ラストライブのその後で

作:名無し

「はいっ! 今日まで……、今日まで、本当にありがとうございましたっ!!」
 頭のリボンを大きく揺らして、春香は頭を下げた。
 プロデューサーの足元だけが視界に入る。
 一体、彼は今どんな顔をしているのだろう。春香は、頭を下げたままそんなことを思う。

 困った顔をしているだろうか?
 悲しい顔をしているだろうか?
 それとも、笑っている?
 考えても分かるはずはない。春香はゆっくりと顔を上げた。

「こちらこそ、ありがとう」
 穏やかな声でそう答えるプロデューサーの顔を見る。
 わずかに眉を下げて、小さく微笑んでいた。
 ふたりの間を、さぁっと風が通り過ぎていく。
 冷たい風。火照った頬から熱を奪う風は、まもなく冬がやってくることを教えてくれた。

「…………」
 春香はわずかに視線を落とし、小さく息をつく。
 先ほどまで自分を包み込んでいた歓声がまだ耳に残っている気がする。
 ドーム一杯の歓声――トップアイドルに向けられる、最高の歓声が。
 彼女は一度深く呼吸をすると、にこりと笑みを浮かべた。
「えっと……それじゃあ、私、行きますね」
「ああ。気をつけてな」
 そう言うプロデューサーにもう一度頭を下げてから、春香は彼に背中を向けて歩き出した。

 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩。
 そこまで歩いて足を止める。
 もしも今ここで振り返って、もう一度彼に想いを伝えたのなら、何かが変わるのだろうか。
(……なんて)
 春香は自嘲気味な笑みを漏らすと、再び足を踏み出す。
 背後の気配が徐々に遠ざかっていくのを感じながら、彼女は一度も彼を振り返ることなく歩き続けた。 


   ◆


 春香の背中が見えなくなった頃、ようやくプロデューサーも足を踏み出した。
 ラストライブという大仕事を終えて清々しい気分である。
 だけどその一方で、春香を傷つけてしまったのではないかという思いが、ちくちくと胸を締め付ける。
「あれで……よかったんだよな」
 自分に言い聞かせるようにして呟く。

 担当アイドルから告白されて、彼女の将来のために、とそれを断った。
 それは、なにひとつ間違った判断ではなかった。
 何度想いをぶつけられたとしても、きっと自分は同じ答えを返しただろう。
「……飲みにでも行こうかな」
「だったら、お付き合いしますよ?」
「うわっ!?」
 独り言に突然言葉を返されて、プロデューサーは飛び上がった。
 見ると、765プロ事務員である音無小鳥がすぐそばに立っている。
 いつもの見慣れた事務服ではなく、今は私服姿。それが、なんだか新鮮だった。

「こ、小鳥さん、何でここに?」
「うちの事務所の大切なアイドルのラストライブですから。私も見に来ていたんです」
「…………」
 にこにこと笑みを浮かべる小鳥を見て、プロデューサーはまさか、と嫌な予感を抱く。
「あの……もしかして、さっきの見てました?」
「え? 何をですか?」
 キョトンとした顔で首を捻る小鳥を見て、彼はほっと息をつく。
 まあ彼女に見られたところで誰かに言いふらされるとも思えないが、
やはりあまり他人に見られて欲しいシーンではない。

「いえ、なんでもないんです。そんなことより、
俺そのへんの居酒屋にでも行くつもりなんですけど……小鳥さんはどうします?」
「それじゃあ、私も一緒に」
「多分、俺と一緒に飲んでも楽しくないと思いますけど?」
 苦笑いを浮かべながら言う。冗談めかしてはいるが、あながち間違いでもないだろう。
 今は誰かと楽しく酒が飲める気分でもなかった。

 しかし小鳥はにこりと微笑むと、
「そんなことないです。プロデューサーさんと一緒にいるの楽しいですから。
それに、プロデューサーさんも誰かと話した方がすっきりすると思いますよ?」
 そう言ってプロデューサーの顔を覗きこんだ。当然のことながら、ふたりの目が合う。
「…………あの、本当にさっきの見てないんですよね?」
「うふふ」
 誤魔化すように笑われ、結局答えがもらえることはなかった。 


「それじゃ、とりあえず乾杯」
「はい。春香ちゃんのライブ成功を祝して、ですね」
 キン、とふたつのジョッキがぶつかる。
 プロデューサーはジョッキに口をつけると、一気にビールを流し込んでいった。

「んぐ、んぐ……ぷはっ」
 大きく息を吐いて、上唇についた泡を拭う。
 ライブが終わってからバタバタしていて気が付かなかったが、かなり喉が渇いていたようだった。
 よく冷えたビールの味は……やはり美味い。
 空きっ腹だからだろうか、飲んだそばから体が火照っていくのがはっきりと分かった。

「それにしても結構混んでますね」
 ジョッキを抱えたまま、彼は店内を見渡す。仕事帰りのサラリーマンや、大学生風の若者たち。
 店内はガヤガヤと賑わっていて、何も考えずに飲んで食べるには悪くない環境だった。
「週末ですからね」
 小鳥はそう答えてジョッキを傾けた。
 そのまま二度喉を上下させると、ぷは、と一息ついてプロデューサーを見る。
「ライブ、終わっちゃいましたね」
「ですねぇ」
「どうでしたか、春香ちゃんは?」

 そう問いかけられ、プロデューサーは摘んでいた刺身を飲み込んでからこう答えた。
「よく頑張った……と思います。あれだけの結果を残せたのは、春香の努力があったからですし」
「春香ちゃん、頑張りやさんですからね。そのおかげで、ステージにあがると、本当に別人みたいに大きく見えて」
 小鳥のその言葉に、プロデューサーの頬が緩む。
 やはり担当アイドルを褒めてもらえるというのは、プロデューサー冥利に尽きるものである。
 自身のことを褒められているわけでもないのに、誇らしい気分だ。

「それにしても、春香ちゃん、このままアイドルを辞めちゃうってことにならなくて本当によかったですね」
 そこまで言うと、小鳥は近くを歩いていた店員を呼び止めて生中お願いします、と可愛らしい笑顔を浮かべた。
 小鳥のジョッキに目をやると……いつの間にか空になっている。
 さっきまではまだ半分以上残っていた気がするが。

「春香がアイドルを続けることは……俺も本当によかったと思って――ん?」
 言いかけて、プロデューサーは口をつぐむ。
 春香がアイドルを続けるということを知らされたのは、ライブの後だ。
 つまり、まだその情報を知っているのは、プロデューサーだけのはずなのだが……。 


「…………」
 彼はジト目で小鳥を見た。
「やっぱり見てたんですね」
「あ、あーっと、その…………ごめんなさい、本当に立ち聞きするつもりじゃなかったんですけど……」
 小鳥はプロデューサーの視線から逃れるように一度目を泳がせたが、すぐにしゅんと肩を落として頭を下げる。
 そんな彼女の姿に、プロデューサーは慌てて手を振った。

「あ、いえ、別に責めるわけじゃないです。あんなところで話してた俺たちも悪いんで」
 おそらく彼女も春香に何か声をかけようと思ってあの場に来ていたのだろう。
 だとしたら、それを責めるのはあんまりというものである。
 プロデューサーが苦笑いを浮かべていると、ふと小鳥が目を伏せた。
「……春香ちゃん、辛そうな顔、してましたね」
「…………」

 悲しそうに眉を下げる小鳥に、彼は何も返すことが出来ない。
 やはり彼女にもそう見えていたか、とため息が漏れる。
 自分に心配をかけないようにするためか、春香は笑顔を向けてくれた。
 けれど、それがどこか無理をしたものだったことなど、いつも春香と一緒にいた人間ならすぐに分かる。
(俺が、春香にあんな顔させちゃったんだよな……)
 ちくり、と心が痛む。プロデューサーは思わず胸元を押さえた。

「プロデューサーさん、自分を責めたりしてます?」
「え?」
「いま、そういう顔してましたよ」
「…………」
 じっと見つめられて、思わず固まってしまう。
 アルコールが回ってきたのか、彼女の頬はほんのりと桜色に染まっていた。
 しかし、その目は真剣そのものである。
 まっすぐに見据えられ、プロデューサーは胸元に置いた手をそっと下ろした。

(小鳥さんになら……聞いてもらってもいいかもしれない)
 じっと見つめ合っているうちに、なんとなくそう思えてくる。
 プロデューサーはよし、と誰に言うでもなく呟くと、しゅるしゅるとネクタイを解いていった。
「……小鳥さん、飲みましょう!」
「え?」
「もう、どんどん行っちゃいましょう。ここは俺が奢りますから」
「ど、どうしちゃったんですか、プロデューサーさん?」
 突然プロデューサーの態度が変わり、小鳥は困惑したように漏らす。

「いいからいいから」
 彼はにこりと笑いながらメニューを手に取ると、空き皿の回収に来ていた店員を呼び止めた。
 そして追加の注文を終え、ジョッキに残っていたビールを全て腹に収めると、
「あの、俺、なんか情けないこと言うかもしんないですけど……酒のせいってことにしてもらえますか?」
「…………」
 彼のその言葉の意味をすぐに理解したのだろう、小鳥ははい、と頷いた。 


  ◆


「うわ、暗い……」
 手探りで電気のスイッチを探していく。
 指先にプラスチックの感触がして、春香はそれをそっと押し込んだ。
 すぐに蛍光灯が点灯して、見慣れた事務所を明るく照らす。
「やっぱりこんな時間じゃ人もいないかぁ」

 春香はぽつりと呟くと、どこへ向かうでもなく事務所の中を歩き回る。
 小さな事務所。とはいえ自分がアイドル候補生だった頃に比べれば
いくらかは広くなっているし、過ごしやすくもなっている。
 もっとも、あの小さな小さな事務所も、決して居心地が悪いわけではなかったが。

 プロデューサーと別れてから、春香の足は自然と事務所へ向かっていた。
 あのまますぐに電車に乗って地元に帰ってしまえば、
今日一日の出来事が全て消えてしまうような、そんな気がしたからだ。
 もちろん、今もライブの熱気は体に残っているし、そんなことはあり得ないことは春香だって十分に分かっていたけれど。
「あれ?」
 ふと、一台のパソコンが目に入る。
 電源が入っている。誰かが消し忘れてしまったのだろうか?

(勝手に消してもいいのかな……でも大切なデータとか入ってたら大変だし)
 変にいじって、明日の朝、誰かが絶望に打ちひしがれていたら……それは、ちょっと避けたい。
 一体どうしたものか、とひとり悩んでいると、きぃ、と入り口のドアが音を立てた。
 びくりと体を震わせて入り口を見ると、
15センチほど開かれた扉の隙間からこちらを覗き込んでいる影と目が合う。

「ちょ、ちょっともう、泥棒かと思ったじゃない〜……」
 入り口にいた人物は、春香の顔を見るやいなやその場にしゃがみこむ。
 そのまま、安心したように、深く息を吐いた。
「あ、あれ……律子さん?」
 驚いたように言うと、その人物――秋月律子は、苦笑いを浮かべた。

「確かに電気消していったはずなのに、戻ってきたら事務所が明るいんだもの。てっきり泥棒かと思っちゃったわよ」
「す、すいません……」
 春香が慌てて頭を下げると、律子は別に謝らなくても、と眼鏡のフレームに触れた。
「それにしても、こんな時間にどうして事務所に来たのよ? 春香、今日はライブじゃなかった?」

「あ、そ、そうなんですけど……なんとなく、来ちゃいました、えへへ」
 誤魔化すように笑っていると、律子は不思議そうな顔をしながら電源の入っていたパソコンの前に座った。
「律子さんこそ、こんな時間にどうして事務所に?」
 ちらりと、パソコンのモニタを覗きこむ。 


 何やら数字がたくさん並んでいて、あまり機械に強いとは言えない春香にとっては、ちんぷんかんぷんな画面である。
 仕事関係……ということくらいしか分からない。
「ちょっと終わらせておきたい事務仕事があってね」
「事務仕事って……律子さんもアイドルなのに」

「人手不足だからねぇ。春香のプロデューサー殿は、どうも事務仕事は苦手みたいだし?」
 ちらりとからかうような視線を向けられる。
 パソコンの前で頭を抱える彼の姿が思い浮かび、春香は思わず笑いをこぼしてしまった。
 だけど、すぐにその笑顔が固まる。彼のことを、思い出してしまったから。
「……何かあった?」
 律子は視線をパソコンに向けると、低めの声でそう呟いた。

「え?」
「引退ライブを終えて、感慨深くなって事務所に来た……ってわけでもなさそうだけど?」
「…………」
 眼鏡越しの視線は相変わらずディスプレイに向けられていたが、どうやら見透かされていたようである。
 相変わらずだ……と言うと「どういう意味?」と詰め寄られてしまいそうだけど。
「告白でもしてフラれたとか?」
「ひょっ……!?」
「な、なに変な声出してるのよ」

 ずばり言い当てられて、自分でも予想もしない声が喉から漏れてしまう。
 律子は少々驚きながらも、くすくすと笑いをこぼした。
「な、なんで分かるんですか……?」
「え、本当に当たってたの?」
「…………」
 自爆。春香はがっくりと肩を落とした。

「ご、ごめんね〜、まさかドンピシャだとはさすがに思わなかったわ」
 律子は人差し指で眼鏡を持ち上げてから、あはは、と乾いた笑いを浮かべる。
「でもまぁ、春香がプロデューサーのこと好きなのは、知ってたしね」
「えぇっ!?」
「え、そんなのみんな知ってるわよ?」
「ななな、なんでですかぁっ!?」
 思わず立ち上がる。椅子ががたん、と大きな音を立てた。

 律子の言葉は、あまりに予想外すぎた。
 彼への好意を、そこまで表に出していたつもりはないけれど……。
(それに、プロデューサーさんだって、まったく気が付いてなかったし……)
「言っておくけど、プロデューサーは超がつくほどの鈍感だから気が付いてないだけよ」
「…………」
 春香は両手で口元を押さえながら、すとんと椅子に腰を下ろした。

 顔が熱い。みんなにバレバレだったとは……まさに穴があったらなんとやら。
 雪歩を呼びたい気分だった。
「とまぁ、そのへんは全部バレバレなわけだし……何か吐き出したいことがあったら聞くけど? 私でよければ、だけど」
「律子さん……」
「……まあ、聞くだけしかできないけどね」
 ぱちぱちとキーボードを叩く音が静かに響く。

 春香はそっと窓に目をやった。と言ってもブラインドが視界に入るだけだ。
 ちらりと、視線を今度は律子に向ける。彼女はパソコンに、そして、自分は窓に向かって。
 変にかしこまって向かい合うよりも、これくらいの方が話しやすい。
 春香はそっと口を開いた。

「律子さん、私……プロデューサーさんが好きなんです」
「ん、知ってる」
 素っ気のない返事だったけれど、それは自分が気負わずに話せるようにするためだと分かるから。
 春香はそのまま、ぽろりぽろりと心の中にめぐっていた思いをこぼしていった。 


「――それで私がアイドルを辞めたとき、気持ちが変わっていなければ、って」
「そっか」
 夢中で話すうちに、時計の長針が一周していた。
 律子はその間も、深く質問してくるわけでも、退屈そうにするでもなく話を聞いてくれた。
 それが、春香にとってはありがたいことだった。

「結局……これってフラれちゃった、ってことなんですよね」
「でも、もしも春香がずっとプロデューサーを好きでいれば、可能性はあるわけでしょう?」
 初めて、律子が質問を向けてきた。
 律子のその言葉に、春香は俯いてぐっと手に力をこめる。
「だって私だけが好きでいたって……その間にプロデューサーさんが他の人を好きになったら、
なんの意味も……ないじゃ……ないです、か」

 同じ事務所内で、彼のそんな噂を聞いてしまったら。
 想像するだけで鈍い痛みを感じてしまう。
 じわりと目頭が熱くなっていくのが分かる。
 このままでは涙がこぼれてしまいそうで、春香はこみあげてくるものを押さえ込むように、ぐっと喉を鳴らした。

「でも春香がアイドルを続けるんなら、プロデューサーと付き合うことって、すごくリスクの高いことよね」
「……それは」
 何も返せない。こうしたトラブルが、どれだけアイドルとしての活動に影響を与えるか。
 そんなのは考えるまでもなかったから。
 一年という短い活動の中でも、そういった人たちを何人も見てきた。

「私は、プロデューサーの判断が正しかったとも間違っていたとも言えないし……
ううん、私には分からない、正直なところ」
 律子はわずかに目を伏せて言う。
「けど、多分プロデューサーも辛い気持ちでいるんだと思う」
「…………」
 それは、春香にも分かっていた。
 彼は優しい。優しいからこそ、自分が悲しむと分かっていることを言うのは……きっと辛かっただろう。

「悔しいけど、私たちはまだ子供で、プロデューサーは大人。そういう気持ちを隠すのが、やっぱり上手いのよ」
「そう……ですね」
「だから私は、それでも『春香の将来のために』と言ったプロデューサーを尊敬する。
もしそれが春香の告白を断るためについた嘘だったら、絶対に許せないけど」
 そこまで言うと、律子はちらりと春香を見て、
「でもプロデューサーがそういう人じゃないのは、春香が一番分かってるわよね?」
 と続けた。彼女の問いかけに、春香は頷く。その拍子に涙がこぼれた。

「律子さん、私、どうすればいいんでしょうか……」
「頑張るしかないんじゃない? もう一回プロデューサーに告白するときに、心残りがないように」
 律子はそう言って立ち上がると、給湯室に向かって歩いていった。
 さきほどまで触れていたパソコンは、いつの間にか電源が落とされていた。 


「…………」
 ひとりきりになった春香は、椅子の背もたれに体重を預けて天井を見上げた。
 蛍光灯が眩しくて、思わず目を細める。
(いつか、アイドルを辞めたとき……私はどんな気持ちでいるんだろう)
 今と同じ恋心を抱いているのだろうか。
 それとも、彼じゃない別の誰かを想っているのだろうか。
 はたまた、結婚で電撃引退……はないかな、さすがに。

「はい、どうぞ」
 戻ってきた律子がマグカップを差し出してくれる。ふわりと鼻をくすぐるコーヒーの香り。
 春香はありがとうございます、とそれを受け取ると、砂糖とミルクをたっぷり入れて、そっとかき混ぜた。
 そしてコーヒーを口に含む。甘い。甘いけど、疲れた体にはちょうどいい。
 春香はほっと息をつくと、顔を上げた。

「律子さん」
「なに?」
「私、自分が納得できるまで、お仕事頑張ります」
 その言葉に、律子の口角がにっと持ち上がる。
「それで、限界まで走り続けたら、また今日と同じように……その、頑張ります」

「気持ちが変わる可能性は?」
「うーん……100%って言うとなんかうそ臭いし……99,8%あり得ません」
 微妙な数字に、律子は思わず噴き出す。
 それから、律子はそっとパソコンに接続されたマウスに触れる。
 カチ、と小さく音がなる。
 当然のことながら何の反応もなかったが、律子は構わず口を開いた。

「……うん、私もちょっと頑張ってみようかな」
「律子さんも……ですか?」
「ま、私もあんまり売れてないけど、一応アイドルだからね。
文句言わずに、もう少しだけアイドルって仕事に力入れてみようかな……ってちょっと思った」
 照れくさそうに言う律子に、春香は満面の笑みを浮かべながら、
「はい、一緒に頑張りましょう!」
 そう言ってぐっと拳を握った。
 律子は目を細めて笑うと、仕切り直すようにぱちんと手を叩く。
「――さて、それじゃここからは女同士の愚痴タイム」
「へ?」

 突然の律子の言葉に、春香はきょとんとした表情を浮かべた。
「綺麗にまとめたけど、ちょっと文句を言いたいことだってあるんじゃない?」
「う……」
 春香が言葉につまると、律子はやっぱり、とでも言いたげに口元を緩めた。
 なんだか何もかも見透かされているようで少々複雑だが、それでも確かに言いたいことはたくさんある。
 春香は小さく笑うと、ドン、とデスクを叩いた。
「大体プロデューサーさん、ちょっとデリカシーがないんです!」
「あー、それは確かに」

「だって、今よりもっと近いところに置いて欲しいって言ったら、『は?』って言ったんですよぉ!
そんな言い方あんまりですよね!?」
「っくく……そうね、そりゃ確かに酷いわ。あはは……」
「もう、笑い事じゃないです、律子さん」
 小さな事務所。天海春香のアイドルとしての一区切りであるこの日。
 事務所にはしばらくの間、コーヒーの香りとふたりの笑い声が満ちていた。 


   ◆


「俺だって、春香のことが嫌いであんなこと言ったわけじゃないんですよ」
「うんうん、そうですね」
 音無小鳥は、なだめるような口調で言うと、隣の席でグラスを握るプロデューサーを見た。
 顔はもう真っ赤だ。かなりお酒が回っているようである。
(プロデューサーさん、あんまりお酒強くないのね)
 明らかに酔っ払っている彼を見て、小鳥は小さく笑う。
 ちなみに、既に数え切れないくらいにグラスを交換したことなどは、彼女には全く関係ないようだった。

「小鳥さん、俺は……春香を傷つけたんですよね」
 グラスの中で揺れる氷を見つめながら、プロデューサーが漏らす。
「そうですね」
「う、はっきり言いますね。まぁ、自分でも分かってますけど……」
 苦笑いを浮かべるプロデューサー。
「だけど、春香のためを思えば……受け入れるわけにはいかないから」
「プロデューサーさん自身の気持ちは、どうなんですか? 春香ちゃんの将来とか、そういうことを抜きにして」

 核心をつくような小鳥の質問に、プロデューサーはぴたりと固まる。
 そのまま何と答えたものか、と持っていた箸をゆらゆらと揺らしていたが、やがてぽつりと言った。
「――春香は、まだ子供なんです」
「…………」
 16歳――確かにそれは……彼から見れば、そして自分から見ても、子供だ。

「きっと春香にとって俺は、初めてずっと身近にいた男で。
それにあれくらいの年齢の子は、年上の男ってだけで、憧れちゃったりするんです、多分」
 ふんふん、と小鳥は頷く。
 十年以上前――小鳥がまだセーラー服に身を包んでいた頃。
 確かに、年上の男性に憧れを持つことは多かったように思う。
 若い教師、先輩、教育実習生……。

「だから春香の『好き』って気持ちを、そのまま受け止めていいんだろうかって」
「プロデューサーさん……」
「俺と一度距離を置いて、春香にはもっといろんな物を見て欲しいです。仕事も、それから……俺以外の男も」
 最後のあたりは、なんとも複雑な様子で言う。
 それが、「彼自身の気持ち」の答えなのだろうと、小鳥は思った。
「離れている間に、春香ちゃんがもしも他の男性を好きになったら?」
「……そのときは、そのときです」
 そう答えると、彼はテーブルにおいてあった、すっかり冷めてしまっている天ぷらをサクリと口に咥えた。 


「はぁ、なんだか……大人って悲しいですね」
「小鳥さん?」
 小鳥がわずかに視線を持ち上げて言うと、プロデューサーはちらりと彼女を見た。
「なんとなくプロデューサーさんのお話を聞いていたら、そんな風に思っちゃいました」
 何も考えず、ただ、相手が好きという気持ちだけで動くことが出来たら、こんな風に迷う必要もないだろう。
 だけど、私たちは大人だから。そういうわけにもいかない。

「春香ちゃんなら、プロデューサーさんが、
ちゃんと春香ちゃんのことを考えてくれてるって、分かってくれると思います」
「だといいんですけど」
 はは、と小さく笑いをこぼすプロデューサー。そのまま、ぽつりと続けた。
「俺の手を離れても、春香には頑張って欲しいです、本当に」
「大丈夫です、きっと。今は辛いかもしれないけれど、春香ちゃんはひとりじゃないですしね」

 765プロのみんなは、とても良い子だから。
 春香が迷ったり苦しんだとき、手を差し伸べてくれる子が、絶対にいるから。
 だからきっと、あの子は大丈夫だ。そんな確信を小鳥は抱く。
「ふう、なんか全部話したらちょっとすっきりしました。ありがとうございます、小鳥さん」
 少しだけ酔いが覚めてきたのだろう、彼は背筋を伸ばして微笑んだ。

「それじゃあ、そろそろ行きましょうか?」
 すっかり空になった皿とグラスをちらりと見てから、
プロデューサーは椅子にかけてあったネクタイとスーツの上着を手に取った。
 それらを身につけると、テーブルの端に置いてあった伝票を持ち上げる。
「ちゃんと約束通り奢ります」
「あの、割り勘で大丈夫ですよ?」

「いや、話聞いてもらったお礼ですから」
 財布を取り出そうとする小鳥を制すると、プロデューサーは自分のカバンから財布を取り出した。
 申し訳ない気もしたが、プロデューサーは構いませんから、の一点張りだ。
 結局何を言っても無駄か、と諦めた小鳥は、潔くお言葉に甘えることにした。
「んー、それじゃあ、ご馳走になっちゃいますね」
「はい」
 小鳥がぺこりと頭を下げると、彼は嬉しそうに笑った。 


 店の外に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
 お店に入る前は思わず肌をさすってしまう冷たさだったが、体が熱を持っている今は心地良い。
 駅へと向かう道をプロデューサーと並んで歩きながら、小鳥は夜空を見上げた。
「あの、プロデューサーさん」
「なんですか?」
「さっき言い忘れたんですけど」
「はい?」
 不思議そうな顔で彼は小鳥を見た。

「確かにあれくらいの年の子は、年上の人に憧れを持ちやすいのかもしれません」
「……はい」
「だけど春香ちゃんは、プロデューサーさんが
他の誰でもないプロデューサーさんだから、きっと好きになったんだと思います」
「……そんなもんですかね」
 妙にしみじみとした口調で返すプロデューサー。
 彼は両手をポケットに突っ込んではぁ、と息を吐く。
 さすがにまだ吐く息が白く染まることはないようだ。

「ふふ、そんなものです。私も同じ女の子として、春香ちゃんの気持ちは分かりますから」
「…………」
「何か言いたげな顔ですね?」
「あ、い、いえ、そんな、別に、あはは……」
 慌てたように彼は目を逸らす。
 彼が何を思っているかは何となく分かるけれど……というか、言っていて自分でもちょっと「ん?」と思ったけれど。
(二十チョメチョメでも、女の子でいいわよ……ね?)
 自分に言い聞かせるようにして、小鳥はコホンと喉を鳴らした。

「と、とにかく、今はお仕事を頑張りましょう。それが、私たちのやるべきことですから」
「そうですね。よーし、明日からまた新しいプロデュース始めるかぁ」
 ぐぐっと両手を空に向けて、プロデューサーは背中を伸ばす。
 小鳥もそんな彼を真似て、両手を思いっきり天に向けて伸ばした。

 また明日からいつも通りの日常が始まる。
 この先、彼らがどうなるのかは誰にも分からない。
 それでも、幸せな未来が待ち受けていることを願わずにはいられない。
 広い空の下で、小鳥はそんなことを思った。 



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