ログ

作:456

社長から呼ばれる事が普通というのは、それはそれで765プロデュースの内情を表しているような気がする。
彼は去年の末に入社したペーペーだし、
という事は普通なら社長直々に何かを言われるというのは、要するに人がいないということの裏返しだ。
俺何かしたっけ。思い当たる節などないわけではないが、
彼のやった悪事といえば社長の宴会腹芸の写真をばら撒いたくらいだ。
「おお、君か。かけたまえ」
「すみません遅くなりました。…で、お話っていうのは」
「うむ」
社長は実に重々しく頷き、アルミフレームに『社長』という自作を疑わせる木札のついた机からファイルを一つ取り出した。
「君に、彼女のプロデュースを頼みたい」
「…え」
デスクに出されたファイルを呆けたように眺め、彼は疑惑一杯の顔で社長を見た。
口元がヒクついているところを見ると何か訳ありのようだ。ホントにこの人経営者かよ、という感想を彼は必死に腹で殺す。
「萩原雪歩くんだ。素直ないい子だよ」
「…素直ないい子なら社長、もうちょっと口元締めてくださいよ」
思わず零れてしまったが、しかし社長は大して気を悪くする風もなく、
「うむ。実は彼女は非常に内気でね。新規入社の君なら、ひょっとしたら上手くいくかも知れんと言ったところだよ。
 不満かね?」
「まさか」
なんであれ仕事は仕事だ。就職氷河期を経験した身から、ドブ川にだって浸かってやろうと入社したのだ。
「で、その萩原くんはどこにいるんですか?」
「ああ。彼女には今お使いを頼んでいてね。丁度いい、彼女を迎えにいってくれ。
彼女と合流した時点で、君はプロデューサーになる」
「分かりました。じゃあ、ちょっと行って」
「まあ待ちたまえよ」
そうと決まれば話は早いと腰を浮かべるプロデューサー(見習い)を、社長はやんわりと片手で制した。
まだ何かあるのか、と見るプロデューサー(見習い)の前で、社長はニヤニヤと笑いながら一冊のノートを取り出した。
新品なのか擦り跡一つない。
「これも持って行きたまえ。君はプロデュース業が初めてだからね、記録をとりながらやるといい」
ノートを受け取る。パラパラとめくってみるが、確かにどこをどう見ても新品だ。
「俺は不精ですよ」
「やれるだけで構わんさ」
そうですか、と見習いは今度こそ社長室の扉を開ける。 

むちゃくちゃ内気な子。
新米どころか見習いのプロデューサーが初めて担当する子を、社長はそう形容した。
口元がニヤニヤと笑っていたのはどういうわけだろうか。
指示されたとおり迎えに行ったアイドル候補生は大の犬嫌いらしく、
満開の桜並木の中を背中を楯に事務所まで帰ってきてミーティングをしようと思ったらこれだ。
「おーい、何でそんな遠くにいるんだ?」
「だ、だって、…その、私男の人って苦手で…。ど、どのくらいの距離がいいんでしょうか…?」
目測で5mはあろうかという距離で、萩原雪歩は泣きそうな顔で困っている。どのくらいの距離って。
少しだけ考え、大股で3歩くらいかなと適当にのたまうと、そうですか、と雪歩は恐る恐るプロデューサーに近づいてくる。
「そんな怖がらなくたって。大丈夫だよ何もしないから」
「は、はい…。ご、ごめんなさい」
やっとの事でソファーに座った雪歩に、さて何から話したものかと思う。
何せプロデュースなど初めてだ。気の利いた一言すら言えない自分の頭をなじる。
まさか本日はお日柄もよくなんて挨拶から始めるわけにもいかないだろう。
「あ、あの、プロデューサー、さん」
と、何から始めればとロダンよろしく考え出したプロデューサーに、雪歩から声が掛けられた。
顔を上げると、実に泣きそうで困った顔の雪歩。
「ほ、ホントに、本当に私、デビューが決まったんですか?」
雪歩の表情には、どうか夢であって欲しいと思い切り書いてある。
そうか、と思う。まず何よりも先に確認しなければならないことがあった事を思い出した。
ほんの少し前に見た履歴書、生年月日から体重まで赤裸々に書かれたプロフィールの、一番下に書かれている自己アピール。
「あのさ、えーと、萩原君。君はどうしてアイドルを目指すの?」
「、どうして、って」
「いやあの、そのね、実は君を担当するに当たって君のファイル見せて貰ったんだ。
 で、君の自己アピールも見せて貰ったんだけど、」
そこで言葉が失速した。いまさら何を、と思う。
読んで知ってるくせに本人から意思を聞きたいなんて考えた自分の頭が呪わしい。
もうちょっと気の聞いたこと聞けなかったのかあーもうどうしようこの空気 

「私! 私、その、えっと、」
と、1人で勝手に思考の渦にはまったプロデューサーの頭上から声が降ってきた。
驚いて雪歩を見ると、怯えながらも瞳には強い光が宿っている。
「わ、私、気が弱いんです。
 そ、それだけじゃなくて流されやすくてちんちくりんでひんそーで、その、要するにダメな子なんです」
目を瞑り、顔を真っ赤にして雪歩は一息でそこまで言った。
驚く、ついさっきまではこんなに激する子だと思っていなかったのに。
プロデューサーが間抜けにも「そうなの?」と聞こうとしたとき、雪歩が「でも」と繋いだ。
「でも、それじゃダメだってお、思って。だ、だから、アイドルになれれば、こんな私でも」
変われるかなって、という涙声はほとんど聞き取る事が出来なかった。
「わ、ちょ、泣かないでくれよ。その、だからなんだって事もないんだし。
 …その、俺もプロデュース業は初めてでさ、何聞いたもんか分からなくて」
ゴメン、変な事聞いたかな。そういうと、雪歩は一瞬呆けたようにプロデューサーを見、そうなんですか、と言った。
「ああ、いやその、やる以上はちゃんとやるし、…だから、萩原君もさ、
 その、泣かないでやろうよまだ始まったばっかりなんだし。いいじゃないか変わりたいって言うのも」
「そう、…でしょうか?」
「そうだよ」
そうだとも。
プロデューサーは想像する、765プロデュース宛の履歴書をポストに落とす雪歩の表情。
物凄く悩み考え、死ぬほどの度胸を振り絞って『765プロデュース御中』と震える文字で書いた封筒を
悪魔のように真っ赤な郵政の口に放り込んだに違いなく、そんな子が今目の前で不安そうにこちらを見ている。
「その、さ。アイドルになるってやっぱり大変なんだ。むちゃくちゃなスケジュールで学校とか行けない日もあるし、
 トレーニングもあんまり易しくないって言うか死ぬほどキツイし、営業する日は多分帰るのめちゃくちゃ遅いし。
 でも、それでも――」
それでも。それでも萩原雪歩が『自分を変えたい』と心から願うなら――
雪歩は真っ直ぐにこっちを見ている。涙に濡れた頬はそのままに、瞳には大粒の涙が未だに決壊寸前で、
それでも真っ直ぐに雪歩はプロデューサーを見ている。
「それでも、萩原君が――雪歩が変わりたいって願うなら、俺は君の事全力で手伝う。何かあったら絶対助ける。
 …その、あんまり頼りにはならないかもしれないけど」
余りにも青臭い事を言い、真っ赤になったプロデューサーはそこで言葉を失い、
えーと、と毒にも薬にもならない繋ぎを口にして、やがて救いを求めるように顔を上げ、
そこに、泣きながら微笑む雪歩を見た。
「…ホントですか?」
やがて、雪歩はそう言った。
「ホントに、私のこと助けてくれますか?」
「え、あ、ああ、もちろん。…だから、雪歩」
――――むちゃくちゃ内気で、気が弱くて流されやすくてひんそーでちんちくりんで、
「アイドルに、なろう」
それでも、最高に輝くアイドルに。 

Eランクに昇格したところで、それほどオファーが増えるわけではない。
営業の内容といえば相変わらず直参りが基本だし、結局今日のレコードショップの販売プロモーションも似たようなもので、
しかしいつもと違う事といえば夕食をとる時間がなかったくらいだ。
「わあ、こういう風になってるんですね!」
プロデューサーの脇で、私服に着替えた雪歩が目を輝かせながら
古臭いカウンターに載せられたラーメン――540円――を眺めている。
伸びるから先に食ってて、とは何度も言っているのだが、
雪歩は頑としてもう一つの丼が出てくるまで割り箸に手をつけようとしないのだった。
蝉の声が遠くに聞こえる中、新米アイドルと見習いプロデューサーが仲良くも腰を下ろしているのは移動屋台の軒先で、
座っているパイプ椅子は恐らく10年前の最新モデルだろう。
聞けば雪歩は屋台でラーメンを食った事がないという。
ビッグアイドル候補の晩飯が屋台というのも妙な話だが、
しかしプロデューサーはショップを出た直後に雪歩の腹の音を確かに聞いた。
「いいから先に食いなよ。伸びるぞ」
「で、でも。もうちょっと待ちますよ」
雪歩をプロデュースしていて分かった事がいくつかある。
その際たるものは、どうも雪歩はこれと決めたら動かないある種の頑固さのようなものを持っているという事で、
時折はその頑固さが仇になって傍から見るとむちゃくちゃな事をしたりする。
そんなやり取りをしているうちに屋台のオヤジがやや乱暴にプロデューサーの丼をカウンターに置いた。
鰹出汁の良い香りが鼻腔を満たし、待ってましたと言わんばかりに二人揃って割り箸をバキリと割る。
「い、いただきます」
プロデューサーが蓮華でスープをすするのを横目で見て、
雪歩はまるで人生初のバンジージャンプに挑むかのような壮絶な表情で麺を掬った。
こいつラーメン食った事ないんじゃないか、という表情のオヤジが見守る中、雪歩は麺を一本つるりと啜り、
「…美味しい」
プロデューサーはこの時、オヤジが小さくガッツポーズを取ったことを見逃さなかった。
その後の展開は早かった。よほど腹が減っていたのか雪歩はつるつると麺を啜り果しに向かい、
プロデューサーも負けじとスープを飲み干しにかかる。
途中オヤジが雪歩の丼にチャーシューを追加しなかったら、勝負の行方は分からなかった。 

帰りの道すがら、雪歩は何度も「ご馳走様でした」と言い続けた。
「いやだからいいって別に。ランクアップのご褒美だよ。安いけど」
「そんな事…。ありがとうございます、プロデューサー。美味しかったです」
なら良かった。プロデューサーはアクセルを強め、大通りに出たところで慣れ親しんだたるき亭の看板を見つけた。
事務所から少し離れたところに車を停め、エンジンを切ったところで雪歩がじっとプロデューサーを見つめている事に気付く。
「あの、プロデューサー。次のお仕事って、なんでしょうか」
「次の仕事?」
体を捻って後部座席に放り投げた鞄からスケジュール帳を取り出し、
「ええと次は…いよいよランクDをかけたオーディションだな。来週の日曜」
「え、も、もうランクDですか?」
「不安?」
そこで雪歩は眉間に皺を寄せ、フロントガラス越しに見える765プロデュース事務所の窓を見つめた。
「…はい。その、私みたいな――」
「『ひんそーなちんちくりんが、Dランクなんて』か?」
「はぅぅ…」
ため息。
しおしおに萎びてしまった雪歩を見ず、プロデューサーは手帳をめくる。
プロデューサーが手帳に下げているボールペンは赤青緑黒の4色で、
それぞれ順に『ヴォーカルトレーニング』『ダンストレーニング』『ヴィジュアルトレーニング』
『営業』あるいは『オーディション』である。
プロデューサーが見ているのはひと月の予定が一目で分かるマトリクスのページで、
雪歩の夏休みに合わせたスケジュールは見るも恐ろしいほどの色彩で埋め尽くされている。
「ま、不安があるのは当然だよ。誰だってそうさ」
「ぷ、プロデューサーも、ですか?」
「ランクアップオーディションだろ?」
雪歩の視線を感じて顔を横に向けると、涙まで出てきた不安そうな瞳に「その通り」と書いてある。
「いや全然。雪歩ならこのオーディションは落ちないだろうね」
あっけらかんとそう言うと、雪歩は鳩が大砲を食らいました、という顔をし、
「…そう、なんですか?」
「ああ」
「本当に?」
「うん。…そろそろ事務所に行こう。社長が首長くして待ってる」
そこまで言い、プロデューサーはドアのロックを外した。
「何にもしないで挑むのは無謀だろうけどさ、あれだけトレーニングしたんだ、自信持っていいはずだよ」
「…! 本当ですか、プロデューサー!?」 

「そこステップ遅れた。もう少しテンポよく」
「は…、……はいっ」
Cランクになった雪歩の当面の目標はダンスの強化だ。
目標であるAランクに上がるためには道場オーディションやマスターオーディションの合格は必須だが、
プロデューサーの見たところ雪歩の今のレベルでは道場は良くてもマスターはおぼつかない。
よって、オーディションのない日には練習に明け暮れる日々を送っているのだが――
「さっきよりステップが遅いよ。もっと右足大きく出さないとターンできない」
「は、はい…。ちょっと、む、難しくて…」
「…。ちょっと休憩しようか」
プロデューサーの言葉を聞くや否や、雪歩はトレーニングスタジオの床に崩れた。
両肩は激しく動いているし、もう葉も色づく頃だというのに顎からは滝のような汗が滴り落ちている。
犬の呼吸のような雪歩の動悸を見て、プロデューサーはカップにスポーツドリンクを注いでタオルと一緒に雪歩の前に置いた。
焦点の定まらない目で補給物資を見遣り、雪歩は今度こそ上体を床に落とす。
傍から見ても、雪歩はとうに限界を超えている。
プロデューサーはため息を一つつき、やがてゆっくりと雪歩の頭の前に腰を屈めた。
言う。
「なあ雪歩。…キツいか」
本当にゆっくりと雪歩の頭が動いた。
顔の右側だけを床につけ、雪歩は死んだ魚のような左目だけでプロデューサーを見上げている。
相変わらず呼吸は荒い。放っておいたら本当に死ぬんじゃないかと思う。
「辛いか」
一つ前の質問よりも、僅かだがはっきりと頭が動いた。
肩を掴んでゆっくりと仰向けに寝転がすと、半身ぶん転がった脇には汗が池を作っている。
むちゃくちゃだとは思う。確かに明日はオフだし、道場破りにはもう1週間もない。
しかし、思う、これほどの練習を経ても『間違いなく合格』とは口が裂けても言えず
、これほどの練習を行ってなおAランクは遠い。
死ぬほど辛く、なお目標は遠く、たかだか一つのステップすら満足に出来ない。

言う。
「…やめるか?」
その瞬間、雪歩の目が大きく開かれた。何でそんな事言うんですか。
髪の色と同じブラウンの瞳に隠し切れない疲労と隠す気もない憤りをたたえ、雪歩はプロデューサーを見る。
「だってそうだろ? 雪歩は何とかCランクまで上がった。
もう全国区のアイドルだし、雪歩の名前は新聞にだって載る。ファンレ ターだって届くし、
 …これだけの練習をして、Aランクに上がれる保証もない」
思う、大したものじゃないか。
たった半年前には『萩原雪歩』という名前すら知らなかった多くの人々が、
今や『萩原雪歩』と言えば顔と名前が一致するだけの認知と名声を得ているのだ。
ここで止まっても恐らくは誰も雪歩を責めないだろう。
Cランクで終わってもいいだろう。
ローカル番組に出て地方を巡業し、たまに全国区で活躍するのもアイドルとして悪くはないのではないか―――
そこでプロデューサーは、雪歩の顔を見た。
雪歩の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「保証もないんだ。これだけキツい事して、道場では門前払いかもしれないんだ。だから、後は雪歩次第だ。
 …ここで終わったって、誰も雪歩を責めないよ」 

瞬間、物凄いことが起こった。
雪歩が立ち上がろうとしている。
筋肉が痙攣しているのが見ていて分かる、腕も足ももう満足に動かないのが十分に見て取れる、
それでも雪歩は何とか立ち上がろうと体をねじっている。
「…だ、誰も、」
呟きは涙声だ。しかし、雪歩は強烈な痛みと疲労を意識で殺してうつぶせの上体まで体を転がすと、
もはや突っ張る力すらない腕を床に突き刺すように上体を起こす。
「誰も、私の事、怒らない…かも、しれません」
全身の筋肉が悲鳴を上げている。乳酸の化合が止まらない。鬼のような痛みが頭の中に弾ける。
それでも、それでも、
「でも、そうしたら、…私、が、」
両腕を突き出す事で出来た胸と床の隙間に、遅々とした動きで折り曲げた膝を入れる。
涙は遂に瞳からこぼれ、顎を伝って膝頭に落ちた。
だからどうした。
「私の、ことを、…きっと、一生、許せない、です…!」

――――こんな私でも、アイドルになれれば、きっと、

今や雪歩は、ぎこちないながらも両足の裏を地面にしっかりと着けていた。
後もう少しだ、もう少し脛と太腿に力が入れば立ち上がれる、きっと道場だって通過できる、
マスターオーディションだって抜けられる、『アイドル』にだってなれる、

きっと、弱くてダメだった自分を変えることができる。

なのに。力が入らないのがもどかしい。
貧相だってちんちくりんだっていいと思う、今立ち上がるだけの力が欲しい、
道場やマスターを抜けられる力が欲しい、アイドルになれる力が欲しい、
自分を変える力が欲しい。
そこで雪歩の力はガクンと抜け、膝をしたたかに床に落とし、流れのままに上半身も床に打ちつけそうになり、
プロデューサーが、倒れそうになった雪歩の肩を支えた。両手でがっちりと雪歩の肩を掴み、タオルを雪歩の顔に被せる。
「…プロ、デュー、」
「―――ああ、そうだよなぁ」
プロデューサーは雪歩の脇下に肩を突っ込むと、自分の肩に雪歩の体重を預けるように立ち上がった。
よろよろとスタジオの隅に寄り、持ってきたコートの上に雪歩を仰向けに横たえる。
「そんなことしたら、雪歩が雪歩のことを許せないよな」
雪歩の顔面にはタオルがかかっており、雪歩は全くプロデューサーの顔を見る事は出来ない。
が、今の声色を聞けば分かる、プロデューサーはきっと死にそうなほど辛そうな顔をしているに違いなく、
この厚いタオルの向こうには決断を誰よりも辛く、しかし何よりも誇らしく思っている人がいるに違いない。
「だから、…プロデューサー、私…もうちょっと頑張って、みます」
「そうか…。ゴメンな、雪歩。変な事言った」
首を振る。タオル越しに大きな手が頭に乗る。
辛かったけど、大変だったけど、もう少し、もう少しだけ頑張ってみよう。
「ちょっと長めに休憩しよう。何か飲み物買ってくるよ」
「…は、はい…!」
もう少しなら頑張れるから。あと少しなら、二人一緒なら、頑張れるから。 

「合格者は、2番さんです! おめでとうございます!」
オーディション合格のアナウンスが流れた瞬間は、プロデューサーも雪歩も何が起こったのか全く分からなかった。
冬もまもなく終わるスタジオの恐ろしいほどの静寂を打ち破った審査員の声はホール一帯に響き、
きょとんとした雪歩と呆けたプロデューサーはたっぷり一呼吸置いて顔を見合わせた。
2番さん。
雪歩の胸には安全ピンで留められた白丸に黒抜きの「2」という数字が思い切り大きく書かれていて、
つまり合格したのは雪歩で、
だから要するに、つまり、
「…合格、ですか」
「…合格、だねえ」
「合格、なんですか」
「合格、みたいだねえ」
「ぷ、プロデューサー、」
「Aランク、…だなあ」
二人そろってパイプ椅子に落ちた。
他の方は残念ですが今回は不合格です、という言葉がやけにはっきりと聞こえる。
雪歩はまだ自分の身に起きたことが信じられず、やたらに汗をかいている自分の両手を見、すぐにプロデューサーの顔を見た。
プロデューサーもまた信じられないといった様相で雪歩のことを見ている。
そもそもこのオーディションは賭けだった。
このオーディションは本命のオーディションを受ける際のクッションとして利用するつもりで、
要するに落ちて当然のスーパーオーディションであり、場慣れのための捨てオーディションであり、
本番で度胸一発を狙うためのものであって、
だから、つまり、
「わ、私、Aランクに、なれたんですか」
「ち、ちょっと待ってくれ今計算し直すから。えーっと昨日まででファンクラブの人数がええと」
プロデューサーが電卓を叩ききる頃には審査員も他の参加者もすでにスタジオを退席しており、
今や広いスタジオには雪歩とプロデューサーしかおらず、
そして何度目かの検算の末、プロデューサーは、はは、と乾いた笑いを漏らした。
「雪歩、喜べ。…間違いなくAランクだ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。間違いない。昨日の数字洗ってあるから計算はミスってない。だから、…おわっ、泣くなよ雪歩!」
え、と頬に手を当てると、知らずに涙が溢れていた。
「あ、あれ? おかしいな、嬉しいんです、嬉しいのに、あの、と、止ま、ら」
気付いてしまったからなのか、どうにかして止めようと思うほど涙腺の奔流は止まらない。
プロデューサーは慌ててポケットからハンカチを取り出して雪歩に渡す。雪歩はハンカチで口を押さえ、
「ぷ、プロデューサー、私、私ぃ…!」
「あぁああぁ、そう、そうだな! が、頑張ったな雪歩! ほらあんまり泣いてると化粧崩れるぞ!」
その後、ディレクターがテレビ出演の調整をするために二人のもとを訪れるまで、
アイドルをなだめるプロデューサーとおかしい嬉しいと連呼するトップアイドルという不思議な光景が繰り返されていた。 

もうすぐ春が来る。
穏やかな気候の中、雪歩はそんな事を思う。
プロデューサーの車のサンルーフ越しに見る桜はだいぶ蕾も大きくなり、
前線予報によればあと2週間ほどでこの一体は桜の桃色に覆われるという。
Aランクの仕事は大変だがやりがいも大きく、今日も昼から2件目のテレビ撮影が雪歩を待っている。
「あ」
と、雪歩は窓の外の景色を見て呟く。上手い具合に信号待ちに捕まり、プロデューサーも雪歩に習って視線を左にずらす。
「どうした?」
「あ、いえ、ふふ」
まるで小さかった頃の楽しい記憶を思い出したかのように雪歩は笑う。
何のことか分からないプロデューサーは景色から雪歩に視線を移し、雪歩は幸せそうに微笑むと、
「プロデューサー、覚えてます? ほら、去年の今頃の」
「去年の今頃…。ああ」
覚えている。ちょうど去年の今頃、プロデューサーと雪歩はこの道で出会っている。
今でも鮮明に思い出せる、満開の桜並木の下の、お使いに出ている雪歩とプロデューサーと、
「覚えてるよ。ほら、雪歩がチワワに参ってた時だろ」
「…もぅ、そんな覚え方なんですかぁ…」
「いや、冗談。冗談だって」
覚えている。あの時雪歩はプロデューサーの足のサイズくらいの大きさのチワワに怯え、
発電でも出来そうなほどに震えながらプロデューサーの背中を頼って事務所へと戻ったのだ。
「早いですね。もう1年経つなんて」
「…そうだね。あっという間だ」
覚えている。あの時プロデューサーは恐ろしいくらい気が弱く、
心配になるほど内気な子に背中を貸して事務所へと戻ったのだ。
「なあ雪歩。今、どうだ?」
「どうって…?」
「いや、その、さ。楽しいか? テレビとか歌とか、」
アイドルとか。
プロデューサーは視界を正面に戻す。
視界の隅で歩行者用信号の、どう見ても緑にしか見えない『青』が点滅している。
ちっかんちっかん点滅している信号の右肩に備え付けられたスピーカーから流れる
頼りない『とおりゃんせ』が点滅にあわせて警告音に変わり、道行く歩行者に行くか待つかの選択を迫っている。
「プロデューサー、私、」
選択の時間はどこまでも短く無情で、スピーカーは何の容赦もなくぶっつりと警告音を切る。
目の前に誰もいなくなる。
対岸に趣味の悪いスポーツカーがウィンカーを光らせて左折を主張している。
今やプロデューサーの車の周りには音がなく、どこまでもどこまでも音のない空間が静かに降り積もっている。

「今、とっても幸せです」 

音が戻る。プロデューサーがATのブレーキペダルから足を下ろし、アクセルペダルを静かに踏む。
交差点を越えたところでプロデューサーが「そうか」と笑う。雪歩もつられるように笑う。
思い出す、初めて会ったときにプロデューサーから言われた言葉。
―――むちゃくちゃなスケジュールで学校とか行けない日もあるし、
   トレーニングもあんまり易しくないって言うか死ぬほどキツイし、
   営業する日は多分帰るのめちゃくちゃ遅いし―――
確かにむちゃくちゃ辛かった。
トレーニングも死ぬと思ったことが何度もあったし、営業の日の帰りは終電がザラで、
そこらのヒラリーマンなど目も当てられないほどの労働をした自信もある。
自信もある。
はて、と雪歩は思う。今まで、何かに「自信がある」などと思ったことはあっただろうか。
思う、去年この桜並木の下でプロデューサーに会うまでの自分にとって『自信』など一生縁のない言葉ではなかったか。
流されるままに言われるままに生きてきて、ひたすらに後悔を積み重ねてきた自分と今の自分とでは、雪歩は思う、
きっと何かが絶対に違う。
今、雪歩は自分で歩いている。『誰かに言われたから』ではない。『自分で選んで』雪歩は自分で歩いている。
―――それでも、萩原君が――雪歩が変わりたいって願うなら、俺は君の事全力で手伝う。何かあったら絶対助ける。
   …その、あんまり頼りにはならないかもしれないけど。
いいえ、いいえ。そんな事ないんです。
プロデューサーはいつだって頼もしかったんです。いつだって私はあなたの背中に引っ張られてきたんです。

自分を変えられたんです。

今、雪歩は自由だと思う。
テレビに出る事も、人前で歌う事も、プロデューサーと一緒に事務所に帰ることも、すべて自分が望んだことだ。

―――ねえ神様、本当に、本当にあなたがいるのなら、今の私が望むのは一つだけなんです。

会話が途切れた車内で、プロデューサーは本当に何の気なしにラジオのボリュームを上げる。無闇に明るいDJの声が聞こえる。
『―――さあ、次はいよいよ先月発売された『萩原雪歩』待望のニューシングル、“First Stage”!!
 この曲をリクエストしてくれた皆さん、ラジオのボリュームは大丈夫ですかあ!?』
イントロが掛かる、DJがリクエストしたリスナーの『最近あった幸せな出来事』を読み上げる、
車がスピードを増す、テレビ局が見えてくる。

―――どうか願わくは、この幸せな時間がずっと続きますように。 

その日は雪歩より先にプロデューサーが退社した。
珍しい事もあるものだ。いつもは社長より遅く退社するプロデューサーだったが、
雪歩を事務所に送ると早々にタイムカードを切っていた。
何かあったのだろうか。傘を持ったプロデューサーの表情は実に青く、
まるで親の峠が今日の夜だと言われたかのような有様だった。
いつもとは全く様子の違うプロデューサーが退社するのを、手洗いに向かう途中の雪歩は何事かと見た。
―――あれ、プロデューサー、お帰りですか?
―――あ、ああ。雪歩もあんまり遅くなるなよ。
ほんの5分ほど前のやり取りだ。
とはいえ雪歩も用を足したら帰るつもりでハンドバッグを化粧室へのお供にしていたし、
ほんの少しだけ体重を軽くした雪歩は鏡に向かって手を洗い、
「…あ」
気付いた。少しだけだがリップが剥がれている。そういえばさっき事務所でお茶を入れたんだった。
えーとリップリップリップ
ない。
「あれ」
おかしいな、確かに今朝家を出るときポーチに入れたはずなのに。念のため雪歩はバッグに腹の中をすべて吐かせてみる。
ない。
「えっと、」
おかしい。
ポケットも小物入れも全て漁り、しかしあの真っ白いリップは見つからない。
あのリップはプロデューサーからプレゼントされたもので、
結構前から気に入って大切に使っていたものなのだがどうも見つからない。
あれえあれえと腹の中を漁り、しかしリップは影も形もなく、
おかしいどこに置いてしまったのか、せっかくプロデューサーがプレゼントしてくれ
「あ」
思い出した。そういえばさっきプロデューサーと話している間にリップが話題に上り、机の上に置いたんだ。
そうと決まれば話は早く、雪歩はバッグの中にモノを納め、
さっさと化粧室を後にして主がいなくなった机に向かおうと事務所の扉を開けようとして、
それを、聞いた。

「うむ。ショックだと思うが、最初から納得していた事だろう?」
しばしの間、
「これがわが社の方針なのだよ。君が辛いのも分かる。分かるが――」
さっきよりも短い間、
「そうだ。そして君の為でもある。萩原君は君の手を離れ、そして君は萩原君のような素晴らしい花を育てる。
忘れないでくれ、これはビジネスなのだよ。適所と適材を組み合わせるのが私の仕事なのだ」
間、
「―――君の気持ちは痛いほど分かる。いいかね、妙な事を考えてはいけないよ。私は君のことを買っているんだ」 

『――関東の雨は本日遅くまで降るでしょう。明日の降水確率は午前中が30%、明日の最高気温は――』

雪歩が走っている。どんよりとした雲からは大粒の雨が降り出している。
駅の改札を抜けた先は色とりどりの傘が満開で、傘を持たない雪歩は花弁の下を縫うように走る。
すぐにびしょ濡れになり、それでも雪歩は走るのをやめず、いまだ冬が影を引きずる夜は濡れた体にひたすら寒い。
―――社長、今の電話、なんですか。
スクランブル交差点がもうすぐ赤になる。どう見ても緑にしか見えない青が遠慮なく点滅している。
パンプスは水を吸って重く、首筋から入った雨水がコートの中で容赦なく体温を奪う。
―――萩原君、…聞いていたのかね。
スクランブルに突っ込む。真ん中辺りで赤信号が停止を促す。
道交法を頭から無視してスクランブルを越え、雪歩の足はどんどん駅から遠ざかる。
―――教えてください社長。私は、…もう、あの人と一緒にいられないんですか。
深夜まで営業しているのが自慢のスーパーの角を曲がる。
路駐車がひたすらに疎ましく、白枠のガードレールが隔てた隣には雪歩の何倍もの速さで車が通り過ぎていく。
―――これが、わが社の方針なのだ。君も辛いと思うが、分かってくれたまえ。
煌々と照る自販機の脇をすり抜ける。
歩道をふさぐように止めてある自転車を避けようとして車道に出て、クラクションの洗礼を貰う。
―――プロデューサーは、納得してるんですか。
視界から背の高い建物がなくなっていく。
道をポツリポツリと照らす街灯は恐ろしいほど暗く、しかし雪歩の足は止まらない。
―――…。
遂にヒールが悲鳴を上げる。
心臓が早鐘を打ち続けている。上がらなくなった足が引っかかり、雪歩は盛大に歩道に倒れる。
もはや雪歩は頭からつま先まで濡れ鼠で、全身のヘモグロビンが新鮮な酸素を求めて勝手に雪歩の口を開かせる。
雪歩はもう、自分の頬を濡らしているのが雨なのか涙なのか分からない。

『おーい、何でそんな遠くにいるんだ?』
あの時は、男の人が怖かった。そんな自分を変えたいと願った。
『いいから先に食いなよ。伸びるぞ』
あの時は、プロデューサーと一緒に食べたかった。その方が美味しいと思った。

雪歩は立ち上がる。五臓六腑が相変わらず酸素を寄越せと訴える。震える足に喝を入れて膝を伸ばす。
今ここで膝をつくなら、足など本気でいらないと思う。

『そんなことしたら、雪歩が雪歩のことを許せないよな』
あの時は、心の底から投げ出すのが嫌だった。自分を変えたかった。
『なあ雪歩。今、どうだ?』
辛いしキツいし冷たいし痛い。そして――それ以上に、めちゃくちゃに寂しい。
走ろうとして膝が落ちる。
しかし雪歩は倒れない。氷のように冷えたガードレールを引っつかみ、恐ろしいほどゆっくりと雪歩は歩く。
プロデューサーに会いたい。雪歩の頭にはそれしかなく、ひたすらに一歩一歩距離を縮めに歩く。
プロデューサーの住所を資料室で漁り、雪歩は社長の制止を振り切って社外へと飛び出した。
会いたい。会って話がしたい。本当にもう私のことをプロデュースしてくれないのか。
本当にもう私と一緒に活動をしてくれないのか。
本当は、―――本当はもう、私の事何とも思っていないのではないか。
怖気の震う想像だった。もし本当にそうなら、私はどうなってしまうのだろう。
もし本当にそうなら、きっと私はもう生きていられないに違いなく、だとしたら、
―――だとしたら、どうして私はプロデューサーに会うんだろう。
会ってどうするんだろう。
プロデューサーに『止めないで』と泣きつくのだろうか。それとも、恨み言の一つでも言って世を儚むのだろうか。
雪歩にはもう、自分が何を考えているのか分からない。まるで頭と別の生き物のように、ひたすらに足が前に出る。
目指す住所はもう目の前にあり、相変わらず雨は降り続き、握り締めた手はまるで死んだかのように冷たい。 

めちゃくちゃに怒られた。
今、雪歩はプロデューサーの安アパートのシャワーを使っている。
恐ろしいほど冷えた体にシャワーのお湯は痺れるほど痛かったが、それ以上に雪歩の胸はじくじくと痛んでいる。
めちゃくちゃに怒らせた。
怒られたことより怒らせたことの方がダメージが大きかった。
嫌われちゃったかな。雪歩は今ぼんやりと安っぽいタイルの繋ぎ目を見ており、
およそ雪歩が使った事のないようなおんぼろガス湯沸かし器は出だしに冷水の出るトラップ仕様で、
いつもなら冷たいと飛び上がるような冷や水を頭から被り、しかし雪歩は全くそれに動じない。
―――何やっているんだろう、私。
プロデューサーの家に押しかけてどうするつもりだったのだろう。
あの時社長の制止を振り切って飛び出したのはなぜなんだろう。
プロデューサーに会いたい一心で飛び出したはいいが、肝心の『会ってどうするのか』を全く考えていなかった。
水が温度を上げ始める、反比例するように雪歩の心はどんどん沈んでいく。
私のばか、どうしてプロデューサーに会おうと思ったんだろう、どうしてプロデューサーの迷惑を考えなかったんだろう。
びしょびしょになって押し掛けるなんて非常識にも程がある。
いっそ穴でも掘って埋まろうかいやこのタイルはなかなか硬い
『―――雪歩、大丈夫か?』
「ひゃ、ひゃいっ!」
足でタイルの硬さを確かめようとしたとき、突然風呂の外から声が聞こえた。
雪歩は突然の声に驚き、同時に曇りガラス一枚を隔てた先にいるプロデューサーを意識し、
次の瞬間両手で胸を覆って屈みこんだ。
そういえば素っ裸だ。
あれ、私下着どうしたっけもしかしてひょっとして裸見られちゃったかもああどうしようどうしよう穴を
『雪歩ー、大丈夫かー?』
「は、はいっ! だ、大丈夫れす!」
噛んだ。が、どうもガラス越しにはちゃんと聞こえたらしく、熱すぎないかー、と声が聞こえる。
少しだけ落ち着いた。
「す、すみません、大丈夫です」
『おう。えーっと、服びしょ濡れだから乾かしておくよ。乾くまでその、悪いんだけどすまん、
雪歩のサイズの服なんて持ってないから、スウェット着てて』
置いておくからー、と言い、プロデューサーはごそごそと脱衣所に何かを置いて退散した。
雪歩のサイズの服なんて持ってないから、という声に心の底からの安堵を覚え、次の瞬間すさまじい勢いで顔を赤くした。
―――本当に、何やってるんだろう、私。 

ブカブカのスウェットを着た雪歩が居間に入るのとプロデューサーがホットミルクをカップに注ぎ終わるのは同時だった。
まるでいつもと変わらない様子のプロデューサーはよう、と雪歩に向かって手を上げ、
「ホットミルクなんだけど、飲む?」
「あ、い、いただきます」
「砂糖入ってないからね。ちょっと入れたほうが旨いよ。テーブルの上」
横に視線をずらすと、コートが除湿機の風に揺られている。
導かれるままに椅子に座り、雪歩は熱過ぎないホットミルクを少しだけ飲んだ。
落ち着く。さっきまで死体のように冷たかったのが嘘のようだ。
プロデューサーはそんな雪歩の様子を見、付けっぱなしのデスクトップに視線を走らせた。
「―――で、どうしたんだ」
雪歩が半分ほどカップを空けたところで、遂にプロデューサーは訊ねた。
が、プロデューサーの表情は半ば答えを予想していたようだったし、
雪歩もまた、答えをはぐらかしてこれ以上の迷惑をかけるつもりはなかった。
「電話を、聞いちゃって、」
予想が確信に変わり、プロデューサーは眉を下げた。
そうか、とだけ返し、視線に困ったかのようにデスクトップを見遣る。
「聞くつもりじゃなかったんですけど」
本心だった。電話を聞いてしまったのは不可抗力だと思う。
だが、今にして思えば社長を問いただすなど狂気の沙汰で、
あまつさえプロデューサーの家に押し掛けるなど常軌を逸しすぎている。
しかし現実はどうだ。あの電話を聞いた時の雪歩は雪歩であって雪歩でないと思う。
その証拠に今、雪歩はこうして散々にプロデューサーに迷惑をかけた挙句にホットミルクを啜っている。
「…ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」
ごめんなさい。びしょびしょで押し掛けて。
ごめんなさい。電話を聞いてしまって。
視界が歪む。輪郭が水に溶ける。喉の奥がひり付く。鼻の奥が痛くなる。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
許して貰えるなら何でもしよう。あの辛い特訓だって何度でもやろう。犬にだって立ち向かおう。死ねと言われれば死のう。
だから、だから、どうか、

―――私の事、嫌いにならないで。

「いやその、別に全然迷惑って思ってないよ。でもその、あーくそ、えーと」
驚いて顔を上げる。雪歩の滲んだ視界の中にはバツの悪そうなプロデューサーがいて、
何を思ったか突然頭を掻き、実に苦々しく居間を見回し、子供が言い訳をするような表情を浮かべ、
「いや、雪歩が来るんならもうちょっと綺麗にしとけばよかったって」
雪歩はそこに、人の形をした救いを見た。 

ちゃんと時計を見れば分かったはずだが、とっくに終電は行ってしまっていた。
お父さんに何て言えばと青くなる雪歩に、プロデューサーはあっけらかんと社長に任せようと言った。
大丈夫でしょうかと怯える雪歩に、
何が悪いって言えば社長が悪いんだからと無茶苦茶な責任転嫁でプロデューサーはさっさと電話を手に取った。
プロデューサーのあんなに意地の悪い笑い方を雪歩は今まで見た事がない。
ちょっと汚いけどここで寝て、と通されたのはベッド一つ机一つの寝室と呼ぶにはあまりに簡素な部屋で、
そこまでご迷惑を、と言ったら俺は居間を片付けると言われた。
確かにあの散らかりっぷりは凄かった。雪歩は居間の様子を思い出してくすりと笑い、改めて部屋を見回す。
部屋は実に簡素な内装で、雪歩は南に取られた窓が唯一の救いのようなその部屋にぼんやりと視線をめぐらせる。
―――結局、聞けなかった。
今後のアイドル活動よりも、プロデューサーに嫌われていないかどうかが心配だった。
よくよく考えてみれば『迷惑でない』と言われただけで『嫌いではない』と言われたわけではない。
ひょっとしたら――ひょっとしたらプロデューサーはこの壁の向こうで舌打ちをしているかも知れず、
部屋に通されたのも単に『仕事』の一言で片付けられてしまうのではないか。
雪歩はそう思い、居間に通じる扉を開けようとし、しかし聞くだけの勇気が持てず、
どこかに解決の糸口はないかと部屋中に視界をさまよわせ、
机の上に山を見た。
誘われるように山に向かうと、山の正体は大量のファイルとCDとアイドル誌とテレビの番組表とノートで、
およそ居間の混雑をここにだけ再現したような有様だ。
恐ろしいまでの混雑に再び笑みを漏らすと、雪歩はぼんやりと山に生える雑草のような文字列を目で追い、
山の頂付近に、ノートを見つけた。
大学ノートだ。もともとページ数の多い厚めのノートのようだが、何かを挟んであるからか妙に膨らんでいる。
そのノートのズタボロ具合は他の資料とは雲泥の差で、
よほど何度も開いたり閉じたりしなければここまで酷くはならないだろうという有様だ。
何のノートだろう。
本当に軽い気持ちでノートを手に取り、雪歩はそこに慣れ親しんだ名前を見た。

『萩原 雪歩』

「え…」
何で、このノートに私の名前が書いてあるんだろう。
雪歩は耳を澄まし、扉一枚向こうにいるプロデューサーの様子を伺う。
が、雨の音とカタカタとキーボードを打つ音以外は何一つ聞こえず、雪歩はごくりと喉を鳴らした。
―――見よう。
そして、雪歩は表紙をめくる。 

『4月第1週:社長からプロデュースの打診あり、担当のアイドルを迎えに行く。
犬が苦手なのか、チワワに怯えていた。その後ミーティング、どうも雪歩は男と
話すのが苦手との事。履歴書とPRをあわせ、心境に変化がないことを確認し、
ミーティング終了。
―――これからよろしく、雪歩』

「…これ、」
思い出が鮮やかに蘇ってくる。
どこまでも続く満開の桜の下、チワワに怯えていた自分と、背中の楯をくれたプロデューサー。

『4月第1週2:今日は雪歩の技術を見る事を目標に各種レッスンを行う。ダンスと
歌があまり得意ではない様子。少し時間を多めにとってこれらを伸ばすことが必
要か。作詞家の先生とも挨拶を済ませ、気に入られたのかネックレスをいただく』
『4月デビュー:初めてのオーディション、雪歩も俺も強く緊張していたが何とか
合格できた。あまりダンスの強くない曲を選んで正解かもしれない。その後
テレビ出演のための録画へ、初めての割りに良くできたとADの弁』

機械的なコメントの横には、いまや遠く懐かしい自分が精一杯に踊っていた。
写真だ。89×127の四角いテレビの中で、一年前の雪歩が限界を出している。
めくる。

『8月2週:都内レコードショップでシングルの販促イベント。
まだ知名度は高くないが、CDの売れ行きも悪くはないようだ。
時間の関係で夕飯が取れなかったので、雪歩を近場の屋台に連れて行く。
どうも屋台のラーメンは初めてらしいが、気に入ってくれてよかった。
帰り際にDランクオーディションについて不安を言っていた。
あれだけ練習はしたが、何とか不安を取ってあげないと』

視線をノートの右にずらすとやはり写真が貼ってある。
覚えている、これは確か審査員が職務を最後まで放棄せずに行われたオーディションだ。
写真の下には“昇格!!”と大きく書かれている。
めくる。

『10月4:絶対助けると言ったクセに、雪歩より先に俺が弱気になってどうするんだろう。
ランクCまで上がったんだから、こんな辛い思いするなら止めてしまってもいいんじゃないかと
思っていたのは俺の方だったらしい。雪歩は強い。あんな風に立ち上がれるのが羨ましい。
雪歩も頑張っているんだから、俺も絶対に雪歩をAランクに連れて行こう』

『2月3:雪歩が「Super Idol」に合格した! 
発表のときに検算してみたけど、事務所に戻ってファンクラブの数を確認したら案の定だった。
もっとも、雪歩にとっては自分を変えることが目標だったのかもしれないけど。
ともあれこれで、国を代表するスターになったことは間違いない。
おめでとう!』 

ボツンとノートの縁が濡れた。あれ、と雪歩は左手で口元を覆い、はっきりと手のひらに湿り気を感じた。
―――私、泣いてる。
嫌だなあ。どうして泣いているんだろう。これじゃあ初めてプロデューサーと会ったときと全然変わってないなあ。
ちんちくりんでひんそーでひんにゅーでどうしようもなくて流されやすくて、泣き虫な私のままだなあ。
雪歩の頭の中では今、恐ろしいスピードで1年が流れている。
どこまでもどこまでも鮮明に記憶が蘇ってくる。
犬に怯えた春を、チャーシューを突っ込まれた夏を、
練習が死ぬほど辛かった秋を、どこまでも嬉しかったオーディションの冬を、
あの時の『助ける』を、あの時の『いいって別に』を、あの時の『そうだよなぁ』を、あの時の『頑張ったな』を、

あの時の『今、どうだ?』を、

めくる。

『3月2:テレビの収録が3件。朝から雪歩と一緒にテレビを回る。
もうすぐ雪歩と別れなければならないのが信じられない。
雪歩の機嫌もよさそうだったから、思わず変な事聞いてしまった。
女々しいなあ。でも幸せでよかった。
退社前に、プロデュース期間について社長から釘を刺された。
悔しいなあ。時間切れだなあ。
雪歩はなんて思うだろうか。裏切られたと思うかもしれないな。
雪歩は自分が変わっている事に気付いているだろうか。
初めて会った時の雪歩からは考えられないくらいに雪歩は変わった。止めるかと言っても彼女は止めなかった。
多分本当はあの時、俺の役目は終わっていたんだろうなあ。
雪歩が自分で続けることを選んでくれてよかった。雪歩のプロデューサーをやれてよかった。
ありがとう、雪歩』

雨の音が聞こえる。隣の部屋でキーボードが叩かれている。
雪歩はノートを抱く。
プロデューサーの家で、プロデューサーの部屋で、雪歩は1年間という宝物を抱いて“今”へと繋がる扉を開く。 

ドアの開く音が鳴ったが、プロデューサーは後ろを振り向かない。
ただひたすらにデスクトップのブラウンモニタに目を光らせ、ドームの収容人数をデータベースに落とし、
気が狂ったかのように最多の収容人数と反響のテストデータを洗っている。
相変わらず居間は乱雑で、雪歩のコートは除湿機の風に揺られており、雨の音はどこまでも静かだ。
雪歩は一歩を踏み出す。右足を軸に、左足をプロデューサーに向ける。
もう終わりなのだという、どこまでも透明な感情だけが宝物から広まっていく。
びくりと足が強張る。それでも、どうしてもこの宝物だけは捨てられない。
もう一歩を踏み出したとき、ようやくプロデューサーが雪歩に顔を向けた。
プロデューサーは雪歩に向かって何かを言おうとし、その胸に抱かれる驚くほどボロボロのノートを見た。
言葉が失速する。プロデューサーは開けた口をへの字に曲げ、あー、うー、と赤子のように言葉を漏らし、
まるで照れ笑うかのような表情を作り、
「見んなよ」
「やです」
言葉とは裏腹に柔らかな口調のプロデューサーに、雪歩もまた柔らかく答えた。
プロデューサーはそんな雪歩の様子を見て困ったような表情で笑うと、再びブラウン管へと視線を戻す。
どこまでも降りしきる静かな雨の音の中、雪歩は遂にプロデューサーの真後ろに立つ。
「…お別れライブな、ここでやろうと思うんだ」
言葉に、雪歩は腰を屈めて顎をプロデューサーの肩に乗せた。
今、雪歩の眼前には半端のない収容人数を誇る超大型のドームがそびえている。
スポーツをメインに設計されたドームだ。
平時は多くのスターが客席を魅了するドームを、僅か1週間後に雪歩が1人で席巻するのだ。
「いけるか?」
プロデューサーはずるいと思う。そんな事を言われたらもう引く事なんか出来ない。
でも、思う、きっと昔の私なら泣いて嫌がっていたはずのドームが、今は余りにも小さい。
だって私は、変われたんだから。
今まで一番近くにいた人が、変わったと言ってくれたんだから。
「はい」
そうか、とプロデューサーは言い、事務員用のメールフォームにドームのデータを添付して小鳥宛にメールを送った。
これで遅くとも明後日にはドームの予約表が『765プロデュース』で埋まるはずだ。
雪歩はその様子をずっと見ていた。フォームを開いたときも、新規メール作成のためのウィンドウが開いたときも、
プロデューサーが『Sub:お別れライブ』と打ち込んだときも、メールフォームが『送信中』とダイアログを表示した時も、
真っ直ぐに画面を見ていた。

今、雪歩は本当に自由なのだと思う。 

メーラーが送信完了を伝えた時に雪歩はようやくプロデューサーの肩から顎を外し、代わりに額を肩に乗せた。
プロデューサーの肩にじんわりと広がる暖かさは、雪歩が泣いているからだろうか。
作業は全て終わり、パソコンの電源は今まさに落ち、気付くと雨音は遠ざかっていた。
音のない汚れた居間の中、プロデューサーと雪歩はまるで肩越しに会話をしているかのように一言も発しない。
言いたい事はいくらでもあった。
一緒に食べたい物も、一緒に見たい景色も、一緒にしたい練習も、一緒にやりたいライブも、一緒にいたい時間も。
もう、時間は残っていない。
プロデューサーは言葉を選ぶ。
気が弱くて流されやすくてちんちくりんでひんそーで、どうしようもなく離れ難い宝物に向かって、
プロデューサーは遂に、最後まで取っておこうと思っていた言葉を言った。

「―――ありがとな。感謝する」

雪歩の肩がぶるりと震える。言うべきを言ったと思う。
僅か一言に凝縮するには荷のかち過ぎる万感の思いを、ただ一言に乗せる。

雪歩は顔を上げない。私は変わったんだから。絶対泣かない。
1年前の『萩原雪歩』に泣いてなんかあげない。
だから、大声を上げて泣く代わりに、最後にプロデューサーに酷い事を言おう。
雪歩の頭の中には、『やれるか』よりも『感謝する』よりも卑怯な言葉が浮かんでいる。
普通だったら絶対言わない事を言おう。
だってプロデューサーだってずるいのだ。何が頼りないだ。何が『やれるか』だ。
最初は背中を追いかけていくのに精一杯だったのが、今はこうしてすぐ後ろにいられるのに、
それがバイバイだなんて卑怯もいいところだ。ズルだ。
だから、酷い事を言おう。普通なら絶対に言わない。
でも、もう最後だから、多分こんな風にしていられる時間はもうないのだから、
「ねえ、プロデューサー。お願いがあるんです」
もう、すぐなのだから。
萩原雪歩が願う、どこまでも卑怯でどこまでも酷く、どこまでもどこまでも純白な願いを、プロデューサーに言おう。

「―――私の事、忘れないで下さい」

そして雪歩は、プロデューサーの顔を見た。 

桜の花が満開を誇る頃、雪歩は文房具屋でノートを買った。
厚めのヤツだ。雪歩はそれを離れに持ち込むと、やはり買ってきた油性のマジックで表紙に何事かを書き込む。
雪歩はそれを見続け、やがて満足したかのように大きく頷くと、表紙をめくって1枚目に何かを書き込んだ。
雪歩はしばしそれを眺め、柔らかな陽光の中で微笑む。
やがて壁掛けの時計で時間を見ると、雪歩はバッグを片手に今日の撮影へ向かう。

1枚目には、決して小さくない文字で、「約束を胸に 4月第1週:」と書かれている。
ノートの表紙には、『萩原雪歩 2』と書かれている。 



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