Fool On The Planet

作:名無し

 風が吹いた。
 いつの間にか秋も過ぎ、夜空は透明度を増しながら冷たく、鋭くなっていく。
 律子は懐かしむような視線を冬の星座に向けた後、自分が登ってきた道を振り返った。
 都心からやや離れた場所に造られた住宅街の一角、丘の上に律子と彼は居た。
 つい数時間前に、ここから程近い集合型文化施設の大ホールでライブを終えたばかり。
体にはまだ、興奮の余韻が残っている。
 明日以降の予定を考えたささやかな打ち上げを終えた後で、
二人は散歩がてら丘を登ってみる事にした。
 律子のプロデューサーを務めている彼も、
どこか懐かしげな表情をしながら辺りを見回している。それは、
いつか映画か何かで見た風景に似ているような気がしていた。遠くまで広がる視界、
見慣れない街並み、低く飛ぶ飛行機。何故か胸が高鳴るような感覚さえあった。
 ひと回り視線を巡らせた後で、彼は小さな広場に設えたベンチに座って
煙草をふかしながら風景を楽しむ。
 律子はと言えば丘の縁に立って、やはり同じ様に景色を眺めている。
「落ちるなよー」
「む。そんなにドジじゃありませんよ」
 分かってはいても、声を掛けずにはいられない。丘とは言ってもそれなりに急な勾配に
なっているし、頂上を切り取って小さな広場にしているような形になっているので足を
踏み外せば怪我もしかねない。何より、今日の律子はいつもとは違って見えていた。
どこか所在無げな、戸惑っているような。言ってしまえば、不安を抱えているのを
隠しきれていない様な。
 普段のような、誰からも――プロデューサーからも頼りにされる、
そんな律子ではないと思えた。
 風が吹いた。
 さっきよりも少し冷たく、体温を奪う風。
 律子は自分を抱きかかえるように、腕を体に回した。
「冷えるな。季節が変わるのは早いもんだ」
「そうですね。一応最低気温は確認したんだけどな」
「風邪引く前に下りようか」
「……いえ……もうちょっと、いましょう」
「ん」
 彼は風下を選びながら、律子の側へと向かう。そして、律子の肩越しに街を見下ろす。
薄紫の煙は律子の反対側へ流れ、やがて風に同化していく。
 飛行機がゆっくりと視界を横切るのを眺めながら、
「今日のライブ……成功でしたよね?」
律子はそう切り出した。
「もちろん。すごい歓声だったろう?」
 律子の問いかけに、柔らかな笑みを浮かべて彼は答える。
「ふふっ、そうですね。でも、なんだか……ちょっと場違いな気もして」
「場違い……?」
 消え入りそうなその一言の後、言葉が途切れた。 

 遠くから聞こえる、風に揺れる木々の音。相似形の家々に宿る灯り。そして、
視界の遥か向こう、低く飛ぶ飛行機。時間が、刻まれる事なく、
ただゆっくりとなだらかに流れて行く。
「ふぅ」
「疲れたか?」
「……はい……少し」
「そうか。明日は夕方から撮りがあるだけだからな。少しはゆっくりできるだろう。
なんなら、昼過ぎまで寝ておけ」
 彼は胸にざわつきを感じながら、そんな事を言ってみる。午前中いっぱいを
睡眠に費やすなど、律子なら絶対にしないと思っているのに。
「ゆっくりなんて……でも、そうですね。最近は特に忙しくなりましたよね。
ちゃんと寝ておかなくっちゃ」
「……?」
 場違い。疲れ。眠り。一つ一つの言葉が、何故かどうしても引っ掛かる。
「……律子」
「はい」
「……」
「……」
 彼の感じる引っ掛かりが漠然としたものなだけに、何を喋れとは言えない。それでも。
 上手くは言えないし、そんな自信もない。だから、
「今、何を考えてる?」
こう聞くしかない。
「……」
「……」
 沈黙が、緩やかに流れる風に揺れていた。
 何度も顔を上げてはまた少し俯く律子の次の言葉を、彼はただひたすらに待っていた。
促そうとして適当な言葉を挟んでも、勝気な律子は頑なになってしまうに決まっている。
 煙草は根元まで灰になっていた。彼はそれを携帯用の吸殻入れにねじ込む。
 ただ、待った。やがて。
「……ここまで、順調でしたよね?」
「……そうだな」
 遠い、遠い思い出を振り返るように律子は呟いた。
「僅か半年とちょっと。あの規模のホールでライブ。なんだか、出来過ぎです」
「そうか? 律子が思っていたよりも早かったか?」
「早いですよ」
「そうか」
 吹く風に、少しの穏やかさが混じった気がする。その風が、律子の言葉を促した。
「あっという間にここまで来て……それで、自分を見直してみて。
……私はあの舞台に立てる程すごいアイドルなのかなって」
「……」
「出会った頃に、聞きましたよね? 何で、私をって。私より可愛い子も、
歌が上手い子も、ダンスが上手な子もいるのに……」
「……」
「どうしてかなって」
 彼は目を閉じた。そして、納得したように頷く。
 人気が出るにつれ、そして求められるレベルが上がるにつれ。それに応える努力を律子は
怠らないだろうが、それだけに不安があるのだろう。
 ――いつか、応えられなくなる日が来るのではないかと。 

「……可愛いとか、歌が上手いとか、ダンスが上手とか、それは武器にはなるだろうが、
それだけではやっていけないだろう?」
「……」
「秋月律子となら、やっていけると思ったんだよ。きっと上手くいくと思ったし、
今でも間違ってなかったと思ってる」
「理由になってないと思います」
「訊かれても困るな。勘と言っても良いけど……うーん」
 彼は言葉に詰まってしまう。
 不器用な彼が、言葉を選んでいるのが分かる。だから、今度は律子が待つ番だった。
「……予感、かな」
「予感……」
 プロフィールの写真を見た瞬間。声を聞いたその時。初めてのレッスン。
彼はその全てのシーンを思い返す。その時抱いた、確信にも似た感覚。
「そう。一緒に歩いて行けるっていう、そんな」
 何故か、など。誰かが答えてくれるのなら、彼が一番聞きたいのかもしれない。
「うーん。そういう勘っていうか、直感みたいなもの……信じないわけじゃないですけど。
でも私は、やっぱり私がアイドルに向いているとは、今でも思ってないです。
場違いっていうのはそういうことで。でも、もちろん全力は尽くしますけど」
 納得のいく答えではなかったのか、律子は少し早口に言葉を継いだ。
まるで、誰かを説得するように。
「結果論のようで悪いが、律子はアイドルに向いてると思うぞ。
でなければ、あそこには立てない」
 それを打ち消すように、彼は応える。
「ハッタリが効いてますからね」
「裏付けもあるのさ。まだまだ、律子は伸びる」
「本当に、そう思いますか? もっと、上を狙えると?」
「もちろん」
 はっきりと分かる様に、彼は大きく頷きながら答えた。何故か自信に満ちた、
プロデューサーの顔。
 視界の向こう、低い位置を、ここに来てから何機目かの飛行機が横切っていく。
「信じられないか?」
「少ししか。やっぱり、根拠がないと」
「根拠は作るのさ。その為に俺は居るし……律子は応えてくれると思ってる」
「……」
 律子は横目で彼の表情を窺った。冗談やハッタリの類ではなく、彼はどこまでも本気に見えた。
出逢った時には頼りなさげに見えたその顔は、今では一端のプロデューサーのそれになっていた。
 今まで幾度となく律子を励ましてきた彼の声が響く。
「それにな、向いているかどうかはともかく、いつだって……何か想いを描いた時、
それを叶えるのは……」
 吹く風は、更に穏やかになって。心の奥を優しく撫でる。
 触れていなくても伝わる暖かさは、歩き続ける力をくれる。
「最後まで、それを信じ続ける事ができた人だけ、ですからね」
 律子は一歩踏み出した。挫けかけた心に、少しだけ力を込めて。 

「そうだ。俺は描いたぞ。もっと大きなステージに立つ、律子の姿を」
 その言葉を聞いた律子は、今度は振り向いてプロデューサーの顔を見た。
そしてほんの少しの間、目と目を合わせると納得したような表情をしてまた風景へと視線を戻す。
 彼は、信じているのだ。見えている、と言ってもいい。
 予感――きっと、うまくいく。
 漠然とした楽観論ではなく。その風景を現実のものにする為に、彼は努力を惜しまない。
律子と同じだけ、いや、おそらくそれ以上の時間を使うことも厭うことはなく。
 だから――。
 もっと頼ってくれていいのだと。
 彼の瞳は、そう言っている。
 律子は空を見上げた。もう、寒くはない。
 いつだって、どんな時だって。少しいい加減にも見えるこのプロデューサーは、
律子を支えてくれていた。そんな当たり前の事が感じられなくなるほど、
何故自分は不安を抱えていたのだろう。
 オーディションに勝ち残った、彼女の歌を聞いたから?
 あの日テレビで流れた、恐ろしく切れのあるダンスを見たから?
「ふふっ」
 律子は思わず笑みを漏らしていた。
 そう。
 そんな時、いつだって二人で探し出した。
 次に何をするべきか。どうすればいいのか。
 根拠なんて――。
 敢えて言うなら、この積み重ねた時間。彼と共に積み重ねた全て。
これが信じられないなんてこと、有る筈ない。
「そうですよね。足りないなら補えばいいんだし、いっそ作っちゃえばいいんです」
「ああ、そうだ」
 彼は少し微笑んでいた。
「うん、よし」
 律子は脇を締めるようにして遠慮がちなガッツポーズを取ると、
視線は遠くへと預けたまま、
「私は、プロデューサーを信頼してますから。だから、その言葉も信じます」
「ん」
 彼は短く応える。
「……な、なんですかぁ」
「あ……いや」
 少し拗ねたような律子の声に、彼は思わず苦笑していた。 

「なんだか、嬉しいもんだなと思って。
そうやってはっきりと『信頼してます』なんて言われるの」
「う。と、とにかく! 大風呂敷広げるからには、ちゃんとプランを練らないと。
プロデューサーが想い描いたステージはかなり大きそうだからなぁ。そういうところ、
考えてます?」
「ああ」
「ほんとかなぁ。あとは……レッスンのスケジュールか。
最近の傾向だとライブに向けてダンスレッスンが多かったから……」
「そのフォローは考えてるが?」
「そうですかぁ?」
「ははっ、もちろん。これでも、秋月律子のプロデューサーだからな」
「ふふふっ」
 彼は一歩前に出ると、律子の隣に立って視線を飛ばす。
 律子はプロデューサーの横顔を見上げたあと、同じ方向へと視線を向けた。
 同じ場所を目指しているなら。
 同じ物を見ているなら。
 二人はきっと、もっと、高く飛ぶことができる。
「ふふっ」
「どうした?」
「いつも、そのくらい真面目な顔ならいいんですけどね」
 笑みを浮かべたまま、律子はくるりと回れ右して見せた。
「さあ、行きましょう。まだまだ、休んでなんていられないんですから」
「はいはい」
 律子を追いかけようとした時、目の端に残る風景の中、遥か彼方を飛行機が横切っていた。
彼はそれを目で追ってしまう。
「プロデューサー! 何してるんですか! 明日、少しはゆっくりできるからって、
いつまでも寝てたりしないで下さいよ!」
 数歩先にいる律子が振り向きながら、いつもの調子で小言じみた事を言った。
眼鏡の向こうから、少し優しげな瞳を見せて。
「分かってるよ」
 彼は安心したような微笑みを浮かべ、二、三歩走って律子の横につく。
 目指す場所が遠くても。
 それが困難な道のりでも。
 遥か視界の向こう、描いた未来に向かって歩いていく。
 きっと、二人並んで。 







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