私のうた

作:名無し

 ――活動停止

 この業界に関わっているものなら、誰しもが意識したことのある言葉だと思う。
 芸能界でアイドルを目指す子はごまんといる。
 その中で這い上がり、生き残ることができる子はほんの一握りなのだ。
 となれば、この活動停止という選択肢を選ばざるを得ない人が出てくるのは当然のことで……。

「ちょっと……待ってください……」
「これは、もう決まったことなのだよ」
 それが自分の身に降りかかってきた途端、それは「当然のこと」ではなくなった。
 俺は混乱する頭をなんとか整理しながら、社長に歩み寄る。
「活動停止だなんて、そんな……」
 出勤後、社長室に呼ばれ告げられた言葉。
 ――天海君の芸能活動を停止してもらう。
 活動停止。そういう道を辿る子がいるのは当然のこと。
 けれど結局のところ、俺はそれを他人事としか思っていなかったのかもしれない。
 だって、社長からこうしてそれを告げられて初めて、俺はその言葉の重さを知ったのだから。

「ま、まだ、活動期間である一年には達していないはずです」
「当初の活動終了予定日まで続けることは困難と判断したのだよ。
オーディションの結果、CDの売り上げ、全てを総合しての判断だ。分かって欲しい」
「そんなのっ……」
 声を荒げそうになるのをなんとか押さえ込むと、俺は奥歯をぐっと噛み締めて社長を見た。
 いや、睨んだという表現が正しいかもしれない。
 しかし社長は微塵も動じることなく、重々しい動作で組んだ両手を机の上に置くと、まっすぐに俺の目を見つめ返してきた。
 芸能プロダクションのトップに立つ人物なだけのことはある。
 その目には、新人プロデューサーの俺が何をしたところで決して揺らぐことのない力が宿っていた。

「そんなの……あんまりです……」
 耐え切れず先に目を逸らしたのは俺の方だった。
 俺は視線を足元に向けると、右手で顔を覆う。社長の言葉が、さっきから頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
 活動停止、こんなにも単純で、残酷な言葉。
「新人の君には辛いことかもしれないね。けれど成果があがらなければ、活動を停止する――この世界じゃ当たり前のことなのだよ」
「…………」

 765プロに入社して、俺が初めて担当を持った少女。
 特に秀でた能力があるわけではなかったけれど、とにかく歌が大好きな女の子だった。
 お互いに新人同士ということで苦労することも多かったけれど、それでも俺たちは本当にたくさん努力してきて……。
(……何も言い返せない)
 どれほど努力したって、それが結果に結びつかなければ、何の意味もないのだ。
 社長の言うことは経営者として当たり前のことだと、俺だって本当は分かっている。
 だけど、春香の頑張りをずっと目の前で見てきた俺が、はいそうですか、と頷くことがどうして出来ようか。
「考え直しては……もらえませんか?」
 絞り出した俺の言葉に、社長はゆっくりと首を振った。 

   ◇

「待ってください、社長!」
 噛み付くような男の言葉に、社長と呼ばれた男性は小さくため息をついた。
「同じことを何度も言わせないでくれ。彼女の活動は本日を持って停止とする。以上だ」
 静かな口調でそう言うと、社長は積み上げられた資料に目を通し始めた。
 そのまま、朱肉を傍らに置いて慣れた手つきで印鑑を押していく。
 まるで何事もなかったかのように振舞う社長の態度に、男は眉を吊り上げて身を乗り出した。
 男の両手が、社長の机を強く叩く。
「彼女はもっと上を目指せます! あの歌声を社長だってご存知でしょう!?」
「確かに彼女の歌は素晴らしい。けれど、それを人前で披露できなければどうしようもない」
 言い終わらないうちから反論の言葉を返され、男はたじろぐ。

「そ、それは、もっとゆっくり時間をかければ……!」
「これは遊びじゃない。うちに所属するアイドルは、彼女だけじゃないのだよ」
 社長は厳しい目を男に向けた。
 その鋭さに男はたじろぎ、思わず視線を足元に落としてしまう。
 社長はそんな彼を見て小さく息を吐くと、再び手元の単純作業に戻った。
「今日にでも、君の方から活動停止を彼女に伝えたまえ」
「…………」
 社長の言葉に何も言い返すことが出来ない。
 男はその場で立ち尽くし、拳を握り締めることしか出来なかった。 

   ◆

 休憩室のソファに乱暴に腰を下ろすと、ギシ、と鈍く軋む音が響く。
 社長がリサイクルショップで購入してきたボロソファだ。
 いくつか破れている場所もあるけれど、座り心地は悪くない。
「……くそ」
 吐き出しかけたため息を飲み込んでから、俺はじっと床を見つめた。
 活動停止。その言葉を、頭の中で何度も反芻する。
 
 春香と初めて出会ったのは、俺がプロデューサーとしての一歩を踏み出した日だった。
 右も左も分からない状態で足を踏み入れた事務所。
 そんな中で何も言わずににっこりと微笑んだ少女を見て、俺はこう思った。
 この子をトップアイドルにしてあげたい、と。
 なんで出会ったばかりの少女にそんな思いを抱いたのか、正直なところ分からない。
 運命……なんて、そんなことを言うつもりはないけれど、それでも、この子とならきっとやっていけると、俺はそう感じたのだ。
 
 そしてデビューが決まり、俺たちは共に走り始めた。
 努力を苦にしない彼女の性格のおかげで、実力はどんどん伸びていったと思う。
 まだ荒い部分はあるけれど、それでも確かな手応えがあった。
(……それなのに)
 彼女は、なかなかオーディションに受かることが出来なかった。
 実力に見合わないオーディションを受けているわけではなかったが、それでも勝利を掴み取ることが出来なくて。
 敗因は様々だった。緊張しやすい性質が災いして、本番で力が入りすぎてしまったり、当日に体調を崩してしまったり。
 そして情けないことに、俺の指示のミスが足を引っ張ってしまったこともあった。
 
 テレビ出演はファンの数を増やすもっとも効率の良い方法だ。
 しかしそのチャンスを逃し続けた春香の知名度は、デビューして半年が過ぎた今でも変わらず低いまま。
 そうなれば当然仕事も入らず、CDの売り上げだって散々という結果になる。
「……春香に、なんて言えばいい」
 売れないから、もう終わりだって、そう告げろというのか。
 歌が大好きで、自分の歌で人を楽しませたいと願う少女に。
 あの笑顔が目の前で凍りつくことを思うと、胸の奥が鈍く痛みを訴えた。
 
 甘え……なんだろうか。売れないから切り捨てる、なんてことが酷く残酷だと思えてしまうのは。
 頑張れば努力は報われる――そんなことは、この世界じゃ通用しない。
 それでも、全てを割り切って考えることが俺にはどうしても出来なかった。
(……俺、絶対に出世できないタイプだな)
 自嘲気味の笑いを浮かべていると、背後の扉が音を立てた。はっとして顔を上げる。
「あ……小鳥さん」
 ソファに手をついて振り返ると、そこには766プロの事務員――小鳥さんが立っていた。
「……えっと、おはようございます、小鳥さん」
 ぺこりと頭を下げると、小鳥さんはおはようございます、と小さく返してくれる。
 しかし、すぐに眉尻を下げると、後ろ手でそっと扉を閉めた。

「あの……社長から聞きました。春香ちゃんのこと」
 その言葉で、思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。
 知らず知らずのうちの目が泳いでしまったのだろう、小鳥さんがすいません、と小さく謝る。
「……小鳥さん」
 悲しそうな顔でこちらを見ている彼女を見ていたら、自然と口が開いた。
「はい?」
「小鳥さんはどう思いますか?」
「どうって……どういうこと、ですか?」
 体を戻して再び視線を床に向けた俺の言葉に、小鳥さんが答える。
 彼女の表情は見えなかったけれど、その声に困惑の色が浮かんでいるのは明らかだった。
 いきなりこんなことを言われたら、誰だって首を捻ってしまうだろう。
 それでも、俺は胸の奥から溢れてくる言葉を、どうしても飲み込むことが出来なかった。

「いきなり活動停止だなんて……そんなの酷いと思いませんか」
「プロデューサーさん……」
 小鳥さんの声のトーンが落ちた。
 小鳥さんはすごく優しい人で、春香のことをいつも笑顔で応援してくれた。
 そんな彼女だから。「確かにあんまりですよね」なんて言葉を、きっと俺は望んでいたんだと思う。
 このどうしようもない胸の詰まりを、少しでも解消出来たらいいと、そう思って。
 だけど小鳥さんの口から発されたのは、俺の思っていたそれとは全く違った。
「……結果が出せないのなら、しょうがないことだと、思います」
 抑揚のない彼女の言葉が、静寂の中で小さく響いた。 

   ◇

「活動停止……ですか?」
「…………」
 彼女の言葉に、男は何も答えることが出来ないでいた。
 目の前に立つ彼女の顔を見ることが出来ない。自分の力不足で、彼女の夢を奪うことになってしまったのだ。
 鈍い罪悪感が、顔を上げることを許してくれなかった。
「プロデューサーさん」
 そっと、男の肩に彼女の細い指が添えられた。
「……顔を上げてください」
 穏やかな声でそう言われ、男はゆっくりと伏せていた顔を上げていく。
 きっと、彼女は今にも泣きそうな顔をしていて。その目に涙をためているに違いない。
(その涙を拭う資格が……自分にあるのだろうか)
 自分自身に問いかけながら、男は彼女の顔に目をやった。そして、彼は驚いたように息を飲む。

「なぜ、笑って……?」
 涙を流すでもなく。怒りをその目に浮かべるでもなく。彼女は笑っていた。
 その笑顔は年の割に大人びて見えて、まるで水のような静けさを持っている。
 眉と目尻を下げ、小さな口は引きつることなく緩やかな曲線を描いた。
「しょうがないですよね。私には、実力が足らなかったんです」
「……っ」
 ギリ、と男の奥歯に力が入った。
 彼女の涙を見たくないと思っていたはずなのに。
 こうして目の前で笑う彼女を見ているのは、泣き顔を見ているよりもずっと苦しかった。
 男は彼女から一歩離れると、くしゃりと自分の前髪を掴む。

「……私を責めてもいいのだよ」
 すがって泣きついて。大好きな歌をもっと歌いたいんだと、そう訴えてくれた方が何倍もマシだ。
 こんな風に諦めたように笑う彼女の笑顔なんて、見ていられなかった。
 しかし、そんな男の思いを知ってか知らずか、
「……今まで、ありがとうございました」
 彼女は笑顔のまま、ゆっくりと頭を下げた。



   ◆

「本当に、ごめん」
 春香を会議室に呼び出して、俺は全てを告げた。
 会議室に来て欲しいと言い出したときから、俺の様子がおかしいことに春香も気が付いていたのだろう。
 話している間、春香は特に驚きを浮かべるでもなく静かに俺の話を聞いていた。
「なんとなく、そうなるかなぁって思ってたんです。だって私、オーディションも落ちてばっかりだし」
 えへへ、と春香は眉を下げて笑う。
(なんで……)
 なんで笑っていられるんだ、そんな言葉を春香に向けられるはずがない。
 だって、そんなのあまりに無責任過ぎる。春香はきっと、俺のために笑ってくれているのだから。
 俺の力不足で――俺が春香の夢を奪ったと、そう思わせないように。
 不器用な彼女は、不器用な笑顔で、悲しみや行き場のない怒りを心の奥にしまいこんだのだ。

(ほんと、プロデューサー失格だ……)
 アイドルに気を使わせるプロデューサーがどこにいる。
 悲しいとき、辛いとき、彼女を力付けてやるのが俺の仕事なのに。
 だけど、俺に頼れと言う自信もなくて。結局、俺は彼女のその優しさに甘えてしまった。
「……本当にすまない」
「あ、頭なんて下げないでください、プロデューサーさん! プロデューサーさんのせいじゃないですから」 
 深く頭を下げると、春香は慌てて俺の体を起こしにかかる。
 春香の手に促されるようにしてゆっくりと顔を上げると、ふたりの視線がぶつかった。

「……俺は」
 口を開いたら、なぜだか視界が滲んだ。
「俺は君を……」
 輝く舞台に立たせてあげたかったのに。大好きな歌を、もっともっと多くの人の前で歌わせてあげたかったのに。
 そう続ける前に、俺の瞳から涙が零れ落ちた。
「俺は、春香に何をしてやればいいんだろう……?」
「……プロデューサーさん」
 春香の細い指が、俺の頬に触れる。
 彼女は俺の涙を拭き取るように指を滑らせると、小さく、本当に小さく呟いた。
「あの、ひとつだけ、お願いがあるんです」 

   ◇

「私がこの事務所のアイドルとして歌う最後の歌を、プロデューサーさんに聴いて欲しいんです」
 会議室で契約の手続きをしていると、彼女がそう言った。
「歌を?」
 男が返すと、彼女はこくりと頷いて、笑顔を浮かべる。
 その儚げな笑みに男は目を細めた。彼女の笑顔は、確かに輝くステージの上で浮かべるには静か過ぎる。
(……だけど)
 だけど、それはどうしてか人の心を掴む力があって。
 事実、彼女のその笑顔に、男は幾度となく吸い込まれてしまった。
 今だってそう、その微笑みから男は目が離せない。
「私で、いいのかい?」
「プロデューサーさんがいいんです」
「……それは、光栄だね」
 男が小さく笑うと、彼女もつられたようにくすりと口元を緩めた。
「それじゃあ、聴かせてもらおうか」
「はい!」
 彼女は本当に嬉しそうに頷くと、静かに二度深呼吸をしてから、右手を胸元に当てて目を閉じた。
 やがて彼女の喉が震え、会議室に澄んだ歌声が響く。
「…………」
 男はそっと目を閉じた。
 アイドル候補生として事務所にやってきたときから変わっていない、その澄み渡るような歌声。
 自在に音を操り、伸びやかで、まっすぐな歌。こんな歌を歌える人が、今の芸能界にどれだけいると言うのか。
 男は彼女の歌声に、間違いなく才能を感じていた。だけど、それを引き出すことが出来なくて。
 人一倍歌が好きで、人一倍人前で歌を歌うことが苦手な少女を、引き上げてあげられなくて。

 芸能界で生き残れるのはほんの一握り。
 プロデューサーとしてはベテランの域に入ろうとしている男がそれを知らないはずがない。
 それでも、初めて彼女の歌を聴いたとき、確かに感じたのだ。
 この子はきっとその一握りに入る子だ、と。根拠のない直感と言われれば、それまでだけれど。
「――……」
「プ、プロデューサーさん?」
 彼女の歌がぴたりと止まる。
 溢れてくる涙をこらえようとして漏れてしまった男の声に、彼女は悲しそうに眉を下げた。
「泣かないでください、プロデューサーさん」
「……君は」
 こんなところで終わっていいはずがない。
 こんな素敵な歌を歌える君が、こんなところで夢を諦めていいはずがない。
 その言葉は声にならず、男は頬を濡らし続けた。 

   ◆

 歌が歌いたいです。
 そんな春香の願いを叶えるために、俺は彼女を車に乗せた。行き先は――広大なステージ。
「うわぁ、ひろーい!」
 目の前に広がる海を見て、春香が声を弾ませる。太陽の日差しは暖かいけれど、少しだけ風がある。
春香は頬をくすぐる髪を手で押さえつけながら、砂を踏みしめて歩き始めた。
「でも、どうして海に?」
「せっかくだからどでかいステージで歌ってもらおうと思って」
 冗談めいた俺の言葉に、春香はけらけらと笑った。
「こんな大きなステージ、私、初めてです」
「観客は俺ひとりだけど、それでもいいかな」
「はい! プロデューサーさんに聴いてもらいたいですから!」
 ぴょんと跳ねるようにして振り返ると、春香は足を止めた。
 青い空の下で、広い海を背中に広げながら俺を見上げる。

「歌ってもいいですか?」
「おう」
 大きく頷いてやると、春香はにこりと笑ってから、すまし顔で咳払いをしてみせた。
「エントリーナンバー1番、765プロダクション所属、天海春香ですっ」
 それは、オーディションを受けるときの決まり文句。
 オーディション会場に行くたびに、春香はいつもガチガチに硬くなっていて、審査員に意気込みを訊かれるとあたふたしていたっけ。
 妙に懐かしい気持ちがこみあげてくる。
(……って、ついこの間のことじゃないか)
 まるで、全てが過去の思い出のように思えてしまった自分に嫌気がさした。
 俺は小さく頭を振ると、いつの間にか伏せていた顔を上げて、春香の方を見る。

「それじゃあ、今日の意気込みを聞かせてください」
 そう言って、俺が審査員の口調を真似ると、
「ボーカルには自信があります……なんて」
 彼女は苦笑いを浮かべる。さすがにこのノリはちょっと恥ずかしかったようだ。
「それじゃあ」
「うん」
「……曲は、太陽のジェラシーです」
 そう切り出して、彼女は大きく息を吸ってから歌い始めた。
 驚いたことに、ただ歌うだけではなくちゃんと振りまでついている。
 足場の悪さゆえに多少動きは悪かったけれど、それでも遅くまで練習した甲斐があると思わせるダンスだった。
 少しだけ強くなってきた風が彼女の歌をかき消しそうになるが、春香はそれに負けないよういっそうボリュームを上げる。

(……驚いた)
 こんなにもしっかり声の出る子だっただろうか。
 聴き慣れたはずの春香の歌声は、どうしてか、それまでとは全く違うように思えた。
 開放感のある場所だからだろうか。
(俺は、春香の実力をちゃんと引き出すことが出来ていなかったのかもしれない)
 浜辺に響く彼女の歌は、聴く人に「良い歌だ」と素直に思わせるものだった。
 技術面にはまだ稚拙な部分が残っていたけれど、それでも確かなまっすぐさを持っていて。
「……あれ」
 また涙が溢れそうになる。いつの間にこんなに涙もろくなったんだ、と慌てて鼻の奥に力をいれる。
 さっきみたいに、その涙が零れてしまわないように。
「……春香」
 小さく口の中で呟いた。
 しかし春香はそんな俺の声に気が付くことなく、歌い続けている。
 砂に足を取られそうになりながらも、それでも懸命に、そして楽しそうに。

「…………」
 この歌を、本当のステージで聴きたい。スポットライトの当たるその場所で、多くの歓声に包まれながら。
 強い思いが、速まる鼓動と一緒にこみあげてくる。
 諦めかけていた――いや、多分既に諦めていた願い。
 こんなところで捨ててしまっていいんだろうか。頭の奥で自分に問いかける。答えはすぐに出た。
「春香――」
「うわあぁぁっ!?」
 どすん、と鈍い音。
 サンダルを砂に取られてしまった春香は、盛大にその場で尻餅をついた。 

   ◇

「会社を辞めるって……本気ですか!?」
「ああ、もう社長には話をしてきたよ」
 男は眉尻を下げて小さく笑うと、彼女の肩にぽんと手を置いた。
「それってまさか……私のせいですか……?」
 彼女の瞳が不安に濡れる。
 私が活動停止することになったから、だからあなたは責任を感じて――そう訴えかけてくるその目に、男はゆっくりと首を振った。
「そうじゃないよ」
 低く響く声でそう呟くと、男は彼女の肩から手を離して窓辺へと歩み寄った。

 事務所の窓から見える風景は、いつもと何ら変わらない。
 まっすぐな道路と、そこを滑るようにして走る車、そして背の高いビルの数々。
 男は目だけで辺りをぐるりと見回してから、そっと口を開いた。
「社長の判断は正しいと思う。確かに君は、その……」
 言いにくそうに口ごもる男の様子に、彼女は苦笑する。
「ふふ、気を遣っていただかなくてもいいですよ」
 彼女が男の背中にそんな言葉をかけると、男は気まずそうにコホンと咳払いをひとつ。
「う、うむ。君は……アイドルとしてデビューしたものの、その成果が十分に出たとは決して言えない状況だね」
「そう……ですね」
「だから、私は社長に何も言い返せなかった。うちの事務所は決して大手とは言えないし、
無理にでも活動を続けたら、それこそ会社自体が傾いてしまうかもしれない」

 男はそっと窓の上で指を滑らせる。
 特に意味のない行為だったけれど、これから言おうとしていることを考えると、どうにも落ち着かなかったのだ。
「社長の言うことは正しい。――だけど私は、別の道を見つけたい」
 その言葉に、背後の彼女が息を飲むのが伝わってきた。
 察しの良い彼女のことだ。きっとその言葉の意味するところを、すぐに理解したのだろう。
 男はゆっくりと息を吸った。

「新たな会社で、私は君のような子が夢を掴む場所を……作りたいのだよ」
 男は言葉のひとつひとつを自分で確認するように、ゆっくりとそう言った。
 やがて窓をなぞっていた手をそっと下ろすと、男は振り返り、彼女をまっすぐに見据えて、
「私と一緒に、もう一度歩き出してみないかね」
「…………」
「君と出会ったとき、君の歌を聴いたとき、ピンと来たのだよ。君は、絶対に大きなステージに立てる。
君となら、私はきっと新しいスタートを切ることが出来る」
 見開かれた彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
 それは、活動停止が決まってから、彼女が初めて流した涙だった。 

   ◆

「社長、改めてお話があります」
 春香と別れてから、俺がやってきた場所。それは、765プロ社長室。
 社長室と言うにはあまりに質素で、事務所の他の部屋と作りは大して変わらない。
 社長が今こうして座っている机と椅子も、芸能プロダクション社長が腰をかけるには、少々年季が入り過ぎているように思える。
「……天海君のことかね?」
 決して大きくはない椅子に深く腰掛け、社長は机の上で両手を組んだ。
 社長の問いかけに、俺はしっかりと頷いて答える。
「単刀直入に言います。もう一度、春香をプロデュースさせてください」
「その話はもう終わったはずだよ」
 社長の反応は予想通りだ。
 そりゃ社長が一度決めたことを、こんな新米がお願いしたからって取り消すはずもない。
 それでも俺はここで引くわけにはいかなかった。俺に歌を聴いて欲しいと言ってくれた春香。
 その信頼に答えるためにも。

 社長が鋭い目を俺に向ける。だけど、今度はもう怯まない。
「お願いします……!」
 その場に膝をついて、額を床に押し当てた。プライドなんてもの必要ない。
 俺はこの気持ちを社長に伝えるためなら、どんなことだってするつもりだった。
「き、君、止めたまえ。そんなことをして何になるというのだね」
 社長は俺の突然の行為に戸惑っているようだったが、それでも俺は顔をあげない。
(……自分の弱さに負けるな)
 社長に活動停止を告げられ、小鳥さんに「結果が出せないならしょうがない」と言われ。
 そして……海で春香の歌を聴いて。
 情けないことに、こんな道を辿って初めて、心の根っこにある甘えが俺の弱さだということに気が付いた。
 力がなければ簡単に飲み込まれてしまう世界。俺が立っているのはそんな場所なんだ。

「もう一度だけ、チャンスをください。もしもこれで駄目なら……俺をクビにしていただいても構いません」 
 全てを賭けてでも、勝ち上がりたいと思う。――春香と一緒に。
「…………」
 社長が動く気配がした。
 その場で顔だけを上げると、目の前でしゃがみこんでいる社長の姿が視界に入った。
 社長は両手を伸ばして俺に触れると、俺の体をゆっくりと起こす。
「君の言い分は分かる。しかし――」
「社長は、俺の顔を見てピンと来た、って言いましたよね」
 社長の言葉を遮ってそう言うと、彼は驚いたように目を丸くした。
 俺は、膝の上で強く拳を握る。

「俺も、春香と初めて会ったとき、確かにそれを感じたんです」
「…………」
「あの子はもっと輝ける……もっと、歌うべきなんだ……」
 喉がきゅっと絞まるような感覚。声が震える。
(くそ、格好悪い……)
 格好悪いけど、それでもいい。ようやく見つけた俺の進むべき道を、見失いたくなかったから。
「社長……!」
 絞り出した俺の言葉に、社長はじっと黙り込んでしまう。
「まったく、君は……」
 社長はそう呟きながら、立ち上がり俺に背中を向ける。
 俺がその場でじっと社長の言葉を待っていると、やがて彼は深いため息をついた。
「……早く天海君のところに行きたまえ。トップアイドルになるためには、一分だって惜しい」 

   ◇

 社長室――にしては少々狭く質素な部屋。
 他の社員には、社長室なんだからもっと広くて綺麗な部屋にした方がいいのでは、などと言われたりもするが、
本人はそれほど気にしていなかったりする。
 仕事をするだけならこの広さで十分だったし、ここよりも良い部屋があるのならば、
それは事務所のアイドル、そしてアイドルの卵たちに使って欲しいと思っていたからだ。
 そんな狭い部屋でくるりと視線を動かすと、男の視界にひとりの女性が映る。

「小鳥君……私は甘いと思うかね?」
 窓辺から外の風景を見ていた女性にそう問いかけて、男はため息をついた。
「甘い、ですね」
「はっきり言わないでくれたまえ」
 声を裏返しながら頭を抱える男を見て、彼女はくすりと笑いをこぼす。
「でも、社長らしいです」
 彼女が言うと、男はわずかに口元を緩めて姿勢を正した。
「……彼は、私が見込んだだけのことはあると思わないかね?」
 にっと得意気な表情を浮かべる男。彼女はそんな男の態度に、やれやれと肩をすくめる。

「でも、社長もイジワルですよね」
「意地悪?」
 男は首を捻る。
「活動停止って言ったって、事務所をクビにするつもりなんてなかったんですよね?」
「う……うむ、バレていたのかね」
 苦笑いを浮かべる男に、彼女は「バレバレです」ときっぱり。
 そう、活動停止と言っても、きっとプロデューサーや春香が想像しているものとは違う。
 確かにアイドルとしての活動はいったん停止するけれど、だからと言って事務所との契約を打ち切るわけではない。
 もう一度アイドル候補生から再スタートする――それが、男の言う活動停止、だ。
「一度挫折を味わった者は、強くなるものだよ」
 うんうん、と頷きながら男は呟く。
「そうかも……しれませんね。それで新しく見えてくるものも、きっとあるはずです」
 彼女は苦笑いを浮かべていたけれど、すぐに穏やかに口元を緩めた。

「春香ちゃん、きっと……もっともっと素敵な歌を歌ってくれると思います」
「ああ、私もそう信じているよ」
 男は力強い口調でそう言ったかと思うと、ふいに、音無君、と小さく彼女の名前を呼んだ。
 彼はその言葉を発することをためらっていたが、やがて意を決したように口を開く。
「本当は君も、もっと歌いたいと思っていたんじゃなかったのかね」
「…………」
「この会社を立ち上げて、君をもう一度プロデュースすると誓って。しかし君は、事務員として勤めることを希望した」
 男の話に、彼女は柔らかな笑みを浮かべたまま耳を傾けている。

「君は、自分の歩いてきた道に――」
「後悔なんてしてません。だって私は、高木プロデューサーと同じように、
夢を追いかける子の背中を押してあげたいって、そう思ったんですから」
 彼女は窓に背中を預けて言うと、そのまま続けた。
「私が歌う歌は、ステージの上で歌う歌じゃありません。この場所で――765プロで歌う、みんなへの応援歌です」
「小鳥君……」
 男が顔を上げると、窓から差し込む光に照らされた彼女の笑顔がそこにあった。
 年齢の割に幼く見えるその笑みに、あの頃と同じように男は吸い込まれてしまう。
 まったく、あれから何年も経ったというのに。男は思わず笑ってしまった。

「私は、自分のしていることに誇りを持っています。765プロに関わる人、全てに出会えてよかったって思います」
 その言葉には、ほんの少しの迷いもない。
 男はじっと黙ったまま彼女の話を聞いていたが、ゆっくりと目を伏せると、
「……ありがとう」
 男のその小さな呟きに、彼女ははい、と元気よく応えた。
「社長、私、きっと今ならあの時よりももっと素敵な歌が歌えると思います。聴いて……もらえますか?」 
 彼女がそう言うと、男はもちろん、と頷いた。
 ――そして、小さな社長室がステージに変わる。
 その狭さを忘れさせてしまう、澄んだ歌声。自在に音を操り、伸びやかで、まっすぐな歌。
 その歌は男の心を掴んで離さず、彼の顔に笑みと涙を浮かべさせた。 



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