事務所と電話と…

作:名無し

今日のレッスンノルマを終えた私は事務所への帰路を歩く。
先ほど用事があるから先に戻っててと言った、春香の普段見せることのない、
すこし沈んだ表情の意味をなるべく考えないようにしながら…。

 早足で歩けば数分とせずに見えてくる、すこしくたびれた様子の雑居ビル。この中に私たちの所属する765プロの事務所はある。
「おかえりなさい、千早ちゃん。」
雑居ビルの階段を登り、事務所のドアを開けるとそう明るい声が言う。
事務員の音無小鳥さんの声です。
鞄を片手に持って帰り支度をしているようです。
「音無さん、帰られるところですか?」
「事務所に誰か戻ってきたら帰ろうかなって。あれ?春香ちゃんはいっしょじゃないの?」
考えないようにしていた春香の表情がまた脳裏に浮かぶ。
「春香は用事を済ませてから戻るといっていたので。」
私は平静を装って言う。
「そっかー。じゃあ春香ちゃんが戻ってくるまで待っていたほうがいいわよね。千早ちゃんも帰っちゃうでしょ?」
「私は自主レッスンをしてから帰るつもりなので…。
帰るときに事務所の施錠はしておきますので、音無さんは残らないでもいいですよ。」
「そう?じゃあお言葉に甘えちゃおうかなー。千早ちゃんもあんまり無理しないのよ?」
そういって事務所を出て行く音無さんの姿を見送った後、私は事務所のレッスン場へと向かう。

 1人きりの自主レッスン。いつも私が自主レッスンするときに付き合ってくれる、春香のいない1人きりの。
今日は本当は自主レッスンをするつもりはなかったのだ。
でも、先に戻っててといった春香の表情を見たとき、おもわず口から出たのだ。
きっと無意識に自主レッスンでもしていれば、考えることから逃げられると思ったのだろう。
私の悪い癖。
何かに夢中になれば、その間辛い事や悲しい事を考えないですむという、現実から目をそむけるための逃避行動。
それが行き過ぎた結果、高校の合唱部のときのように居場所をなくしたこともあったのに。
今だって同じ過ちを犯そうとしているのではないだろうか?
暗い想像が頭の中を過ぎる。
私がやっていた自主レッスンに付き合うことが、春香にとっては大きな負担になっていたのではないのか?
自分が強要しているつもりはなくても、春香には強要しているように思われていたのではないのか?
思考がどんどん悪い方向に進む。
止まらない。
私は自分の考えを無理やり止めるため、レッスンに意識を集中させる。逃避行動だとわかっていても私はそうすることしかできない。
私にはこの答えの出ない不安を直視し続けることなどとてもできない。
春香が帰ってきたら直接聞けばいい…。
それまではレッスンに集中していよう… 

レッスンに没頭していた私は、事務所のから聞こえる声で我に返った。
女の子の声と男の人の声。どちらも聞きなれた声です。春香と、私たちの担当プロデューサーの声。
声はレッスン場の扉の前まで近づいてくる。扉が開く。
春香の姿を直視できないまま、私は口を開く。
「はるk…」
「ごめんね、千早ちゃん遅くなっちゃった。私も自主レッスン一緒にしていい?」
私が言い終わるより先にかけられる春香の声。
「え?」
意外な声に、思わず春香の顔を見る。

そこにあったのは、さっきの沈んだ表情ではなく、いつもの春香の笑顔。

「それは別にかまわないけど…。春香、無理に付き合わなくてもいいのよ?」
「無理にじゃないよ、千早ちゃん。千早ちゃんががんばってるのに私がさぼってるわけにはいかないよ。」
プロデューサーの方を見る。
「んー、春香がやる気なんだから別にいいんじゃない?俺もたまには二人の様子を見とかないとダメだしな。
まぁそのおかげで俺とビールの幸せな時間はしばらくお預けだが。」
私の視線を感じたのか、プロデューサーがそう言いいながら床に腰を下ろす。
「千早ちゃん、何から始める?」
そう問う春香の表情に、すくなくても私の目には、さっきの暗い様子は見れない。
「そうね、じゃあ今日の復習から…。」
私はそう答える。
何があったのかはわからない。でもせっかく春香が付き合うと言ってくれているのだ。今は目の前のことに集中しよう。
逃避のためでない自主レッスンに…。


 自主レッスンを終え自宅に帰りついた私は携帯を片手に持ったまま悩んでいた。
あの後終電近くまでレッスンをしたけれど、その間春香は沈んだ表情を見せることはなかった。
そして、わたしは結局暗い表情をしていた理由を聞けないまま春香と別れてしまったのだ。
家に帰った後も携帯で訊こうとも考えたが、それも出来ずにいるのだ。

ふと思いついたことがあり、プロデューサーに電話をかける。
「もしもし、夜遅くにすいません。プロデューサー今少しお時間をいただけますか?」
「千早、どうした?今からやっと至福の時間だと思ったんだが…。」
「プロデューサー、すこしお尋ねしたいことがあるんです。」
「なんだ?なんだ?」
「単刀直入に言います。今日事務所に来る前に春香に何か言われましたか?」
少しの沈黙の後、ため息をしてプロデューサーが話し始める。
「あー、言われたといえば言われた。でも内容は話すわけにはいかない。」
「それはどうしてですか?」
嫌な予感 

「俺の口から言っていい内容だったら、きっと春香は千早に言うだろうし、
春香が言わないならそれは俺が言ったらダメってことだろうからな。」
「…」
「千早、春香にだってお前に言えない悩みがあるんだよ。千早のことを信頼しているからこそ言えない悩みがな。わかってやってくれ。」
それは私だって同じだ。春香に直接訊けないから今プロデューサーに電話しているのだし。
「それに、こういうことで悩むのはおれの仕事だ。
タダでさえ出来のいいアイドルの担当になって少ないおれの仕事を取ってくれるなよ?」
「プロデューサー…。」
「俺の仕事は、二人の仕事を取ってくることと、こういうことで悩むこと、
あとは二人が無理してると感じたときにストップをかけることぐらいなもんだ。」
プロデューサーは言葉を続ける。
「だからな、千早。自分のやってることを信じてやれ。ダメだったら俺が修正する。わかったか?」
「その言葉信じていいんですね、プロデューサー?」
「大船に乗ったつもりでいろよ!っといいたいが、信じられるかどうかは今までのことから千早自信が判断してくれ。
もちろん俺自身は信じて欲しいと思ってるけどな…。」
思い出す。
オーディションの時、誰よりも私たちの合格を信じ応援してくれているのは誰だったのか。
今までアイドルを辞めずに続けてこられたのは誰のおかげだったのかを。
「すいません、プロデューサー。愚問でしたね。」
「俺も千早の期待に添えるよう全力で努力させてもらうよ。っと、今日は疲れてるだろうし、早く寝ろよー。
明日の仕事に寝坊して遅れてきたら承知しないからな。」
「そんな!私はプロデューサーとは違います。仕事に遅れるなんてしません。」
「遅刻しそうなのは春香のほうだな。あとでメールいれとくか…。っとビールがぬるくなるからそろそろ切っていいか?」
「はい。お手間をとらせてすいません。それはでは、おやすみなさい。」
「おう、おやすみ。」
そういって電話は切れる。

今は合唱部の時とは違う。
そんなことに自分は気づいていなかったのだろうか?
今の私には、失いたくないものと、自分の居場所を守ってくれる信頼できる人間がいるのだ。
だから、自分だけが悩む必要もない。
今日の自分はどんな表情をしていたのだろうか?もしかしたら私が見た春香の表情のように沈んだ顔していたのかもしれない。
春香が笑顔を取り戻したのだ。私もいつもの私に戻れるように努力しなければ。

私の大切な人たちのために…。

                              〜終〜 





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