君の花

作:276

1.
「ねえプロデューサー」と雪歩は言った。「私がアイドルを辞めたら、困りますか?」
 ざわりと葉を揺らして、風が立った。木立を縫って流れる風は、もう秋の冷たさを孕んでいた。
雪歩に風邪を引かせるわけにはいかないなと思った。
 場違いな不安が顔に出たのか、あるいは自身の不安が口をついたのか、雪歩はこちら答えを待たなかった。
「やっぱり、困りますよね」
 ところ狭しと散り敷いた落ち葉を踏んで、とん、と跳ねるようにして振り返った雪歩に、彼はすこしだけ戸惑った。
質問の内容にたじろいだのではない。それを告げた雪歩の笑顔が、あまりにも美しすぎて。
 冗談を言うなよと笑顔で振り切ってしまうには、あまりにも悲愴な笑顔に見えて。
 雪歩の様子がすぐれない。体調を崩しているようでもないのに、動きがいっそう緩慢になった。
さすがにカメラの前では見せないが、ふと笑顔に翳が差す瞬間がある。
二週間も前にその異変に気づきながら今日まで休みを
取ってやることができなかったのは、己の不明のなすところだ。湧き出た黒い後悔が罪悪感となって胸を覆った。
 多忙はトップアイドルの宿命だ。スケジューリングに無理な休暇は通せない。言うまでもない事実だからこそ、
それだけは言い訳にすまいと誓った。まだ駆け出しだったころ、あるべきプロデューサーの心得とした戯言だ。
それがいまでも彼を縛っている。
多忙とストレスがアイドルの付き人であるというのなら、
その宿痾を取り除いてやることこそがプロデューサーの使命であると、未熟だった彼は信じた。
いや、今でも愚直に信じている。
 そのありようが間違っているとは、天地が覆っても思えない。
 はらりはらりと舞い散る木の葉が、時の停滞を埋めていくようだった。
すらりと伸びた林道に、淡い午後の日差しが洩れている。
振り返ってみれば、歩いてきた小路はもうずいぶんな距離になった。
「辞めたいのか?」
 言うべき言葉は他にあったかもしれない。
少なくとも、プロダクションの社員として、いまの反問は禁忌であろうと思った。 

「どうなんでしょう」と雪歩はいっそう儚げな笑みを深くした。「よく、わからないんです」
「辞めるか?」
「え?」
「アイドル、辞めるか?」
「い、いいんですか?」
「いいもなにも、雪歩が決めることだ。俺は雪歩の希望を叶えるだけの人間さ」と彼は大きく息を吐いた。
朝ならばともかく、夕暮れ前の吐息はまだ曇らない。
「辛いなら、苦しいなら、辞めたいなら、辞めればいい」
「プロデューサーは、こ、困らないんですか?」
「そりゃあ寂しいよ。俺だってアイドル萩原雪歩のファンだ。
舞台のうえの雪歩を見られなくなるのはつらい」そこで言葉を切って、ちょっと微笑んだ。
「でも、それだけだ」
「それ、だけ?」
「そう。寂しいだけで、困ったりはしない。社長だってきっと許してくれる。俺の仕事を責めたりはしない。
だから雪歩が辞めたいなら辞めればいい。無理には引き止めない、
引退にふさわしい仕事ができるように精一杯の手配もする」
 もっとも仕事ぶりに関してはちょっと頼りないかもしれないけどな、それくらいは我慢してくれよ。
笑って冗談を付け足して、心中、苦笑した。
事務所の看板アイドルの引退を、引き止めるどころか促している。
聞きようによっては今の問答はそれに近い。社長が聞いたら真っ青になるだろう。
 でも、それでいい。
「ただ、辞めるなら理由だけは聞かせて欲しい。俺のお願いはそれだけだ」
「プロデューサーは、優しいですね」
 うつむいた雪歩に、彼は笑いで答えた。
「そうでもないさ。なにしろ私欲がないわけじゃない」
「え?」
「だって、雪歩がアイドルを辞めたら」と彼は頬を撫でた。
「荻原雪歩は、正真正銘、俺だけのアイドルになってくれるんだからな」
 一瞬だけ呆けた顔を見せて、雪歩はふきだした。
それから彼の肩に額をあずけて、胸を拳で軽く殴った。
「馬鹿」
「知らなかったのか?」
「……知ってた」
 腕を回して、背を叩いてやった。優しく。
 色づくような秋の風が、また肌を舐めて過ぎていく。 

2.
 遅きに失した感はあるけれども、休暇を取ってよかったと彼は思った。
二人揃って丸一日のオフなんて、ここ一年間ではじめてのことだ。
といって、顔が売れているからおおっぴらにデートをするわけにもいかず、
仕方なく車を飛ばしてこの田舎の森林公園までやってきた。
ひと目がないし、なにより景色と空気に比類がない。親の仕事で各地を転々としていたころの故郷のひとつだ。
面白くもない来歴を話すと、雪歩は思いのほか喜んだ。それじゃあここはプロデューサーの育った町のひとつなんですね、と。
 歩くほどに道が狭くなるなと思っていたところ、原因は造作ではなく視界の濁りだと気づいた。
陽が傾いていた。
林のなかに暮れ残るベンチを見つけ、並んで腰掛けた途端、雪歩は言った。
わからなくなっちゃんです、と。
 相づちさえ打たなかった。話しきるまではこうして黙ってうなずいていてやろう。
それがプロデューサーとしての、男としての、試されるべき度量だと思った。
 私には華がありません。歌も上手じゃないし、話も苦手で、ダンスなんていまだに失敗するくらい。
それがこうしてアイドルを続けていられるのは、ぜんぶプロデューサーのおかげです。
でも――だから、わからなくなっちゃったんです。
 細い声は、林に吸い込まれるように消えていく。たしかに舞台のうえから聞かせるには弱すぎる声だ。
 私がアイドルをやっている意味ってなんだろうって、考えちゃうんです。
引っ込み思案も少しは治ったし、男の人とだって話せるようにはなりました。
もういちばんはじめの目的は果たしたはずなんです。いまだに握手会とかはできないけれど、もう十分なんです。
 十分なんですと言った雪歩の横顔が、けれどもまだなにも成し遂げていない子供のように、彼には見えた。
 本当に私に人気があれば頑張れると思うんです。
でもいまの人気はプロデュサーの力で、私よりも綺麗で歌もダンスもおしゃべりも上手にできるひとがたくさんいる。
私よりも花のあるひとが、たくさんいる。
桜とか薔薇とか、そういう花が似合うひとがたくさんいる。
テレビ画面や舞台に、私よりも映えるひとがいる。舞台のうえで、私よりも綺麗に咲くひとたちがいる。
だったら私はもういらないんじゃないかって。
雑草みたいな私なんかがいつまでもいたらいけないんじゃないかって。
最近、ずっとそんなことを考えて――。
 東の涯にはかつて要衝をなしたという山がある。西日に瑞々しく光るそのもみじの山が、燃えるような緋色を曳いていた。
あたかも肌という肌から深紅の火焔を噴いているようだった。
沈み往く紅蓮の落日に裾の端をかすめるその山の名を、不幸なことに彼は知らない。
「それが、理由か?」
「はい」
「なるほど」 

 悩んだわけではない。ただ言葉が見つからなかった。訂正すべきところならば山ほどある。
いまの人気は雪歩自身が勝ち取ったものだし、ステージで美しい花のように笑う魅力に気づいてもいない。
押しも押されもせぬトップアイドルとしての自信が決定的に足りていない。
 しかし、そんなことを告げたところで、どれだけの意味があるというのか。
 おもえば荻原雪歩ははじめからこういう娘だった。真実であるとはいえ、いまさらの否定の言葉で納得するようならば、
そもそもこんなに悩みはしなかっただろう。そしてまた、その程度の娘だったらあの輝かしい舞台に立つことも叶わなかったに違いない。
 自信がないからこそ頑張れた。臆病だからこそ美しく咲いた。
そして自信がない臆病な娘だからこそ、成功を信じられない。その哀しい矛盾を、彼はだれより愛しく思う。
「桜や薔薇か」と季節にない花の名を呼んで、彼はちょっと笑った。「なるほど、たしかに雪歩には似合わない花だな」
「はい」
「薔薇は――千早か伊織によく似合うかな。
真にくわえさせたらそれはそれで様になる、女の子たちが騒いで仕方なさそうだ。桜は春香だろうな。
なにしろ春の子だ。組合せは抜群だね」
「はい」
「薔薇はいい花だ。あの深紅、ほら、そこの紅葉も朱いけど、あの目を射るような紅は薔薇じゃないといけない。
鮮やかな深紅はいつだって薔薇の代名詞だ。桜は圧倒的に咲き誇る。
視界一杯を埋めて、幻想の世界に連れて行く。華やかで、綺麗だ。比べる相手さえ思い浮かばない」
「はい」
「だけどね、薔薇よりも桜よりも、美しいと思う花がある」と彼は笑った。「鮮やかさでは薔薇に譲る。綺麗かといえば桜に劣る。
でも、他のどれより美しい花を、俺は知っている」
「プロデューサー?」
「当ててごらん、雪歩。ほら、よく探せば、ここにも咲いているよ」
「ここに?」
 視線をめぐらせて、雪歩はちょっと首をかしげた。
暮れかかる林のなかで、見つかるだろうか。
視界の端に捉えた淡い色を思いながら、彼は空を見上げた。今を盛りの紅葉の匂いを運んで、秋の風がめぐっている。
錦あやなす名所だと人は言う。たしかに、木々は見事に焼けた。欅か楓か、いずれにしても目の覚めるほどの燃え様だった。
「あれ、ですか」
 おずおずと言った雪歩の声に視線を戻し、指先をたどった。
小さな、炎に落ちた空洞のように震える紫の色彩は、たしかに彼の思い浮かべた花だった。 

「そうだよ、雪歩。あれが、俺のいちばん好きな花だ。――名前を?」
「わかりません、この距離じゃあ」
「じゃあ、近寄ってみよう」
 四方を囲む無数の木々に天を占有された、陽もろくにささない小路の傍で、丈の低い花がささやか
な弁を開いていた。
「わかるかい、雪歩?」
「わかりません。でも、ちいさくて、かわいい花ですね」
「そう、かわいい花だ。名前も聞いたことはあると思う」しゃがみこんで、柔らかな花弁に触れた。
「コスモス、っていう」
「コスモス? 秋の桜って書く、あの花ですか?」
「そうだよ。語源を知ってる?」
「いいえ」
「ギリシア語だ。宇宙と一緒だよ。星が綺麗に並ぶ様をコスモと呼んだように、
花びらが整然と並ぶこの花のたたずまいを、むかしのギリシア人は、美しいと言った」
 だから、朝焼けを溶かしたような淡い紫をたたえるその花の語源は、美しいを意味するギリシア語だ。
 Kosmos, Cosmos。
 秋の桜を名乗ることを許された、美しいという洋名を持つその花の咲き方は、
だれかのあり方にひどく似ている。むかしから、ずっとそう思っていた。
「薔薇よりも淡い。桜よりもささやかだ。でもどちらにも負けない美しさがある。優しさがある。
ひとを安心させる味わいがある。俺の言葉で足りなければ、古代ギリシアが証人だ。十分だろ?」
「……プロデューサー?」
「そうだよ雪歩。――これが君の花だ」と彼は笑った。
「だれが雑草なんて言う。そんな奴は神様が許しても俺が許さない。――君は秋桜だ。派手じゃない。強くない。
だけど、人を安らがせる。道端にそっと咲く、なにより美しい花だよ」
「わ、私――」
「自信を持っていい。もちろん辞めるなら止めないよ。でも、誤解は解かなきゃ嘘だ」
「誤解?」
「舞台で君より美しく咲くアイドルなんていない。素朴で、かわいくて、素敵だ。
少なくとも、俺はだれより君を美しいと思う。そんな君が、だれより好きだ。
なのにそんな意味のない不安で辞めるというなら、それはおかしい。俺や、ファンに対する裏切りだよ」
「でも、私――わからないん、です」
「俺の言いたいことは全部言った。悩むなら悩んでいい。ゆっくり考えればいいよ。
今日は休日なんだから、たまにはのんびりするのも悪くない。――答えが出るまで、俺も一緒に待ってる。
夜は冷えるけれども、風邪を引くほどじゃないさ」
 風は冷たいけれども、気温は低くない。息が白く濁るのは、月が出てからだろう。 

3.
 なにを思い立ったのか、しばらく沈思していた雪歩がおもむろに携帯電話を取り出して、なにか操作をはじめた。
わざわざ訊ねるのも無粋だろうと思って黙っていたら、くすくすと忍び笑いが聞こえた。
「雪歩?」
「うん。――決めました」
 陽はすでに落ち、あたりは漆を撒いたような闇に包まれている。降るほどの星空を見上げて、雪歩は笑った。
「私、アイドル続けます」
「そうか」
「プロデューサーが好きって言ってくれるなら、これからも応援してくれるなら、私、もうちょっとくらいは頑張れます」
「良かった。いや、少し残念か」と彼は頬をかいた。「これでまたしばらくはプロデューサーだな」
「そうですね」と雪歩は立ち上がって、笑った。「これからもよろしくお願いしますね、プロデューサー」
「わかったよ。そうだな、じゃあ差し当たり、新曲のタイトルを決めようか」
「新曲?」
「Kosmos, Cosmos、っていうのはどうかな?」
 雪歩は空を見上げて、月光に髪を透かせた。それからこぼれるほど白い歯を見せて、笑った。
その姿が本当にコスコスの化身のように見えたとは、さすがに口が裂けても言葉にはできなかった。
「はい、私、好きです、そのタイトル」
 夜をほのかに染めるほど清廉な花弁が、風に押されてふるえていた。じきに霜が降り、冬になる。
雪も降るだろう。闇をまだらに染める、真っ白な雪が。
 それは、雪歩によく似合う。
「うん。それじゃあ、帰ろう。そろそろ冷えてきたし、お腹も減った」
「そうですね」と雪歩は隣に並びかけて、わざとらしく「あ、そういえば」と言った。
「なに?」
「プロデューサー、コスコスの花言葉、知ってますか?」
「いや、知らないな」と首をかしげてから、合点した。「さては、さっき携帯で調べてたのは、それか」 

「そうです」と雪歩はこらえきれないといわんばかりに笑い、数歩だけ先に走って振り返った。「ねえプロデューサー」
「なんだよ」
「コスモスの花言葉はね、乙女の純血、なんです」
 月光を痩身に浴びた愛しい人は、顔を真っ赤にして、それでも嬉しさを隠し切れない口調で言った。
「だからやっぱり、私、コスモスは似合いません」
「え?」
「だって私の純血、ちょっと前、もうプロデューサーに――」
「――あ」
 絶句して立ち止まった彼に小さくおじぎして、耳まで赤くしながら、雪歩はちろりと舌を出した。
「すけべ」
 細い道をとてとてと駆けていく後姿を見て、彼は苦笑した。頭をかいて、ため息を吐く。
 ……やれやれ。
「転ぶなよ!」
 精一杯の強がりを叫んだあとに、参ったなと呟きが洩れた。最後の最後ですっかりしてやられた。
夜空に咲く大輪のようなしろがねの月を見上げて自嘲する。
このぶんではどうも、アイドルマスターまでの道はまだまだ遠い。
「まあ、いいか。――遠いなら、ゆっくり歩くさ」
 なにしろ、隣には愛しいひとがいてくれる。それだけで怖いものはなにもない。
 いずれは万里の道さえも踏破できるだろう。
「一緒に行こうな、雪歩」
 振り返れば、ゆらゆらとコスモスが揺れている。

(了) 








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