた事あるかしら?」
「ああ。こう見えても若い頃、屋台の10円カレーには世話になった……
なにしろ戦後の、食糧難の時代は安くてカロリーが取れる貴重な食料でね。
今話題の本格的インドカレーも良いが、やはり日本人ならとろみの付いたルーで、
もちもちした米を腹一杯ほおばりたいと思うのが……」

「そのカレーの美味しい作り方、御存知?」
思い出話を聴いているほど彼女はヒマでもない。多少は悪いと思いながらも
社長の話を遮り、本題を切り出した。

「ほう……水瀬君が、彼を料理で労うとは……うむうむ、実に素晴らしい。
そうだな、まず小麦粉を炒めてもっちり感を出し、当時安く手に入った鯖や鯨の
肉を使って豪快に、大胆に……ううむ、思い出しただけで食べたくなってきた。
当時は、みっちゃん……いや、水瀬会長と二人でよく仕事帰りに寄ったものだ」

「パパが食べてたの!?それ」
父親の名前を出すと同時に伊織は社長の話に喰いついた。
今でも現役バリバリの水瀬グループ会長として全国を飛び回り、美味しいものにも
詳しいであろう彼の勧めるものが、不味いはずが無い。
そう思いこんでいた伊織は、社長から詳しい話を聞き、
社長室を出ると同時に執事の新堂さんに、関サバと鯨肉の最高級品を届けるよう、
電話で命じ、最後の一人にヒントを聞くべく走り去った……

ただし、彼の話した30年前のカレーが、今現在伊織が用意している食材と合うかは、
全然別の話である。


※危険カレーポイントが【1】上がった。
※美味食材【鯨肉】【関サバ】をゲットした。 


「もうすぐ11時……コレで多分、最後になるわね」
時計を確認し、適当に辺りを見渡すと、階段の踊り場にあずさがいた。
ジャージ姿であるところを見ると、どうやらボイストレーニングを終えて休憩に入るらしい。
「あずさお願い!!究極カレーの作り方を教えて頂戴!!」
いきなり引き止め、無茶を言ってるのは承知だが、ここまで来た以上そんなにゆっくりもしてられない。
ましてや相手は超がつくほどのスローペース娘、あずさなのだから。

「あのねっ、実は今日プロデューサーのためにカレーを作ってあげたいの!!
すっごく美味しいヤツにしたいけど、一人じゃ限界があるわ。
だからお願い、美味しいカレーの作り方、教えて!!あとで何でもするからっ!!」

「……」
普段高圧的な伊織とは裏腹に、その目はまっすぐで曇りが無い。
正直に告白したのが良かったのか、あずさは穏やかな表情で笑っており、
「あらあら〜珍しいわね。伊織ちゃんがプロデューサーさんに……」
「余計なお世話!!」
「うふふ〜慌てない慌てない。きっと、すぐに済むから大丈夫。大事なものは一つだけだから」

「そ、そんなものがあるの!?」
それは、今までの誰よりも期待感のある言葉だった。
何処かの漫画に、入れれば何でも美味しくなる魔法の粉があったりはするが、
それはあくまで架空のお話。
料理と言うものはあくまで材料と調理の複雑な絡み合いに寄って出来るものであり、
そうそう上手い話が転がっているわけではない。
伊織も何となくそれを知っているからこそ、あずさの話に飛びつきながらも、
心の片隅ではどこか疑ってかかっていた。

「それは〜プロデューサーさんへの愛〜♪」
わざとらしい振り付けと共に歌いながらその【大事なもの】とやらを発表するあずさ。
ソレを聞いた伊織は、肩から力が抜けて一気にテンションが急降下していた。

「あんたに聞いたわたしが間違ってたわ……さ、調理場に戻らないと」
そんなお題目だけで料理が美味しくなるなら苦労はしない。
アイドルになりたいとだけ言いながら、現実的努力を何もしない人間と同じことだ。
落胆しつつその場を通り過ぎようとする伊織の背中に、

「じゃあ、伊織ちゃん……その愛情の正体って、知ってるかしら?」
という、謎めいたあずさの一言が響いた。
「……」
まだ疑いつつも首だけは振り向いてあずさの方を見る。
彼女自身の笑顔はいつも変わらずだが、冗談を行っている様子は見当たらない。
「プロデューサーさんの事を思ったら、自然と出てくる行動の全部がそれだと思うの。
普通に美味しいカレーを作りたいんだったら、リンテンドウDSの【ザ・お料理ナビ】でも
見れば、事足りるでしょ?
でも、材料選びから、お肉や野菜を切ること……その大きさも、
お年寄りが相手なら、食べやすいように切ろうって自然と思うでしょう?
子供が相手なら、あんまり辛いのはダメだって、自然に思うでしょう?
煮込み方から味見まで、全部……プロデューサーさんのためって思えば、
たった一つの、伊織ちゃんだけのやり方が自然と出てくると思うの……」 


「う……」
「言葉で表すと、たったの漢字一文字だけど……その中に、全部の理由と
最高の調理法が出てくるはずよ。しかも、伊織ちゃんだけにしか出来ないカレーの」

完全に見落としていた、一つの大きな穴。
プロデューサーに美味しいカレーを食べさせたいなら、水瀬家お抱えの料理人を呼べば事足りる。
最高の食材と、最高の調理法でプロデューサーを唸らせる事が出来るだろう。
しかし、最初に彼が言った【伊織の作ったカレーが食べたい】
この言葉の、一番大事な意味は何だったのだろう?

自分で作ると決めてからは、ひたすら最高のカレーを求めたが、
プロデューサー本人が望むのは、はたしてそういうものだっただろうか?
無論、某バケツ行きレベルのものを食べたいと思っているわけではないが、
彼の心を動かすカレーは、まさにあずさが言ったとおりのものだろう。

「……ごめんね、あずさ。生意気な事言って。わたし、ヘンな勘違いしてたみたい。
あと……ありがと。ホントにすっごく大事なこと、教わった気がする」
すでに予定時間を大幅に過ぎてはいるが、伊織はちゃんとあずさに向き合って、
丁寧に頭を下げた。
「うふふ、そんな事気にしてませんよ〜それより、いいなぁ……その計画。
わたしも、プロデューサーさんにお料理作ってあげようかしら〜」
「ちょ……待ってよ!!わたしのアイデアなんだから!!知的所有権を主張するわよ!
少なくとも、やっていいのは一ヶ月以上にしなさいっ!!」

ふと気が付けば、あずさのペースに飲まれていつものムードへ。
料理へのヘンな緊張感もなくなり、テンションはふたたび急上昇。
最後に聞いた相手があずさで良かったと、伊織は心から感謝した。

「あずさって…凄いよね。最後の最後で頼りになるって言うか……
やっぱりアレかな?癒しの極意って……年季?」

そして、つい悪気は無いのだが、NGとなる一言を引いてしまったらしい。
階段の踊り場を含め、フロア一つ分の温度が、3度ほど一気に下降した気がする。
「うふふ……伊織ちゃん……もういくつか教えてあげたい事が……」
「ひっ……あ、と……さっそく料理するから!!じゃ!!」

背中の悪寒を感じなくなるまで全力疾走して、たっぷり15秒。
100メートル近い長い廊下を走ったら、そこは給湯室の手前だった。
改めて手を洗い、届いていた食材を確認する。
手筈は全て整い、あとは彼のためを思って調理するのみ。

「ウサちゃん……ちょっとここで見ててね。アイツのために、ちゃちゃっと片付けるから」
料理などほとんどした事が無い彼女だが、不思議と不安は感じなかった。
手順はかなり遅いが、少しづつ……本当に少しづつ、伊織の挑戦が始まっていた。


※美味カレーポイントが【6】上がった。


総合:危険カレーポイント【2】(美味8、危険10差し引き)
   入手食材:丸のままの豆、最高のカレー粉、関サバ、鯨肉。

■


「いおりんが出てくれるなら、ウチ的には大助かりですよ!じゃ、彼女にもよろしく!!」
「ありがとうございます!!では、来週はくれぐれも宜しくお願いします」

TVプロデューサーと握手を交わし、彼はTV局をあとにした。
伊織の仕事は午後からだが、彼自身は朝早くから仕事に出ている。
超売れっ子アイドルを担当するプロデューサーの生活は、当然の如く多忙であり、
今日もTVの出演交渉にTV局へ出向き、TV番組プロデューサーとの打ち合わせ。
ギャラや出演内容の確認をし、水瀬伊織の将来を預かる責任者としての合否を出す。

ギャラが多くても無茶な仕事は当然させられないし、単独局の仕事を受け続けては
自然と偏りが生じ、人気の伸びも弱まってしまう。
特に、トップアイドルの伊織の場合はどうしても受けるより断る仕事の方が多く、
涙を飲んで切らなければならない仕事も数多くあり、
プロデューサーにしてみれば、胃を痛める大きな要因だった。
収入が増えても、上に行けばいくほどきつくなる……それがこの業界の常である。


そして、車でいったん765プロに帰ろうと運転中のその時……
派手な音を立ててプロデューサーの腹の虫が鳴いた。
「う……さすがにそろそろ限界かな。昨日飯を抜いてるからな……」

先週から、伊織が口を酸っぱくして言い続けてきた注意……というよりお願い。
【伊織の手作りカレーを食べるため、おなかを空かせておく事】
勿論破るつもりなど無いが、調子に乗って昨日の晩から食事を抜くと、さすがに辛い。
だが、これも全て伊織のカレーを楽しみにしているが為。

ひっきりなしに腹の虫が泣いている今、大抵のものなら美味しく食べられる自信があり、
765プロへの一歩一歩……もしくはエンジン音の全てが、最高の食事への前奏に聴こえる。
「メシ……伊織の手料理……カレー……着いた!!」
彼が765プロへと戻ってきたのは、正午ジャスト。
地下駐車場に車を停め、冷房の効いたオフィスへ入り、小鳥から冷たい麦茶を受け取る。

「……ぷはぁ、生き返りました、ご馳走様」
「はーい♪……で、この後はお待ちかね、伊織ちゃんの手作りカレーですか?」
事のほとんどを把握している小鳥は、ちょっとからかうようにプロデューサーに囁きかけた。
「そ、そうなんですけど……伊織、どうでした?万が一、
張り切りすぎて怪我とかしてなきゃいいんですけど……」
「大丈夫だと思いますよ。一応、こまめに覗きには行ったんだけど……
伊織ちゃん、凄く真剣で全然気付かれませんでした。
オーディションの時より気合入ってたかもしれませんよ、プロデューサーさん」 


そこまで気合充分とは男冥利に尽きるが、この後オーディションを控えていると思うと
喜んでばかりもいられない。
「……それじゃ、ちょいと昼飯に行ってきます。万が一の時は……」
「はい♪骨は拾って差し上げます!!」
「いや、そうじゃなくて胃薬くらいは下さいよ!?」
「あははっ……冗談ですよ。後武運をお祈りしておきますね」

笑顔で小鳥に送り出され、戦場へ出向く兵士よろしく、彼の足は給湯室へ。
何だか目には見えないオーラのようなものが、部屋から湧き出ているような気がした。
「あー……伊織、おはよう。俺だけど……カレーをおよばれに来ました」
軽くノックをして、様子を確かめようと反応を伺う。

部屋の中には明らかに伊織の気配があり、こちらのノックにも気付いてはいるはずである。
しかし、すぐには反応できない何か、異様な空気が、その空間には存在した。
双方、立ち尽くしたままたっぷり1分が過ぎたくらいだろうか、
急にガラリと扉が開き、仁王立ちの伊織が勢いよく現れたのは。

「ふふふ……よくここまで来たわね、プロデューサー!!さて、約束どおり
この伊織様のウルトラスーパーデラックスカレーを食べさせてあげる!!
アンタにとって、この給湯室はもうすぐ墓場となるのよ!!美味しくて死ぬから!!」
「……」
安っぽいRPGのラスボスじゃあるまいし、彼女はどうもテンションが上がりすぎて、
どうかしているっぽい。その証拠に、笑い方が果てしなくぎこちなく、
いつもの【にひひ】笑いをする様子が欠片も見当たらない。
しかし、いつものテーブルには真っ白なクロスが敷かれ、皿には炊き立ての白米が盛ってあり、
ご丁寧にカレールーは銀色の魔法のランプみたいなイレモノに入っている。
日本人は形から入る民族とはよく言ったものだが、少し凝りすぎにも思える。

が、見方を変えればその演出の一つ一つが、プロデューサーのためを思って
考えられたものであり、ベタな方法論ではあるものの、考え方の根本はたった一つ。
プロデュサーを喜ばせるため、考えられる事は全てやっておきたいという心理だった。

彼がこの部屋にやってくるギリギリまでカレーそのものに全力で挑み、
まだ何か出来ることは無いかと考え、カレー以外での【もてなし方】を見出した。
かつて何度も出席させられた、お金持ちの集まるパーティーで見るような、
真っ白なテーブルクロス。花瓶に花を飾り、皿やカレーの入れ物にも注目した。

伊織本人は否定するだろうが、それは目標に向かう人間が、必死で足掻く姿そのものだった。 

「じゃ、じゃあ……いただこうかな」
「ちょ、ちょっと待って、待ちなさい、待って−!!」

席についてスプーンを持ったプロデューサーを、必死の形相で伊織が止めた。
あえて悪い言い方をするなら、まるで死刑を宣告される直前のような表情で。

「こ、心の準備ってもんがあるでしょ!?ちょっとそこで待ってなさい!!
…………すぅ、はぁ………はあぁぁぁ……………」
落ち着くためというより、自らを奮い立たせるような深呼吸。
伊織にとってはじめてにも等しい、手料理を気になる男性に食べてもらうという
一大イベントは、ドームコンサート以上に緊張する大仕事に等しかった。

「……よし……はい!!ど、どうぞ、召し上がれ!!」
伊織の声がうわずって震えている。
プロデューサーはそんな一杯の伊織を察してか、合図と同時に短く『いただきます』
と言い、あとは無言で銀の容器(正式名称はソースポットと言うらしい)から、
ルーをライスにかけ、それぞれ半々づつスプーンで掬い、口に放り込んだ。

「………」
「………」
「………」
「……ど、どう!?どうなのよ!!まずかったら無理しないでいいんだからね!?」

もぐもぐと口を動かすプロデューサーの挙動が、やけにゆっくりに感じる。
伊織から見れば、それは永遠にも感じるほどの時間だった。

まだ、食べている。味わっている。
彼が一口目を飲み込むか吐き出すかしなければ、リアクションも感想も分からない。
伊織も気付かぬうちに手に抱きしめた、親友であるウサギのぬいぐるみには大きく力が入り、
冷たい汗が背筋を伝って流れていく。

いっその事、まずいと言われてもいい。だから、早く教えて欲しい。
この、何とも言えないほど嫌な空気を、一刻も早く変えて欲しいと伊織は思っていた。

「……辛い」
「へ!?」 


だが、彼がようやく発したその一言は、嫌な空気を吹き飛ばすには風圧が足りなかった。
「だ、ダメ?辛くて食べられない!?……やっぱり、わたしじゃ無理だった?」
すでに涙目になっているため、後半はよく聞き取れなかった。が、

「……辛いけど、美味いよ。俺は好きだ。この味」
「あ……」

【美味い】【好きだ】
この二つが、これ以上無いほどに心地良い言葉だったなんて。
すでに伊織の脳内では、アーケード版の表現力レッスンよろしくその二つの単語が
超高速で飛び回り、その表情は今までどんなカメラレッスンでも見せないほど、
【うれしく】【かわいく】を表現しようとしていた。

……しようとしていたが、しかし。
「ま、まぁ、はじめて作ったし、ソコソコの出来かもね」
と、無理に平静を装ってぶっきらぼうに答えていた。
ただし、頬が緩む表情を見られないように、後ろを向いて。

「うん、普通のカレー屋だったらかなり辛いランクになりそうだけど……
俺はカレー好きだし、美味しいと思うよ。
逆に春香や亜美、真美はちょっと厳しいと思うから、彼女らに作るなら甘口でな。
それとこれ……鯨肉か?またずいぶん贅沢なものを使ったな。
あとは鯖かな?シーフードカレーにしたんだ。普通はイカとか貝とかなんだけど、
さすがに伊織がつくるとちょっと違うね」
「で、でしょ!!そこはまぁ、パパや社長が食べた事あるって言うからやってみたのよ」
「しかも、魚臭さも気にならないし……これは、珈琲を入れたのかな?
珈琲の風味が魚のイヤな匂いを消してて、食べるのにまったく気になら……
ぐがっ!?………これ、何だ?固くて……」
「あ!?」

あずさのアドバイス通り、調理法にはかなり気を使った伊織だが、
珈琲豆の使い方だけは間違っていたらしく、豆をそのまま入れて煮込んでいた。
それでも珈琲の風味だけは出ていたので、鯨や鯖の魚臭さを消す事はできた。
……無論、ちゃんとした珈琲を入れていればもっと美味しくなったのは事実だが。

「あ、あの……ごめん。コーヒー豆……そのまま入れちゃった……
今考えたら、豆のまま鍋に入れるってどう考えてもヘンよね」
「ははは、びっくりはしたけど全然平気だって。珈琲豆を入れた意味も分かるし。
小鳥さん、最高級のマンデリンをくれたんだな。ちゃんとお礼、言ったか?」

「え……あ、う、うん……豆を食べただけで、分かっちゃうんだ……」
「そりゃ、小鳥さんの珈琲には毎日お世話になってるしね。
あと、カレールー自体も美味いよ。普通にスーパーで売ってるやつじゃないよな」
「あ……それは、雪歩が教えてくれた……だから、新堂さんに頼めたし。
それにね、最後はあずさが……すっごく大事なこと、教えてくれた……」

さすがにこれだけは気恥ずかしくて、直接言えるものではなかったが、
その代わり、真っ赤になってうつむくその表情が、苦労と感謝を全て物語っていた。
いつも、ファンや番組のために見せる完璧な笑顔ではなく、
765プロの同僚達に向ける心からの感謝と、プロデューサーに対する愛情。
その二つが身体全体から溢れ、プロデューサーを見つめる伊織の顔は、
ここにカメラが無いことを、生涯後悔ほどの、穏やかで極上の笑顔だった。 


激辛のルーは、たしかに少々咳き込むほどきついものではあったが、
一口食べてしまえば、慣れでどんどん口に入る。
心底おいしそうにカレーを掻き込むプロデューサーの顔に、嘘は感じなかった。
そして、

「おかわり、もらっていいか?」
そう言って、空になった皿を差し出すプロデューサーに、伊織の思考は一瞬ストップした。
「え……あ、あのっ、あ……」
「あー……ゴメンな、調子に乗って。それくらい自分でやらなきゃな」
「か、貸しなさいっ!!」
ぬいぐるみを片手に抱えたまま、空いた手で奪いように皿を奪い取った。

(プロデューサーがおかわりって言った……)
(プロデューサーがおかわりって言った……)
(プロデューサーがおかわりって言った……)

もはや、自分が何をしているかが曖昧なまま、さらに大きくライスを盛り、
銀のソースポットの存在を忘れ、直接ルーをかけてしまっている。
プロデューサーはたっぷり2人前以上のカレーが盛られた皿を受け取る事になった。
前日の夜から食事を抜いているとはいえ、激辛3人分を食べるのは正直難しいが、
不安と緊張感でいっぱいだった伊織の表情を思えば、この程度は苦労のうちに入らない。
むしろ、辛さを舌の奥まで感じる辛さが心地良いと思えるほどだった。

プロデューサーがスプーンを動かし、カレーをどんどん口内に収めて行く。
ただそれだけの作業が、見ているだけで果てしなく伊織を幸せにな気持ちにさせた。
彼がカレー3人前を完食するまでに掛かったのはたっぷり20分ほどだったが、
伊織にしてみれば、気が付けばあっという間に過ぎ去ったような時間。
その終わりというのは、祭りが終わるような侘びしさを連想させた。 


「……」
最高に幸せな時間が、終わりを告げる。
「なぁ、伊織……」
「な、何!?」
寂しさを悟られまいと強気に振舞う伊織の頭に、プロデューサーの手が優しく触れた。

「あ……」
カレーで汗ばんだ彼の手が、ゆっくりと左右に揺れる。
頭を撫でてもらうなんて父にも兄にも、久しくしてもらっていなかった。
どうしてこんなに気持ちがいいんだろうか?と思えるほど。
「美味しいカレーありがとうな、伊織……ごちそうさま。すっごく元気出たよ」
「も、もう……アンタが元気出たって、オーディションには関係無いじゃないの。
ちょっと休憩して、片付けたら出発するんだから、準備してよね!!」
「いや、ご馳走してもらったんだし片付けくらい俺がやるけど……」
「【片付けも料理のうち】って言うでしょ?いいからゆっくりしてなさい」

テンションの乱高下は、すでに伊織本人にもどうにもできないほどだ。
放っておけばどこまでも突き抜けようとする高揚感を必死に押さえ、
一旦この場を離れ、プロデューサーが見て無いことを確かめ、ダッシュで女子トイレに走る。
またも全体を見渡して人が見えないことを確認すると、個室に入り鍵を閉め、
音姫および本物の水流をダブルで流し、音を完全に消してから、
歓喜の表情と共に、長い付き合いの親友を抱きしめた。

「ウサちゃん……聞いた?ねぇ、聞いた!?プロデューサー、美味しいって!!
しかもおかわりって!!……わたし、やったのよね?はじめてだけど、
上手くいったのよね!?もう、もう……あぁっ、もうもうもうっ!!」
大事な親友と共に、ワルツを踊るようにトイレの個室でくるくると周る。
勢い余って壁に肩や肘を何度かぶつけたが、痛みすらも心地良かった。
わずか1分足らずだが、伊織の嬉しさ爆弾が、誰にも見られる事無くトイレに響いていた。
……いや、約一名、ワケが分からぬままに驚くだけの女の子に聞かれてはいたが。

「え?……み、水瀬さん……なの!?」
一番奥の個室にいた千早に気付く事無く、クリムゾンレッドにまで上がりすぎたテンションを、
ようやっとピンクまで落とし、伊織はいつもの表情に戻って、トイレを後にした。

「さあ、片付けたらオーディションよ!!どこからでもかかってらっしゃい!!」
伊織の半径2メートルあまりの空間は、威圧感すら漂うほどに変質している。
「あら?伊織……うわ!?」
通りすがりに伊織の背中を見つけた律子は、思わずその【圧】に後ずさった。

彼女の背中が、最高のやる気に溢れ、燃えていたから。 


結局その後のオーディションは【女王・健在】と記事になるほどの圧倒的勝利で締め、
TV出演を終えた後、その日の夜を明るい空気で締めることになる。
プライベートとはいえ午前中からフル回転した伊織は翌日オフとなり、
久しぶりの学校生活を、引き続き高いテンションで過ごしてくれた。

……ただ翌日その影で、空きっ腹に3人前のカレーを流し込んだおかげで胃を痛め、
真っ青な顔で書類仕事をするプロデューサーと、
ご相伴とばかりに伊織のカレーをつまみ食いして唇を腫らしてしまい、
風邪と称して一日マスクをしてファンの前に出なければいけなかった、
【王子様】の呼称を持つアイドルがいたとかいないとか。

さらに、伊織に続けとばかりに皆がプロデューサーに手料理を御馳走するブームが興り、
プロデューサーと、ついでに社長が胃薬を手放せない日々が続いたそうな。

「プロデューサーさん♪秋は洋ナシとか、栗を使ったケーキが美味しいんですよ!!」
「うっうー!プロデューサー、今日はサンマが3匹128円の大セールだったんです!!
わたしが焼きますから、一緒に食べましょう!!」
「兄ちゃん兄ちゃん!!そこの森でヤマブドウとヘビイチゴを取ってジャムにしたの!」
「亜美と真美の合作だよ!!たっぷりパンに塗って食べてー!!」
「あふぅ……今日はおにぎりに新しい具を入れる実験なの。
ヤバそうなの、ちょっと試しに食べてくれないかな?」

……と、こんな感じに。
季節はこれから食欲真っ盛りの秋。
新しく採れる旬の食材に、アイドルたちのテンションは上がりっぱなし。
そのご利益を考えたら、業務上多少の胃の痛みなど気にはならないはずである。
「ただ、レッスンを飛ばしまくるので育成中の時だけはカンベンして欲しい……」
そんないちプロデューサーの愚痴も胸のうちに掠めるのみで、秋の高い空に消えてゆく。
今日もまた、数知れないほどの舞台で、765プロの宝石たちが輝き続けるのだから。


■おしまい。 






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