元気のミナモト

作:愚民

ボクは765プロのプロデューサー。
と言ってもこの業界じゃ、ド新人もいいとこだけど……。
ボクは今、テレビ局の廊下を全力疾走している。ボクの前には、ジャージ姿の女の子が1人。
これまた、全力疾走中だ。ボクらが目指すは、オーディション控室。
情けないけど、これがボクのプロデューサー初仕事だった……。

バタ〜ン!!

 突然、大きな音を立てて控室のドアが開き、ジャージ姿の女の子と背広姿のボクが駆け込んで来ると、
その場にいた審査員以下、全ての人が驚いた表情で、息も絶え絶えの2人に注目していた。

「ハァ、ハァ、す、すいません…遅くなりました……。あ、天海…春香です。」 


 審査員に深々とおじぎをしていた彼女が、顔を上げると同時に、周囲から驚きの声が漏れる。
そう…ボクが走らせていたのは、あのスーパーアイドル天海春香だった。
かつて如月千早、星井美希らとユニットを組み、コンサート・ツアーで全国のドームを
全て超満員にするという、とんでもない快挙を成し遂げた、伝説のユニットの1人。

本来なら、オーディションを受けるまでもなく、逆に出演オファーを受けるべき、人気と実力を兼ね備えた
ランクSアイドルの出現に、当初は他の出場者同様、あっけにとられていた審査員だったが、
すぐさま我に返ると、時計を見ながら静かに話し始めた。

「ギリギリだけど、一応セーフってとこね。
それじゃ天海さん、全員を代表して何か一言、言ってもらおうかしら!?」
「は、はい!」 

 すると春香さんは、1回大きく深呼吸をするとピシッと背筋を伸ばし、その瞳でまっすぐ審査員を
見据えると、堂々とこう言った。

「今日は、絶対勝ちます!!」

 その視線には、刺すような鋭さは無いが、びくともしない強い意志と自信が秘められていた。
しかし、その程度で怯むような審査員でもなく、そんな視線をサラリと受け流すかのように
少しだけ微笑むと

「はい、良く出来ました。それじゃ、会場まで全力疾走…は、もう誰かさんが
やっちゃったので、今日は歩いて行きましょう。」

 そう言うと席を立ち、それに合わせてボクらも、オーディション会場へと向かった。
オーディションでは、春香さんは先ほどの全力疾走をものともせず、トップアイドルが持つ
圧倒的な歌唱力と、群を抜く表現力で、審査員のみならず、他の出場者すら魅了してしまった。
結果、オーディションは合格!内心ヒヤヒヤものだったボクは、そっと胸を撫で下ろし
その後、ボク達は事務所へと向かっていた。 


「春香さん、今日は本っ当に、すいませんでした!!
道に迷って、遅刻ギリギリに着くなんて……。ボクのミスです!」
「い、いえっ、いいんですよ。何度も通って知っている私の方こそ、
もっと早く気付いていれば良かったんです。」
「で、でも、オーディション寸前まで、全力疾走させちゃいましたし…。」
「あれ、あの審査員さん、よくやるんですよ。
それにライブで、3曲連続で歌い続ける事を考えたら、少しくらい走ったって平気ですよ。」

 逆に春香さんに気を遣われ、ボクは恐縮しつつも内心ホッとしていた。
しかし、事務所に帰ったボクらを待っていたのは、オニよりも怖いお説教だった。

「あんたたち!!何やってたの〜〜!!!」

 広いフロアに響き渡る怒鳴り声。その場にいた全員が注目する中、
ボクと春香さんは直立不動のまま、お説教を受けていた。
怒鳴っているのは、秋月律子女史。アイドルとプロデュサーを掛け持ち、
さらにボクの研修指導をも受け持つ、怒るとこわ〜い人だ。 


「あんた遅刻しかけて、オーディション前のアイドルを全力疾走させるたぁ、どういう了見よ!!」

 律子さんはどこから出したのか、ハリセンをボクに突きつけると
ジロリと睨みつけた。

「な、何で、それを……。」
「うちらが、別のオーディションで同じテレビ局にいたのに、知らないわけないでしょうが〜!!」
「す、すいませ〜ん…。」

 律子さんは、この度双子として再デビューした双海亜美・真美とユニットを組みつつ
そのプロデュースも兼ねるという、プレーイング・マネージャーとしての、活動を開始したばかりだった。
彼女らが活動休止している期間は、ボクと組んで春香さんのプロデュースを手伝ってくれていてたが、
彼女らが活動再開するのを機に、そちらに専念する事となり、ボクも晴れて独り立ちとなった。
もっともその矢先、ボクは今日の失態をしでかしてしまったのだが…。 


「あ、あの…律子さん、もうそのくらいで……。」
「あんたもよ、春香!」

 律子さんの怒りの矛先は、今度は春香さんに向いた。
ついさっき、審査員と互角に渡り合っていた、あの春香さんが
今は律子さんに睨まれて、ボクの隣で小さくなっている。

「あんたもプロなんだから、あの状況で転んだりしたら、何にもならない事くらい、
わかってるでしょ!!」
「は、はい〜…。すいません〜……。」

「まぁまぁ、律子。その位で勘弁してやれって…。」

 無限に続くかと思われたお説教を止めてくれたのは、765プロ古参のプロデューサーの1人だった。
かつて、春香さんと律子さん、それに萩原雪歩さんの3人ユニットをプロデュースし、
現在はプロデュースを、律子さんのサポートという形で担当している、
律子さんが唯一頭の上がらないプロデューサーである。 


「もう充分こいつらも懲りただろうし、なにより、一番マズイのは遅刻とドタキャンだしな。」
「でも、プロデューサー!!」
「まぁ、そんなにとんがるなって。律子も、明日はTV出演だろ。
あんまり怒鳴ると明日に響いて、亜美・真美にダメ出しくらっちゃうぜ。
とりあえず、新人は今日中に始末書と報告書、春香はこの後、苦手なダンス・レッスン。
こんなのでどうだ!?」

「もぅ…、わかりました。今回はプロデューサーの顔を立てておきます。」
「よし、一件落着っと。じゃ、お前はデスク、春香はオレとレッスン場な。」

「「はい、ご心配お掛けしました。」」

 ボクらはそれぞれに、深々と頭を下げると、ボクはデスクへ、
春香さんはプロデューサーの後を追って歩き出した。

 と、次の瞬間、何もないフロアで春香さんは急にバランスを崩し、
つんのめるようにその場にダイブしかけた。

「あぶないっ!!」
「おぉっと!」

 ボクが手を出すより早く、春香さんの体を支えたのは、先輩プロデューサーの大きな腕だった。
春香さんはまるで、抱き合うかのような格好で先輩プロデューサーの胸に飛び込み、
一瞬の間の後、その顔を真っ赤にして、その腕の中から離れた。 


「す、すいません、プロデューサーさん…。」
「昔からお前は、何もない場所でよく転ぶよなぁ。これだから、律子が心配するんだぞ。」
「そ、そんなこと無いです。最近は気を付けてるから、あんまり……。」
「じゃあ、ひょっとして疲れているのか!?だったら、レッスンは中止だな
仕事も終わったし、これから送って行ってやるよ。律子、それでいいか!?」

「私は亜美・真美で精一杯ですから、そっちの新人に聞いて下さ〜い。」
「おいおい……。じゃあ新人、これで帰すぞ。」
「あっ!じゃあ、ボクが送って…。」
「あんたは、始末書があるでしょ!!それじゃ、お願いしま〜す。」

 律子さんは、片手でハリセンをボクの喉に押しつけると同時に、もう一方の手を
天使のような笑顔で、ヒラヒラさせていた。

「それじゃ、律子さん、プロデューサーさん、お疲れ様でした。失礼します。」

 そう言うと、春香さんはペコリと頭を下げ、先輩プロデューサーの後を追って行った。
そんな様子を見送りながら、律子さんは何やらポツリと呟いていた。

「やっぱ、あの人だと気が緩んじゃうのかねぇ。フフ……。」 


 それから、ボクは律子さんのハリセンの洗礼を幾度か受けながら、
何とか始末書と報告書を完成させた。
その後自宅に帰り、シャワーを浴びた時点でもうクタクタ。そのままベッドに倒れ込み、
朝まで...とはいかなかった。
体は疲れていても、頭の中は今日の出来事で一杯。イヤでも思い出してしまう。

(あ〜、最初から、やっちゃったなぁ。どうしよう……。)

 今回は何とか無事に収まったものの、もし何かあったら……。
落ち込んだときに考え込むと、どんどん考えがネガティブになっていく。
と、その時、携帯がメールを着信した。
ノロノロと起き上がり開いてみると、それは春香さんからのメールだった。 


♪ 悩んでもしかたない
  ま、そんな 時もあるさ あしたは違うさ
  ググってもしかたない
  迷わずに 進めよ 行けばわかるのさ
  ヘコんじゃったときは
  一発 泣いて そして 復活するのさ
  そんでもダメなら
  シャワー 浴びて そのまま爆睡するのさ

 中身は、『ポジティブ!』の一節が書いてあるだけだった。
しかしそれを読んだ途端、何だか急に肩の力が抜けてしまった。

(そうだよな。考えたって元には戻せない。
それなら、2度と同じミスを繰り返さなければいい。)

 そう考えると急にスッキリとした気分になり、ボクは目覚ましをセットすると、再びベッドに転がった。
すると、今までの悩みはどこへやら。部屋の灯りも消さないまま、
あっという間にボクは、眠りに落ちて行った。


 朝の光が差し込む寝室で、ボクは誰かに起こされてれいた。
そっと目を開けると、そこにはエプロン姿も初々しい春香さんが…。
春香さんはボクが半分目覚めているのを知ってか知らずか、ボクにそっと顔を寄せると
耳元で何かを囁き始めた。

「Pi Pi Pi・Pi Pi Pi・Pi Pi Pi……」

「春香さん…それじゃまるで、目覚まし時計のアラームだよ。…時計?…アラーム?
うわ〜〜っ!!」

 ボクは声を上げながら夢から覚めると、傍らの目覚まし時計を睨みつけた。

「ヤ、ヤバイ!こりゃ、急がないと遅刻だ!」

 大急ぎで身支度を整えると、ダッシュで駅へと向かう。今日もまた、全力疾走で1日が始まるんだ。 


 あの一件のあった翌日から、ボクは気持ちも新たに春香さんとの活動を開始した。
そこで驚いたのは、昨日の一件を、それこそ、局のADや大道具さんから、
他所のプロダクションのプロデューサーまで、大袈裟でなく、出会った業界関係者のほとんどに
筒抜けだった事だ。

「“転びの春香ちゃん”が、転ばずに合格したんだって!?」
「今度のプロデューサーは、“転びの春香”を走らせるなんて、度胸あるねぇ!」

 “転びの春香”とは、新人時代から続いている、春香さんの業界内の愛称で
新人の頃、何もない所でよく転んだせいで、いくつものセットや、機材が
その犠牲になったそうだ。
それに呆れた大道具さん達、現場の人達が言い始めたのが、きっかけで
当初は愛称ではなく、トラブルメーカーの別称だったらしい。

 もっとも、その度に、後日手作りのお菓子などを持って、お詫びに行った事で、逆にその誠実さを認められ、
今では、多くのエピソードと共に、愛称として通用している辺りが、何とも春香さんらしい。 


 その後しばらく、ボク達は出会う業界関係者のほとんどに、そんな風に冷やかされ続けた。
しかし、この一件のおかげで、ボクがこの業界にスンナリと受け入れられたと共に
“天海春香の、今度のプロデューサーは面白そうだ”と、今までにない企画や仕事が、
持ち込まれるようになり、春香さんの新しい魅力を引き出すきっかけになったのは、嬉しい誤算だった。

 当然、それらもすんなりと行ったわけではなく、その陰にはそれ相応の努力もあったのだが、
それを文字通り、春香さんと二人三脚でこなして行ったことで、ボク達の評価
(と言うか、春香さんはすでにトップクラスだけど)も、少しずつ上がって行った。

 あれから数ヶ月。ボクも何とか様になって来たように思えるんだが
相変わらず律子さんには、未だに思いっきりダメ出しをされてしまう…。 


 そんなある日の事、テレビ番組の収録を終えた後、ボクは楽屋前の廊下で、春香さんの着替えが終わるのを
待っていた。すると、何やら声を荒げている男の声が、どこからか聞こえて来た。

「まったくお前ってやつは、受けるオーディションに、片っ端から落ちやがって!」
「だって、しょうがないですよ。みんな私より上手なんですから…。」

 どうやら隣の楽屋で、他所のプロデューサーがアイドルを叱り始めた様子が、
閉まりきっていないドアの隙間から、漏れ聞こえているようだった。

「人のせいにするな!そもそも、しょっぱなからあの、天海春香なんかに負けやがって!
あんな如月千早と、星井美希の、尻馬に乗って売れただけのヤツなんかに!!」
「でも…オーディションの天海さんはすごかったですよ。」
「そりゃ、あの2人と一緒に歌ってたんだ。多少は上手くなったんだろうよ!
まぁオマケでも何でも、この世界、売れたもん勝ちだからな……。」

 どうやら、以前オーディションに落ちた腹いせに、春香さんの事を引き合いに出して、
アイドルに八つ当たりしているだけらしい。
それだけでもプロデュースする側としては、充分失格モノなのだが、
時と場所を考えないばかりか、最初に人のせいにするなと言いながら、
その後春香さんを引き合いに出す時点で、屁理屈にもなっていなかった。 


 しかし、春香さんにこれを聞かれたら、気を悪くしないはずはない。
案の定、しばらくして楽屋のドアがソロソロと開き、中から困ったような表情の
春香さんが顔を出した。

「プロデューサーさん、あの…お待たせしました。」
「い、いえ!じゃあ、行きましょうか。」

 やはり、春香さんにも聞こえていたようだ。
ボク達は足早に廊下を駆け抜け、うまい具合にやって来たエレベーターに飛び乗った。
そのエレベーターには、ボク達しか乗っておらず、お互いしばらく無言のまま
表示される階の数字を眺めていた。

 本来なら、この変な空気を何とかするのがプロデューサーの役目なんだろうが
何て話し掛ければ良いのか、さっぱり浮かんで来ない。
それでもあれこれ考えるうち、なぜか、この状況が妙におかしく思えるようになって来た。
チラリと、春香さんを見てみると、何となく口元に、不自然に力が入っているように見える。 


 やがてエレベーターは地下駐車場に着き、ボク達は駐めてあったクルマに向かった。
お互いにずっと笑いを我慢しているせいか、ボク達はだんだんと早足になり
それが、さらにおかしさを加速させ、ようやくクルマに乗り込んだ瞬間、
ついに我慢できなくなり、ボク達は、どちらともなく吹き出してしまった。

「アハハ…プ、プロデューサーさん!…な、何で、私達が、は、早足で…。」
「そ、そう言う、ハハハ…は、春香さんだって……一緒になって…アハハ。」

 ひとしきり笑い合ったおかげで、何とか気を落ち着けられたボクは、
ひとまずクルマを出した後、後ろに座った春香さんに話しかけた。

「何で、ボク達のほうが、コソコソしちゃったんでしょうね!?」
「そうですね。悪口言われたのは、こっちなのに…ウフフ。」
「やっぱり……、聞こえてました!?」
「えぇ、前はそれこそ、良く耳にしてましたし、これでも結構気にしてたんですよ。」
「えっ!?あ、あの…すいません……。」
「プロデューサーさんのせいじゃないですよ。それに、もう気にしてませんから。」

 春香さんは、そう言うとリアシートから身を乗り出し、ボクの肩越しにこう言った。

「それ、何でか、知りたいですか!?」
「は、はい!是非聞かせて下さい。」 


突然、耳元に感じる春香さんの息づかいに、ボクはドギマギしながら、こう答えた。

「ウフフ、じゃあ、何か飲み物おごって下さい。笑ったら、のど乾いちゃいました。」

 ボクはしばらくクルマを走らせ、途中の海沿いにある公園の駐車場に駐めると、
自販機からジュースを買い、1本を春香さんに手渡した。
春香さんは、おいしそうに一口それを飲んだ後、静かに話し始めた。

「プロデューサーさんは、どうして、このお仕事を選ばれたんですか!?」
「それは……実はボク…、アイドルおたくだったんで……その…
趣味と実益を兼ねてと言うか……。」

 いきなりの質問(しかも、結構恥ずかしい)をされて、モジモジするボクを見て
クスリと笑った春香さんは、その後を続けた。

「じゃあ、さっきの楽屋のアレは、わかりますよね。」
「は、はぁ……。」 


「昔、千早ちゃんや美希と、ユニットを組んだばかりの頃は、私ってコンプレックスの塊だったんです。
ほら、千早ちゃんは歌が上手いし、美希はスタイル抜群で、2人共目立っちゃうし…。
そんな2人に囲まれて、『何で私なんかが、この2人と組まされちゃったんだろう!?
2人の引き立て役くらいにしか、ならないのにな。』って思ってたんです。」

「そ、そんな事、無いです。春香さんは、前から歌も上手いし、じゅ、充分キレイです。」

 思わず、ボクはそう言ってしまった。すると、春香さんはニッコリと笑いながら
話の続きをしゃべり始めた。

「そんなある日、ある人が、こう言ってくれたんです。
『春香はいったい誰になりたいんだ!?千早や美希のコピーを目指しているのか!?
お前の目指しているものを思い出せ!』って。

「そうしたら、夢を見たんです。ずっと昔、近所の公園で歌の上手なお姉さんと、一緒に歌ったときの事。
その頃、うちは引っ越したばっかりで、私、なかなかお友達を作れなかったんですが
お姉さんに誘われて一緒に歌った後で、みんな喜んで、すごく拍手してくれて
そのおかげで、みんなと仲良くなれて…。
歌が私だけじゃなく、みんなをこんなに幸せに、元気にしてくれる。
そんな歌を歌えるようになりたいな…。
それが、私がアイドルになりたいって思い始めたきっかけだったなぁって。
そうしたら、思い出せたんです。私が目指すものを。」 


「私の歌で、誰かが少しでも幸せになれたら、最高です……。」

ボクは思わず、こうつぶやいていた。この言葉こそ、ボクがこの道を目指す
きっかけになった言葉だった。

「そう、それ!!……って、あれ?何でプロデューサーさんが、知っているんです!?」

「ボクが春香さんのコンサートで聞いた…。この仕事を選ぶきっかけになった、大切な言葉です。」

 突然のボクの言葉に、びっくりしていた春香さんは、その理由を聞くと、
少し照れたような笑いを浮かべながらも、再び話の続きをしゃべり始めた。

「私達のラスト・コンサートの前夜、千早ちゃんと美希が、こう言ってくれたんです。
『どんなに苦しい時でもニコニコ笑って、私達をずっと支えてくれてたのは、春香だった。
春香が、私達に元気を分けてくれていたんだよ。ありがとう。』って。」

「その後で、『だけど、このままじゃ何だかクヤシイから、これからも春香との勝負は続けていくつもりだよ。
これからも私達3人はずっとライバルで、親友だから。』
って言われて、私とっても嬉しかったんです。

 だから、私達はまだまだ、勝負の真っ最中なんです。
私がソロになっても、新人さんと同じオーディションを受けるのは、
海外で新たに頑張ってる2人に、負けたくないからかも知れませんね。ウフフ。」 


その時のボクは、春香さんとボクが、似たような原体験でこの道を目指すようになった事を知り
今まで以上に親近感を感じていた。

「ボクは765プロに入って、初めて春香さんの担当になれるって聞かされた時、
実はすごく驚いて…でも、すごく嬉しかったんです。このボクが春香さんの手助けができるって…。
ヘヘヘ…と言っても、まだまだ半人前ですけどね。」

「でも、もっともっとボクも頑張ります。
こうなったら、ユニットとソロで、ランクSのダブル・タイトルを取ってやりましょう!!」

 ボクは感極まって、最後の方は涙声になっていた。
そんなボクを、春香さんは黙って微笑みながら、そっとハンカチでボクの涙を拭ってくれた。

 その夜...、春香さんに涙を拭われながら、ボクは、春香さんに恋をしている事を確信したのだった。


 深夜の事務所で、ボクは1人でパソコンに向かっていた。
こうしていると、普段の忙しさに紛れて忘れていられる、日に日に膨らんで行く春香さんへの想いと、
それとは正反対の位置にある、プロデューサーとしての職務の狭間について
イヤでも考えさせられてしまう。特に、こんな企画書を目の前にしてしまうと…。

モニターに表示された企画書には、『天海春香 ラスト・コンサート』の文字が…。

 あれからもう1年…。ついにこの日がやって来ようとしていた。 


「プロデューサーさん…。」

 それは、その日の仕事を終えた後の、クルマの中だった。
いつも陽気な春香さんが、妙に神妙な面持ちで、ボクに話し掛けて来たのだった。

「あ、ハイ!何でしょう?」
「プロデューサーさん…。最近、お疲れなんじゃないですか?」
「えっ!?まぁ疲れてないとは言えないですけど。でも、いつもの事ですよ。
それにしても、よくわかりましたね。そんなに、わかっちゃいます?」
「いえ…その、お疲れと言うか、今日も舞台袖で何か考えていらっしゃったみたいで…。
あっ!その、ひょっとしてプライベートな事でしたら、あの…ごめんなさいっ!」
「いっいえ、とんでもない!そ、そうじゃないです!!」

 あろうことか、舞台袖でついつい春香さんの事を想っていたのを、当の本人に指摘されるなんて…。
ボクは思いっきり否定したが、逆に怪しまれてしまったようだった。

「あの、それって、もしかして…私の事ですか?」
「えぇっ!!」 


 まさにビンゴ!プライベートで春香さんと来たら、もう誤魔化しようもない。
告白するタイミングとしては最悪だが、ボクはこの際、腹をくくる気持ちになっていた。

「やっぱり…。そろそろですもんね。ラスト・コンサート。」
「はぁ!?」
「私、これまでも何度もやってるし、この前は全国ドーム制覇なんて、やっちゃったし…。
初めて企画するプロデューサーさんとしては、やりにくいですよね。」
「は、はぁ……。」
「でも!私信じてますから!プロデューサーさんの企画は、どれも新鮮で、私もお仕事してて、
すごくワクワクしてるんですよ。だから大丈夫!絶対成功します!!」
「ど、どうも、恐縮です…。」

 最後はどこかの芸能レポーターみたいなセリフになってしまったが、もし、ハンドルを握ってなかったら
その場でヘナヘナと座り込んでいたかもしれない。まったく春香さんは、鋭いんだか、鈍いんだか…。
ともかく、いきなり告白するはめにならないで済んだ事に感謝しつつ、ボクはクルマを走らせ続けた。

 しばらくしてボクはクルマを、とあるホテルの前に停めた。
明日から始まるラスト・コンサートに向けての最終レッスンと本番のため、
ボク達はしばらくここのホテルで、寝起きをする事になる。

「どうも、お疲れ様でした!春香さん。」
「プロデューサーさんも、お疲れ様でした。」
「明日から、しばらくレッスン三昧ですけど、お互い良いコンサートになるよう頑張りましょう!」
「はい!明日から、ビシビシしごいちゃって下さいね。ウフフ。」 


 ボク達は他愛のない挨拶を交わし、その後ボクは1人で一旦事務所に向かった。
そして、事務所に着いたボクを待っていたのは、思いもよらぬ衝撃的な事実だった。
なんと、律子さん達のプロデューサーが、今月いっぱいで765プロを辞めてしまうと言うのだ。

「律子さん!いったい先輩は、どうしちゃったんですか!?」
「知らないわよ!私だって、あんたと同じで、今日知ったんだから!肝心のプロデューサーは、不在だし…。
それより、ちょっと…。」

 律子さんは、いきなりボクを別室に引っ張って行くと、声を潜めて話し出した。

「今日からしばらく、春香から目を離しちゃダメよ!わかった!?」
「えっ!?何でですか!?」
「それは…その、あの人とは、長い付き合いだったからね。一応、箝口令は敷いてあるけど
変に耳に入れば、春香もショックを受けるだろうし…。」
「はぁ…でも、そこまでしなくても…。」
「する必要があるからに、決まってるからじゃない!」
「でも、いくら元担当プロデューサーで、お世話になったと言っても…。」
「あぁ、もぅ!ニブイわね!!つまり春香とは、その…そういう関係だったのよ!」
「ええっ!!まさか、そんな…。」
「まぁ、表立っての仲じゃないし、どうも1度はフラれてるみたいなんだけどね…。」 


 そこから先の事は、良く覚えていない…。気が付くとボクは事務所ではなく、どこかの裏通りを
あてもなく歩いていた。
春香さんと先輩プロデューサーが、そんな間柄だったとは…。
確かに、以前コンプレックスに悩んでいた春香さんに、昔からの目標を思い出させ、
立ち直るきっかけを与えるなんて、先輩なら出来るだろうし、
春香さんがそこまで心を許せるのも、先輩になら納得できる。
とは言え、今まで悩み続けたボクはどうなるんだ!?一方的なボクの恋心だったにせよ、
そう簡単に納得できるはずもなく、今のボクはピエロを演じたような、空しさで一杯だった。

 やがて、彷徨い歩くボクの頬に、ポツリと冷たい水滴が落ちて来た。
それはあっという間に勢いを増し、本格的な降りとなっていった。
そんな中、ボクは閉店した元居酒屋のある雑居ビルの階段に、雨宿りのため座り込んでいた。

「あの〜、どうかされましたか〜?」

 いきなり声を掛けられたボクが顔を上げると、そこには髪の長い女性が、ニコニコと微笑んでいた。 


「あっ、す、すいません!ちょっと雨宿りに…。すぐに避けますから。」
「あら〜、それはお困りですね〜。そうだ、よかったらこのカサ、お使いになります?」

 その女性は、ノンビリとした口調でそう言うと、傍らに持っていたもう1本のカサをボクに差し出した。

「い、いえっ!見ず知らずの方に…。それに、返すあてもありませんし。」
「そう言われれば、そうですね〜。ウフフ。」

 ボクがそう言うと、その女性は初めて気が付いたかのように、ほんのりと頬を染めて
恥ずかしそうに笑っていた。

「お〜い、あずさ。どうかしたのかい!?」
「あら〜、あなた〜。」

 すると、今度は階段の上から、背広姿の男性が降りて来た。
あずさ、あなたと呼び合う所を見ると、2人は夫婦らしい。

(あれ…?あずさ…!?)

 ボクはもう1度、傍らの女性の顔を見つめた。そして、思わず2・3歩後へ下がってしまった。

「あ、あの…、ひょっとして、三浦…あずさ…さん?」 


 しばらくして、ボク達3人は、3階にある2人の事務所にいた。
女性は、やはり元765プロ所属のアイドル、三浦あずささんと、元担当プロデューサーの旦那さんだった。
事務机と電話、あとは小さな応接セットのあるだけの事務所で、ボク達はあずささんの淹れてくれた
お茶を前に座っていた。

「そうか、君が春香の、担当プロデューサーなのか。」
「はい!ボクも、お2人に会えて光栄です。」
「まぁ〜、光栄だなんて〜。ウフフ。」

 ボクの前で無邪気に照れている、三浦あずささんこそ、
今の765プロの隆盛の礎を築いたと言っても、過言ではない。
抜群のプロポーションと類い希な歌唱力で、1年余りの活動期間でアイドルの頂点に登り詰め
後に続いた、現在の765プロのアイドルの活躍の場を広げるのに貢献した彼女は
たった1年間の活動の後、突然引退を発表したのだった。

「ところで、春香のプロデューサーなら、この時期、この辺りをうろついているヒマなんて無いはずだろう!?」
「はぁ…その通りです。」
「あなた!」
「いや、スマン…。実はもう察しはついているんだ。アイツが…元春香の担当プロデューサーだった
アイツが、いなくなったせいだろう。」
「な、何でそれを…。」
「これには、わけがあるんだ…。と言うか、原因の一端は、オレ達2人にもある。」
「あなた…。」

 そう言うと、あずささんは、傍らに座る旦那さんの手に、そっと触れていた。


「昔、オレ達が招いたゴタゴタのせいで、春香とアイツは別々の道を歩む事になってしまった。
まぁ…あいつらに言わせれば、オレ達のせいじゃないって言うんだが……。」

 こうしてあずささん達は、春香さんと先輩が別れる原因となった出来事について、話し始めた。

「春香は最初の活動停止を迎えたラスト・コンサートの夜、1年間ずっと胸の内に秘めていた想いを
アイツに打ち明けたそうだ。その時まで春香は、再びアイツと共にトップアイドルを目指せると、
信じて疑わなかった。しかし……。」
「プロデュースの更新が叶わなかったんですね。だから律子さんは、春香さんが、1度フラれたみたいだと…。」

「当時から、アイツは春香のアイドルとしての才能を見抜いていた。
と、同時に、今の自分のプロデュースでは、これからの春香には力不足だという事も、わかっていたんだ。
そして、このままプロデュースを続けても、馴れ合いの感情が、
いずれお互いをダメにするとまで、感じていたそうだ。
逆に言えば、アイツ自身もそれほどまでに、春香に惹かれていたんだな。」
「お互い、そんなに惹かれ合っていたのに、なぜ…?」 


「2人共、似たもの同士と言うか、自分より相手のことを、先に考えるタチだからな。
アイツは春香の才能を惜しみ、春香はアイツと築き上げたアイドル“天海春香”を続ける事を選んだ。
さらに、当時の765プロのトップアイドルが、突然引退を表明した。
理由は、担当プロデューサーとの恋を成就させるためだったが、
その事も、2人に悪い影響を与えてしまったんだ。」

「それは、ひょっとして、おふたりの事では!?」
「あぁ。その通りだ。オレ達は、その選択を間違ったとは思っていないし、
社長以下、765プロ全員が、オレ達を心から祝福してくれた。
しかし、世間はそう好意的な見方をしてくれる輩だけではない。

アイドルとプロデューサーとの恋愛なんて、ゴシップを扱う連中には、絶好のネタだ。
だが、オレ達は引退後、芸能界から一切足を洗っていたため、
そいつらは、他の765プロのアイドル達を、次のターゲットにしようとした。
最悪、デマでも何でもでっち上げようと、スキを窺っていた。

そんな輩から残ったアイドル達を守るため、社長はアイドル活動停止後、
プロデュースの更新を原則認めないという、苦渋の選択を迫られたんだ。
そんな当時の765プロの状況、2人のアイドルに掛ける情熱、そして、お互いを気遣う気持ちが、
絡み合った結果、2人は別々の道を歩む事になってしまったんだ。」 


「私…しばらくして落ち着いてから、春香ちゃんに謝りに行ったの。そうしたら…。」

 と、今度はあずささんが、ボクに向かって静かに話し始めた。

「春香ちゃんは、『同じ目標に向かって苦楽を共にしていた、おふたりが信頼以上の感情を持つのは、
自然な成り行きだと思います。ですから、決しておふたりを恨んだりなんてしません。』
と、笑って言ってくれたの。

その後、こう言っていたの。『プロデューサーさんは、私がアイドルを辞める時が来たら、
もう1度、あの日の話の続きをしようって約束してくれたんです。
だけど、私はアイドルを続けるって言っちゃったから、中途半端じゃ終われないんですよ。』って。

それから春香ちゃんは、トップアイドルを目指し、プロデューサーさんは、そんな春香ちゃんを
プロデュースしても、見劣る事のないプロデューサー“アイドルマスター”を目指して
いつかお互いに歩む道が、どこかで繋がると信じて、頑張って来たのよ。」

 ここまで、おふたりの話しを聞き終えた後、ボクはしばらく何も話す事が出来なかった。
それほどまでに衝撃的な、春香さんの失恋の真相だった。 


「あの…。春香さんと先輩の事は、よくわかりました。
しかし今回の活動期間で、春香さんはソロでも、トップアイドルに登り詰めたと言えます。
中途半端じゃないはずです。なのに、なぜ先輩は、765プロを辞めるんですか?
いったい、何をしようとしているんですか?」
「それは…プロデューサーさんのけじめ……と言うより、わがままかしら!?」
「わがまま…ですか?」

「そう…。アイツは近いうちに、アメリカに旅立つ。ショー・ビジネスの本場で、プロデュースの腕を磨くそうだ。」
「アメリカって…どうして!?それじゃ春香さんは…、春香さんは、どうなるんですか!!」
「春香はすごく頑張った。ユニットでも、ソロでも、文句なしにトップアイドルの座に登り詰めた。
同じくらい、アイツも春香を立派にプロデュースできるように、努力して来た。
だからこそアイツも、中途半端じゃ終われないんだ。」
「先輩は立派なプロデューサーです。中途半端じゃありません!」
「オレ達もそう思う。だがな…アイツの前には、常に“天海春香”の背中があるんだそうだ。
いくら追いかけても、常に先を行くトップアイドルの姿が…。」
「そんな…。それじゃ、春香さんが頑張れば頑張るほど、先輩は離れて行くみたいじゃないですか!!」

「オレ達もそう言って、考え直すように説得したんだが…。いつもなら、春香の事を第一に考えるアイツが
今回だけは、ガンとして首を縦に振らなかった。そして、これを置いて、いなくなってしまった。」

 そう言うと、旦那さんは、背広の内ポケットから、一通の封筒を取り出した。

「それは…。」
「春香に…渡して欲しいそうだ。」
「何なんですか!手紙1つでお別れですか!?春香さんの事を思うなら、
会って直接話すべきじゃないんですか!!」
「察してやってくれ…。アイツも1人の男と、プロデューサーとの狭間に苦しんだ結果の末、選んだ方法なんだ…。」 


 その言葉を聞いた瞬間、ボクは再び言葉を発する事が出来なくなってしまった。
先輩もボク同様、2人の自分の狭間に苦しんでいたとは…。
しばらくボク達は、テーブルに置かれた封筒をじっと見つめたまま、それぞれに思いを巡らせていた。
そして……。

「納得は…納得は、まだ出来ません。出来ませんが、この封筒は、ボクが春香さんに届けます。
それが、ボクに出来る事だから。」
「そうか…。オレ達はお互いに、出来る事をやろう。そのために、オレ達はここに戻って来たんだから。」
「ここに?」
「あぁ。ここには昔、小さな芸能プロダクションがあった。オレ達はここに、アイツが戻って来られる場所を
作っておいてやろうと思う。アイツ自身が納得するプロデュースが出来るようになったら
その腕を振るえる場所を…。それがオレ達に出来る事だから。」
「そうですか…。じゃあ、ボクはこれで失礼します。」
「そうか。それじゃ、コンサート頑張ってくれ。陰ながら応援させて貰うよ。」
「はい。ありがとうございます。」 


 そうして、ボクはあずささん達と別れ、春香さんのいるホテルへと向かった。
その道すがら、ボクはどうやって先輩の手紙を渡そうかと考えていた。
どう考えても、春香さんにショックを与えるのは間違いない。
ホテルに着いてからも、何かショックを小さく出来る方法が無いか、考えているうちに
とうとう朝を迎えてしまった。
結局、何も思い付かないまま、ボクは手紙を胸に、春香さんの部屋に向かったのだった。

「お早うございます。春香さん。」
「お早うございます。プロデューサーさん。昨日は、だいぶ遅かったんですか?」
「えっ!?ま、まぁ。」
「一緒にお食事でもと、お部屋に電話したのですけど、いらっしゃらなかったみたいで…。」
「すいません。あの、よかったら今夜にでも、いかがですか?」
「そうですか!じゃあ、楽しみにしてますよ!ウフフ。」

「あ、あの…春香さん。」
「はい!?」
「実は昨日、三浦あずささんご夫妻に、お会いしまして…。」
「まぁ!あずささんとプロ…いえ、旦那様にですか!?」
「はい。雨宿りした先に、偶然いらして…。それで、これを預かって来ました。」

 そう言うと、ボクは例の封筒を春香さんに差し出した。
我ながらヒネリのない渡し方とは思ったが、この際しかたがない。

「何かしら?ウフフ、何だかドキドキしますね。」
「あ、あの、出来れば、仕事が終わった後にでも、ゆっくりと読んで下さい。」
「えっ!?あ、そうですね。今はレッスンに、集中しないとですね!」
「そ、そうです!じゃあ、さっそく行きましょうか!」

 こうして、その日1日、コンサートに向けたレッスンに明けくれたボク達は、
約束通り、ホテルのレストランで夕食を共にしていた。
ボク達は、その日のレッスンや、コンサートについて語り合い、それはいつもの春香さんと過ごす、
楽しいひとときだった。

「プロデューサーさん。お腹いっぱい食べちゃったんで、ちょっと苦しいです。
よかったら、少しお散歩しませんか!?」

 照れたように笑いながら話す春香さんに連れられ、ボク達は近くの公園に出掛けた。
今にして思えば、それはボクに対しての精一杯の思いやりだったのかもしれない。


「プロデューサーさん、ズルイです。」

 街灯に照らされた夜の公園の遊歩道で、振り向きざま、突然投げかけられた春香さんの言葉に
ボクは何も返す事が出来なかった。そして、手紙を渡すのを躊躇って手遅れになるより、
後は当人同士に任せてしまおうと、問題を丸投げしてしまった、無責任な自分を恥じた…。

「私、てっきりあずささんからのお手紙だと思って…お昼の休憩の時、読んじゃいました。」
「春香さん、あの手紙を…。」
「こんな大事な事を、秘密にしちゃうなんて…。」
「い、いえ、それは…、すいません……。」

 ボクは、もう謝るしかなかった。すると、春香さんはひっそりと微笑むと、夜空を見上げ
再び話し始めた。 


「うふふ、ごめんなさい。プライベートな事で、心配を掛けちゃいましたね。」
「いえ、ボクのほうこそ、何も出来なくて……。」
「あの人、昔からそうなんですよ。人には面倒見が良いくせに、自分の事はひとりで抱え込んで
挙げ句の果てに、説明も無しに突っ走っちゃって…。あの時だって、そう。」
「あの時?前にもあったんですか?」

「ええ。ここで私、前に1度ふられちゃったんです。初めてのラスト・コンサートを終えたその夜に…。」
「それは…、あの時は色んな事情があったと、あずささんの旦那さんから…。」
「それならそうと、ちゃんと言ってくれればいいのに、『余計な心配を、掛けたくなかった。』なんて
後から言われちゃって…。
だから、今回もそう。今度はそれが、ちょっと遠くで…ちょっとだけ、会えなくなるだけで…。」
「春香さん……。」
「大丈夫です。私、ステージに立てます。歌だって、ちゃんと歌えます。」

 そう言って微笑む春香さんは、食事の時とはうって変わったように、無理をしているのが、ひと目でわかるほどに痛々しげで、
手紙の内容に大きなショックを受けている事が窺われた。 


「本当に…本当に、このままでいいんですか?」
「私は、まだ“アイドル・天海春香”なんです。プロデューサーさんを始め、たくさんのスタッフさんや
ファンのみんなが、私を待っていてくれるんです。」
「そんな…アイドルなんて関係ないです!春香さん自身の本当の気持ちは!!……」

 ここまで言いかけて、ボクは次の言葉を発する事が出来なくなってしまった。
春香さん自身の本当の気持ち…。そんなのは、ボクにだってわかりきっている。
今すぐにだって、春香さんは先輩の元へ行きたいはずなのだ。
ただ、春香さんは自分より先に、相手や周りの事を考えてしまう。

「あの…まだ、何が出来るか、わかりません。わかりませんけど、絶対何か出来る事があるはずです。
だから…だから、そんな悲しい事は言わないで下さい。」
「はい…。そうですよね。私、プロデューサーさんを信じます。」

 そんな現実的な要素のまるで無い、薄っぺらなボクの励ましの言葉に、健気に答えてくれた春香さんを、
今までに無いくらい愛おしく感じ、思わずボクは、春香さんを抱き締めてしまった。

突然のボクの行為に、春香さんは腕の中でしばらく身を堅くしていたが、やがてそっとボクから離れると
悲しそうな笑顔を見せて、こう言った。

「ごめんなさい…。これ以上こうしていると、心が砕けそうです…。
明日には、きっと元の私に戻ってますから…。本当に、ごめんなさい…。」

そう言って、春香さんは元来た道を、ホテルの方に向かって駆けて行き、
ボクはその場に立ったまま、唖然とその後ろ姿を見つめるしか出来なかった。
こうして、ボクの片思いの恋は、完璧に終わってしまったのだった。 


 その夜、ホテルのベッドの中で、ボクは公園での自分の言葉について考えていた。
春香さんでさえ、どうすることも出来なかった、頑な先輩の心を動かすには、
いったい何をどうすれば良いのか?
しかしいくら考えても、きっかけすら見つからず、ボクはその日もまんじりともせず、夜を明かしてしまった。

 それから数日が過ぎた。ラスト・コンサートが迫るにつれ、レッスンは佳境を迎える中
春香さんは、黙々とレッスンに明けくれていた。
同時に、ボクも準備に忙殺され、あの約束を果たすすべの見つからぬまま、過ごしていたある日、
ボクは、あるものを持って、あの裏通りの小さな事務所を訪ねていた。

「実は、おふたりに、これを持って来ました。」

 ボクは、三浦あずささんと、旦那さんの前に、コンサート用のスタッフ・パスを差し出した。

「今、春香さんは悩みを抱えながらも、ラスト・コンサートに向け、レッスンに励んでいます。
もし、よろしかったら、これで楽屋に来ていただいて、春香さんの支えになって下さい。」
「えぇ。私達が少しでも春香ちゃんの支えになるなら、よろこんで使わさせてもらうわ。」
「ありがとうございます。あと、もし先輩に会う事があったら、このパスも渡して下さい。」
「そうか。やっぱり春香でも、アイツは…。」
「はい…。春香さんでも連絡が取れない状況です…。でも、コンサート当日には来てくれるそうなんで
何とか、そこでメッセージが伝えられればとは思うんですが、その方法が、まだ…。」
「そうか。」
「あなた…。」
「あぁ。」

 そう言うと、ボクの前に、楽譜と携帯音楽プレーヤーが置かれた。 


「あの、これは…?」
「これは私の、ラストシングルになるはずだった曲なの。
でも、その当時の私には、どうしてもこの歌詞を歌い上げる事が出来なくて…。でも今の春香ちゃんなら
これを歌う事で、春香ちゃんの気持ちを伝えられるかもと思って。」
「すいません、失礼します。」

 ボクは、プレーヤーのヘッドフォンを付け、スイッチを入れると、楽譜の歌詞を読み始めた。
そこには、最愛の人を失った女性の心情が、見事に表現されていた。
そして、それは、今まさに最愛の人が自分を置いて旅立とうとしている、春香さんの気持ちを
そのまま表していると言っても良いほどの歌詞だった。

「すごい…これは……」
「まだ仮歌の段階だったんだけど、お役に立つかしら?」
「すごいです!これなら、絶対イケます!!ありがとうございます。これ、お借りします!」

 ボクは、おふたりに深々と頭を下げた後、急いで事務所を後にした。
この歌を完璧に歌い上げられれば、きっと先輩の心も動かせるに違いない。

「『隣に…』か。良い曲だな。」

 ボクは、プレーヤーに入っていたあずささんの歌声を思い出しながら
少しでも早く、その事を春香さんに伝えるべく、レッスン場へと急いでいた。

 そして、ほどなくレッスン場へ着こうかという時、ボクの携帯が着信を伝えた。
路肩にクルマを停め、電話に出ると、それは律子さんからの電話だった。 


「アンタ!今どこにいるのよ!」
「もうすぐレッスン場に着きますけど、何か?」
「じゃあ、急いで○○病院まで来なさい!春香が、倒れたのよ。」
「えっ!?春香さんが!」

 ボクは電話を切ると、急いで病院まで駆けつけた。そして、病室に入ると、そこには点滴を付けた
春香さんが横たわっており、傍らには律子さんが付き添ってくれていた。
律子さんは入って来たボクを見るや、いきなりボクの胸ぐらを掴むと、小声でこう言った。

「アンタには、言いたい事が山ほどあるけど…。とりあえず、春香は大丈夫よ。
寝不足による過労だって。」
「そ、そうですか。よかった。」
「2、3日は安静が必要らしいわ。じゃあ、私は春香の着替えとか取って来るから
アンタ、しばらく付いていなさい。」

 そう言い残すと、律子さんは病室から出て行ってしまった。
ボクは枕元の椅子に座ると、眠っている春香さんの顔をじっと見つめていた。
たぶん夜になっても、充分な睡眠は取れてなかったのだろう。
寝不足による過労…。確かに、ここ数日の春香さんのレッスンは激しかった。
一連の事件による心労と不安を紛らわすためとわかっていながら、それについて何も出来なかった
ボクのせいでこうなってしまった。

ボクがそんなことを考えていると、ふいに春香さんの右手が動いた。
その手はまるで何かを求めるように、何もない空間を探っているようだった。
そして、春香さんの口から、小さな声が漏れ始めた。 


「プロデューサーさん…、待って…私を…置いて……行か……。」

 それは、まさに春香さんの本心だった。プロデューサーと言ってもボクではなく、先輩に向けての心の叫び。
いつも他人を気遣う春香さんが、ずっと胸の奥に秘めていた、心からの声だった。
ボクは思わず、その手を握っていた。すると、春香さんは安心したかのように、かすかに微笑み、
その後ポツリとひと言漏らすと、再び静かに眠ってしまった。

「嘘つき……。」

 それは、夢の中の先輩に向けての言葉なのか、手を握ったボクへの言葉なのか?
ボクにはどちらとも取れる言葉に聞こえた。
やがて、握っていた力が緩むのを感じたボクは、そっとその手を布団の中に戻していると春香さんがそっと目を開けた。

「プロデューサー…さん?ここは……。」
「ここは病院です。春香さんはレッスン中に、倒れちゃったみたいですね。」
「そう言えば……。すいません、ご迷惑をお掛けして…。」
「そうですね。あと3日で、コンサートの本番だと言うのに。」
「は、はい……。」

 ボクの態度に、春香さんは申し訳なさそうに、目を伏せていた。

「実はコンサートですが、ちょっとだけ変更したい箇所があるんです。まずは、これを聴いて下さい。」

 ボクは、例のプレーヤーと楽譜を春香さんに差し出した。一瞬不思議そうな顔をした春香さんだったが
言われたように、プレーヤーの電源を入れ、楽譜に目を通し始めた。すると……。

「これって、あずささんの……すごい…この歌は……。」
「3日後のコンサート、ラストソングはこれを歌って貰います。」
「この歌……この歌詞……。」
「いい歌でしょう。最愛の人を失った女性の心情が溢れ出て来るようです。
この歌を聴かされたら、恋人を放っておいて、どこかへ行こうなんてヤツなんか、イチコロですよ。きっと!」

 ニヤリと笑ったボクの意図をわかってくれたのか、春香さんもつられて微笑んでくれた。 


「でも…いいんでしょうか?その…個人的なメッセージを、コンサートで…。」
「春香さんのプロデュースは、ボクが担当してます。春香さんは、ボクの指示で歌うだけ。
問題ありません。」
「プロデューサーさん…。ありがとうございます。」
「春香さん…。ボクらは春香さんに、いっぱい元気を貰いました。言わばボクらの元気のミナモトは、
春香さんなんです。だから、春香さんにはずっと元気でいて欲しい。
だから、春香さんの1番の元気のミナモトを、その手でしっかりと捕まえて欲しいんです。」

「プロデューサーさん…。」
「おっと!これじゃまるで、ファン代表みたいですね。(笑)
じゃあ、プロデューサーらしいのを1つ。
え〜オホン!そんなわけで、春香さんにはコンサートまでの3日間、特別レッスンをやっていただきます。」
「特別レッスン…ですか?」
「そうです。ドクターストップも出た事ですし、3日間ここを面会謝絶にしちゃいますから
その間に、歌を完璧に自分の物にして下さい。」
「プロデューサーさん…。ありがとうございます。」
「いえ…、じゃあボクはスタッフとか色々と、打ち合わせに行って来ますから!」

 そう言って、ボクは病室から外に飛び出した。と、そこには、大きめのバッグを提げた律子さんが
ニヤニヤと笑って立っていた。

「さすがは、プロデューサーってとこね。どうやったら、あんなに春香を元気に出来たのかしら?」
「いやぁ。ボクだけのチカラじゃないですよ。それより、春香さんを…。」
「OK、OK。病院の事は、全部任せといて。アンタはコンサートの方を、しっかりとやんなさい。」
「はい!ありがとうございます。じゃあ、行きます!」

 それから3日間、ボクは文字通りあちこち駆け回り、コンサートの準備に奔走した。
その間、春香さんの病室に顔を出す事は無かったが、歌の仕上がりについては、まったく心配する気は起こらなかった。

 コンサートの当日、病院へ迎えにやって来たボクを、春香さんは普段通りの笑顔で待っていてくれた。
そしてボク達は、そのままコンサート会場の楽屋へと向かったのだった。 


「プロデューサーさん。あの…。」
「どうしたんですか?ははぁ、やっぱり緊張してます?実はボクも、緊張しっぱなしで…。」
「いえ…。プロデューサーさんには、お世話になりっぱなしで、それなのに…。」
「さすが!余裕ですねぇ。もう後の事を考えてるなんて。」
「は!?」
「春香さん、気を緩めるのはちょっと早いですよ。まだコンサートは終わってませんしね。」
「は、はい!そうでした…。そう…ですよね。」
「アハハ。さぁ!会場が見えて来ました。春香さん!ドームですよ、ドーム!!」
「はいっ!」

 こうしてボク達は会場へ入り、最後の打ち合わせや、軽いリハーサルを行った。
そして、いよいよ開演の時がやって来た。ボク達のラスト・コンサートが始まったのだ。
ドームを揺るがすかのようなファンの声援の中、きらびやかなライトを浴び、ステージ狭しと飛び回る春香さんは
今まで培ってきた全てを、出し切っているかのようだった。

「みんな、今日まで本当にありがとう!これから歌う曲が、ラストソングとなります。
この曲は、今の私になら歌えると、ある人が託してくれた曲です。
ですから、私の…私の想いの全てを込めて歌います。…聴いて下さい!『隣に…』」

 再び起こった大拍手の中、春香さんの、そしてボク達の想いを込めた曲が始まった。 


♪空に抱かれ 雲が流れてく
  風を揺らして 木々が語る
  目覚める度 変わらない日々に
  君の抜け殻探している

  Pain 見えなくても 声が聞こえなくても
  抱きしめられたぬくもりを今も覚えている

  この坂道をのぼる度に
  あなたがすぐそばにいるように感じてしまう
  私の隣にいて 触れて欲しい

 今までの曲とはうって変わった、ピアノのみの伴奏で始まったこの曲は、その歌詞の内容もさることながら
春香さんの歌声に込められた想いに、観客も拍手すら忘れるほど、引き込まれているようだった。

 誰もが我を忘れたかのように、静まりかえった観客席。
やがて、春香さんが歌い終わり、深々と一礼をした後、今まで水を打ったように静かだった観客席から
割れんばかりの大拍手と、それに負けないくらいの大歓声が巻き起こった。
それは、この舞台袖も同様で、スタッフ全員が拍手で迎える中、春香さんはステージから降りて来たのだった。

と、次の瞬間、何もないフロアで、春香さんは急にバランスを崩してしまった。
そのまま、舞台袖の床に倒れ込もうとしたその時、体全体で春香さんを受け止めた誰かがいた。 


「す、すいません!」
「昔から、おまえは何もない所でよく転ぶヤツだったからな。春香。」
「その声……プロデューサーさん?…プロデューサーさん!!」
「春香!!」

 倒れかけた春香さんを受け止めたのは誰あろう、あの先輩プロデューサーだった。
もう誰の目も気にする事なく、再び抱き合う2人を見つめていたボクの肩をポンと叩く誰かが。
見るとそこには、ニヤリと笑うあずささんの旦那さんがいた。

「どうもすいません。これだけの観客の中で先輩を捜し出すのは骨が折れたでしょう。」
「いや、そうでもなかったぞ。春香の歌が始まった途端、向こうからやって来たんだからな。」
「そうですか。確かに、すごい迫力でしたからね。」
「そうだな。さて、そろそろこいつらを楽屋に連れて行かないと、ココで何し始めるか判らないぞ!」
「うわっ!それはマズイです!」
「ハハハ!お2人さん!続きは楽屋ででもやってくれ。」

 ボク達は、2人を楽屋に閉じ込めると、邪魔が入らないように、それぞれ廊下の端に陣取った。

「ところで、あずささんは、どこに?」
「さぁ?さっきまで、この辺りに……。ヤバイ!もしかしたら、春香の楽屋の中に?」
「うわっ!それもマズイです!」

 こうして、春香さんのラスト・コンサートは幕を閉じたのだった。 



エピローグ

 あのラスト・コンサートの後、先輩は単身、アメリカに旅立って行った。
結局、春香さんの想いは通じなかったのかと思いきや、
765プロを円満退社し、他の事務所へと移って行った数ヶ月後、
先輩を追うようにアメリカに旅立った春香さんは、約1ヶ月ほど滞在した後
再び1人で帰国した。

「兄ちゃん!遅いってば!!遅刻しちゃうよ!」
「もっと早く走ってよ!兄ちゃん!!」
「ま、待ってくれ!亜美!真美〜ぃ!!」

 その日ボクは、またもやテレビ局の廊下を全力疾走して…いや、させられていた。
担当している双海亜美・真美のユニットと、オーディションに出掛けた途中で
水が無くなったと、コンビニに寄らされたのが運の尽き。
水を買うだけのつもりが、お菓子の新製品チェックを始めた2人との攻防の末
すっかり遅刻ギリギリになってしまったのだ。

バタ〜ン!!

 突然、大きな音を立てて控室のドアが開き、ボク達3人が駆け込んで来ると、
その場にいた審査員以下、全ての人が驚いた表情で、息も絶え絶えのボク達に注目していた。
いや、オーディション参加者の中で、1人だけクスクスと笑う女性がいた。

「プロデューサーさん。オーディション前にアイドルを走らせたら、後ですっごく怒られますよ。ウフフ。」

そう言って笑う彼女の、左手の薬指には、銀の指輪が輝いていた。

おしまい。 


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