無題1

作:名無し

………
今日が来た
あいつが現状を打破する為に、足りない頭を使って考え出した打開策の決行日
内容はとても単純
ロングタイムと呼ばれてる、国民的テレビ番組のオーディションを受けて、勝つ
番組の名前はなんて言ったかしら…
ま、まぁいいわ、日本のちゃっちぃ番組名なんて覚える必要ないわ
オーディションで勝つ、そんなの、私にとっては簡単な事のはずなのに
なのに、今日が来てしまった事が、酷く不機嫌に思えてしまう…

事務所のドアの前
きっと小心者のあいつの事だ、自分で作った打開策を前にして震え上がってるに違いないわ
あいつを元気づけられるのは私だけ…しっかりやるのよ私、もう勝負は始まってるのよ…
 「おはようございまーす♪」
ドアを開けて、いつもより元気に挨拶
よし、凄く自然な挨拶が出来た
 「ん、ぁ、ああ……伊織、おはよう…」
私がこの上ない元気な挨拶をすると、
椅子に座ってうなだれたあいつが、この上なく情けない挨拶を返してくれた
まったく…このダメプロデューサーは、
まだ会場に行く前だってのに、こんなにプレッシャーに潰されて…

 「諸君おはよう、そろそろ年末に向けて特別番組のオーディションが増えてくるぞ
  これをどう使うかは君達次第だが、是非とも頑張ってくれたまえ!」
社長が今日もうるさい声で挨拶してきた
…ダメプロデューサーは、社長の声が聞こえてないのか、さっきから机に倒れ込んだまま
 「ちょっとプロデューサー…」
 「あ、ああ…すまん」
私が声をかけると、今にも泣き出しそうな表情でダメプロデューサーが顔を上げた
私は「はぁ…」とため息をつくと、そいつのたるんだほっぺを、思い切りつねってやる
んにぃーー
これが漫画なら、特大の擬音文字でも出ているのだろう
それくらい力一杯つねって、引っ張ってやった
 「あ゛ーいはいいはいいはい…ごへふなはひいい」
手を放すと、べちっと、ちょっと痛そうな音が聞こえた…やりすぎたかな
 「おはよう!これで目が覚めたかしら?」
 「ぁー……はい、おはようございます、伊織様」
 「よろしい、よくできました」
やっといつものプロデューサーに戻ってきたかな…?
でも表情はまだ暗くて堅い、声も凄く震えてる
はぁ…これじゃ、どっちがプロデューサーなのかわかんないじゃないの…

オーディションは午後から
私は誰もいない応接室に一人籠もり、今日のオーディションについて思考を巡らせた
…確かにトップアイドルの一歩手前の私だけど、
この番組…長寿の上に年末のお馴染み番組じゃないの
こんなのに、はたして私なんかが出れるのかしら…
プロデューサーの話だと、私の実力ならアイドル枠に入れるらしいけど
………いけない、この感情はよくない
思考を重ねれば重ねるたびに、暗い考えばかりが増えていく
これじゃあいつと同じだ、ダメダメ…もっとポジティブに
必死にプラス思考になるよう、暗示をかけていると
それを邪魔するかのように、プロデューサーが応接室に入ってきた
本当、間が悪い奴…

 「で、なに?」
私はプロデューサーに不機嫌な視線を送る
……なんで、プロデューサーにきつく当たってるんだろう、私…
 「い、いや……オーディションの注意点とか」
その視線に怖じ気づいたのか、弱気なプロデューサーはもっと弱気な声でしゃべり出す
 「きょ、今日はな、ビジュアルが流行らしいんだ
  だからビジュアル路線で攻めて…」
はぁ…まったく、このダメプロデューサーは
そんな初歩的な事、私だってわかってるっての…
そうじゃないでしょ、こういう時はお互いに元気づけ合うのが先でしょうに…
 「あのねプロデューサー、流行も私のイメージも私の実力も、
全部勝てる条件に当てはまってるの
 それを一番よく理解してるのはあんたでしょ?
勝てるってわかってるのに、なんでそんなに弱気なのよ!」
ああ…またこの感情だ
心が何かを求めていて、でもそれを求めるのはなんだか腹立たしくて…
なんだろう、このうねうねした嫌な気持ち
プロデューサーに必要なのは優しい言葉なのに、
私の口からはデリカシーのない言葉が溢れていく
これじゃ逆効果じゃないのよ…何やってんのよ私 


結局、プロデューサーのテンションは回復する事なく、オーディション会場まで来てしまった
周りには有名なアイドルばかり、私でもこのオーディションのレベルが高い事はすぐわかる
勝つための思考を巡らせると、その勝率の低さに震えが止まらなくなる
初めて感じるオーディションの怖さ、今の私はきっと泣き出しそうな顔をしている…
いけない…ダメプロデューサーの変わりに、私だけでも元気を出さないと
きっとこいつは、私よりももっと難しく考えてるんだろう…表情がどんどん堅くなっていく
私がプロデューサーの顔を覗き込むと、それに気付いて作り笑いを返してくれた
はぁ…私の事より自分を優先しなさいよね
 「な、なぁ伊織」
 「なに?」
私はもう一度プロデューサーの顔を見る

…え?……

我が目を疑う
それは、凄く懐かしい顔
何度も何度も見慣れた、優しい表情
さっきまで、あんなにも怯えていたプロデューサーが
兄のような、強く、優しく、そして大人びた余裕のある笑顔を見せてくれたからだ
プロデューサーは私の頬に、そっと手を伸ばす
そして、いつか兄がしてくれたように、優しく撫でてくれた
 「大丈夫、俺がついてる」
あいつの口からこぼれる言葉は、いつもと同じ何の根拠もない安請け合い
なのに、何故か私の目からは涙がこぼれる

ああ、またこの感情だ
心が何かを求めていて、でもそれを求めるのはなんだか腹立たしい
でも、今のプロデューサーを見ていると、その腹立たしさは少しずつ消えていく

次の瞬間
私の体は、自然とプロデューサーを抱きしめていた
 「い、伊織…?」
私はプロデューサーの顔を見上げる
もう、兄のような表情ではなく、そこにはいつもの間抜けなプロデューサーがいた
でもそんな事はどうでもいい
この感情が、どんどん満たされるのがわかる
プロデューサーの暖かさ
プロデューサーの柔らかさ
プロデューサーの甘い香り
すべてが私を満たしてくれている
きっと、今の私は今までで一番、幸せな顔をしているのだろう
そんな私を見て、プロデューサーは優しく私の頭を撫でてくれる
その感触、温もり、優しさが、私の心を満たし、どこまでも優しい気持ちにしてくれる

……そうか、私は甘えたかったんだ…



結果、本調子を取り戻した私達は、圧倒的な差で勝利した
私はプロデューサーが運転する車の中で、ふとあの時の疑問をぶつけてみる

 「プロデューサー?あんた、ずっと緊張しっぱなしだったわよね
  なんであの時、急に余裕見せつけてくれちゃったわけ?
  いつものあんたなら、そんな余裕ないはずなのに」
 「あはは、うん…
  あの時初めて震え上がってる伊織を見て、怖いのは俺だけじゃないんだってわかったら
  なんか守ってあげたくなってな」
 「ぷっ…ふふふ、あんたってホントむっかつく奴ね〜
  いいわ〜、あんたは今日で下僕卒業!
  明日からは私の兄代理にしてあげる♪
  これからも、私の為にきりきり働くのよ〜、にひひっ」

うん、こういうのも悪くない 



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