この手にあるもの

作:名無し

 時間はめぐりめぐって、それで私の手には何が残ってるんだろう、って思った。
 
 最初の一年は、何もかもが新しくて。
 目に入る、耳に吸い込まれる、手に触れるもの全てが自分の身になっていくのを感じた。
 「天海春香」の名前が世間に広がっていくのを見るのはなんだか気恥ずかしくて、変な気分だったことをよく覚えている。
 
 二年目は、自分の歌を磨き上げる時間だった。
 レッスンを重ねれば重ねるほど、努力をすればするほど、自分の喉から飛び出す音楽が、
より繊細なものになっていくのがはっきりと感じられた。

 三年目は、ただひたすらに目の前にやってくる仕事に向き合っていた。
 仕事の依頼は増える一方で、営業活動として外回りや挨拶周りをしなくたって、
自由な時間がほとんど残らないほどの量の仕事が常に流れ込んでくる。
 私のスケジュール帳は、いつだって真っ黒だった。
 
 目まぐるしく流れる時間。一般的に見ればそれは確かに充実した生活で――いや、私自身、楽しい生活だって思っていた。

 だけど、ふと思ったんだ。
 私の手に、いま、何が残っているんだろうって。
 初めてあの小さな事務所に足を踏み入れたときよりも私は大人になって、私が紡ぎだす音楽は確かに美しくなって。
 私は変わった。変わったと、思う。
 だけど、何も変わってないな、とも思う。
 この手に残ったものが、私には見えない。 

 初めて私の担当になったプロデューサーさんは、最初はなんだか頼りない印象を受けた。
 それでも優しくて一生懸命な人だったし、私のちょっとした変化にもすぐ気が付いて、
私が道に迷ったときにはいつだって手を差し伸べてくれた。
 ちょっととぼけたところは私に似てるかも、なんて思ったけれど、
何の取り得もないこの私の名前を世間に広めてくれたのは間違いなく彼の力で、
そう考えると、ああ見えてもやっぱり腕のある人だったんだな、って思う。

 二年目から担当になったプロデューサーさんは、物静かで落ち着いた人。
 だけど彼の持つ音楽の知識は本当に豊富で、そのレッスンの密度の濃さに驚くばかりだった。
 口数は多くないけれど、彼の指導は本当に丁寧で、目に見えて自分の歌が変わっていくのが楽しかった。
 
 三年目に出会ったプロデューサーさんは、とっても元気な人だった。
 私の腕を掴んでぐいぐい引っ張っていってくれる人。
 それまでの活動で出来上がった「天海春香」のイメージに捕らわれないようにと、
彼はこれまでに挑戦したことのないような仕事をたくさん持ってきた。
 最初は戸惑ったけれど、初めての経験は私をより一層成長させてくれた。

 四年目になって、初めて女性のプロデューサーさんが担当になった。
 彼女が言うには、最近は女性のプロデューサーも増えてきたけれど、彼女がまだ新人だった頃は同僚のほとんどが男性だったという。
 彼女も事務員として働くことを勧められたけれど、頑として譲らなかったんだとか。
 そんなことを話す彼女に、ところでプロデューサーさんっていま何歳なんですか、と尋ねると、
彼女は窓の外に視線を向けて口笛を吹いた。

 彼女とはまだ半年しか一緒に活動していないけれど、すごく能力のある人なんだっていうのはよく分かる。
 私がそう言うと、彼女は、そうならざるを得なかったから、と笑った。 

 歌は誰かを楽しませるものだって、私はずっと思っていた。
 アイドルとしての活動はもう四年目に突入して、周りの環境はいろいろに変わったけれど、それだけは変わらないと思っていた。
 変わってはいけないものだと思っていた。
 だけど、この頃から疑問が生まれてきたんだ。
 ねえ、私の歌って、誰かを楽しませているのかなぁ、って。

 歌は技術だけで作るものじゃないのよ、春香。
 そんな言葉を千早ちゃんから向けられたのは、珍しく午後がまるっとオフだった水曜日のことだ。
 だらしなく事務所の休憩室にあるソファにもたれて、
午前中に買った手作りお菓子の雑誌を読んでいた私が、何気なく漏らした言葉に対して。

 ――千早ちゃん、私の歌って変わったのかなぁ?

 歌は技術だけで作るものじゃない、なんて言葉、千早ちゃんから聞くとは。
 そんな私の思考はどうやら雑誌で半分隠した表情からも読み取れてしまったらしく、
千早ちゃんは私のおでこを小突いて、悪戯っぽく笑った。
 こんな茶目っ気のある動作がさらりと出来ちゃうあたり、千早ちゃんは変わったなって思う。
 もちろん、良い方向に。
「ね、千早ちゃん。私の歌って上手くなったかな」
「もちろん。どんなに歌の知識がない人だって、そんなの聴いていれば分かるわ」 
 千早ちゃんの返事に、ほっと息をついた。そう、私の歌は上手くなっている。
 デビューしたての頃は世間で、天海春香の歌はちょっとアレだ、なんて言われていたのを私はちゃんと知っている。
 プロデューサーさんにはっきりそう言われたからだ。
 現状を知ったうえで、成長していこう、というのが彼の方針だった。
 
 アイドルなんだし可愛ければいいんじゃない、なんて世間の声に甘えるなよ。
 力のない奴は、簡単に転げ落ちていく世界なんだから。
 真剣な彼の言葉に私は頷いて。
 特に春香は転びやすいから、階段の頂点ですっ転びそうで俺は不安だよ、という彼の言葉に私は笑って。
 それからはっとしてそれどういう意味ですか、と怒って。
 そんなやりとりをしたのは、もう三年前の話。 

「春香の歌は確かに上手くなったけれど」 
 千早ちゃんが口を開く。ああ、その続きを言って欲しくないって思った。
 薄々感じていたそれを、はっきりと人の口から聞くのが怖かったから。
 だけど千早ちゃんは、それを飲み込むことはしない。
 多分、それが一番良い選択だって彼女は知っていたのだろう。

「私は、昔の春香の歌の方が好きだった、って思う」 
 ねえ、千早ちゃん。遮るようにして言った。
「千早ちゃん、私」 
 千早ちゃんが私を見た。まっすぐな目、だね。
 私ね、千早ちゃんの歌、どんどん素敵になっているって思うんだ。
 あんなまっすぐな歌を歌える人を、私は他に知らない。
 ううん、ひとりだけ知ってる。
 そういうまっすぐな歌を歌える人を、私はひとりだけ知ってる。
「千早ちゃん、私も、そう思うよ」 
 口から漏れた言葉は自分で思った以上にはっきりとした音で。
 静かなこの部屋で、やたらと大きく響いた。

 千早ちゃん、私の歌って、誰かを楽しませているのかなぁ。
 その問いかけは、口には出さなかった。だって答えはもう分かってる。
 私には、たくさんのファンがいる。応援してくれる人がいる。だから、その問いかけの答えはイエスだ。
 だけど、多分、ノーでもあるんだと、思う。 

 それは、ある日のこと。本当に些細なことだった。
 ちょっとした衝突。なんてことはない、意見の食い違いだ。
 ミーティング中、来週のステージの演出に関して、プロデューサーさんと言い争いになった。
 それ自体はさして珍しいことでもない。
 プロデューサーさんは意見があるなら遠慮なく言いなさい、というスタンスだから。
 もちろん、そのスタンスの裏側には、その分私も遠慮なく言わせてもらうけどね、という注釈が入るのだけれど。

 あーでもない、こーでもない。そんな言い争いをして。
 いつもなら、お互いに一歩ずつ歩み寄って、納得いく答えを出そうとしたはずなのに。
 イライラしていた、ずれ始めた歯車にもどかしさを感じていたから、言い訳ならいくらでも出てくる。
 だけどそんな言い訳をしたところで、そのとき心に浮かんだそれが、私が生み出したものであるということに変わりない。

 あの人だったら、もっと私の意見を聞いてくれるのに。

 口には出さなかった。それでも、私は確かにそう思ったのだ。
 頭に浮かぶのは、ひとりの男性。この世界に入ったばかりの頃、私の手を引いてくれたあの人の、顔だ。
(……ああ、私、いま)
 多分、私はいま、すごく酷いことを考えた。
 目の前で、私のためにいろいろな意見を出してくれている彼女に対して、ものすごく酷いことを考えた。
 今まで、そんなこと一度だって思ったことなかったのに。
 ぽろりと、胸の奥からそんな考えがこぼれてしまった。
 もしもプロデューサーさんが、前にプロデュースしていた子と私を比べたとしたら。私なら、すごく悲しい。 

 あの子の歌はどんどん素敵になっていくのに、春香の歌からはどんどん魅力がなくなっていくわね。

 そんな言葉を向けられたら、どれほど悲しいんだろう。きっと、今の私にはそれを跳ね返す力はない。
 そんな酷いことを、私はいま考えたのだ。
 なんだか彼女の顔を見ることが出来なくなって、私は目を伏せた。 

 歌は誰かを楽しませるものだと言うけれど。
 人を楽しませる歌って、どんな歌なんだろう。私は、どんな歌を歌っていたんだろう。
 千早ちゃんが好きだと言った、私の歌ってどんな歌だったんだろう。
 思い出そうとしたけれど、それはもう昔のことすぎて思い出せない。
 でも、思い出せたとしても、今の私じゃもう歌えないんじゃないかって思う。



 あのミーティングで、今日の仕事は終わりだった。
 まっすぐに家に帰る気にもなれず、今日は少しだけ寄り道。
 コンビニで買ったジュースを片手に、私は近くの公園にやってきた。

 もう空は暗い。
 誰もいない公園はどうしてだか居心地が良くて、私はベンチに腰を下ろして足を思い切り伸ばしてみた。
 サンダルが足から滑り落ちて、カラン、となんだかマヌケな音を立てる。
 なんだか、その音がやたらと大きく響いたような気がした。
「……からっぽ」
 からっぽだ。
 頭の中も、何もかも。
 私はカバンから携帯電話を取り出すと、指先を使ってぱかりとそれを開いた。
 白い灯りが辺りを照らす。そして、アドレス帳から、彼の名前を探し出した。 

「――もしもし?」 
 低く響く声が聞こえてきたのは、コールが三回響いた後だった。
 何ひとつ変わっていないその声を聞いたら、どうしてだか目頭が熱くなって、やがて涙が頬を伝った。
「……プロデューサーさん、たすけて」 
 一体何があった、と彼の声が深刻になった。そこに誰かいるのか、何かされたのか、怪我はないか。
 矢継ぎ早に質問してくる彼の声に、私は違うんです、そうじゃなんです、と繰り返した。
 プロデューサーさんは要領を得ない私の言葉に戸惑っていたようだったけれど、
それでも私の身に危険があるわけではないことを確認して、ほっとしたように息をついた。

「春香、今どこにいるんだ? 会いに行こうか?」 
 本当に優しい人だ。あんまりに優しいから、だから私は、きっとしがみついてしまうんだ。
 彼に、それから、あの頃の自分に。
「プロデューサーさん、私どうすればいいんでしょうか」 
 そう切り出すと、彼はうん、と相槌を打ってくれた。
「ときどき思うんです、私の手には、一体何が残っているんだろうって」 
 それはどういう意味?とプロデューサーさんが言う。私はよく分からない、と返す。
 ああ、これじゃあ会話にならないじゃないか。そうは思うけれど、それ以上の答えを返すことが出来ない。
「この四年の間に、私、いろんなものを得たと思うんです」
「うん、そうだね」
「そのはずなのに、私の手からは何もかもが零れ落ちていくばっかりで、
そして今、自分の手を見たら何も残っていないって、そう思えたんです」

 一年目の活動を終えたとき、私の手の中は、持ちきれないほどにいっぱいになっていたはずなのに。
 それから、ぽろ、ぽろ、とひとつずつ、それは零れ落ちていって。
 気が付いたときには、私の手には何も残っていなかった。 

「自分の手には何もないって、春香は思うのか」
「……多分」
 いろんな人が私の周りにはいて、みんながそれぞれ良い人で。
 私にたくさんのものをくれたはずなのに。
 それなのに、どうして私の手には何も残っていないんだろう。
 どうして私は、こんな風に、一本の電話にすがってしまうんだろう。

 私の周りはいつだって慌しく変化していて、動いているはずなのに、なんで私だけが変われないんだろう。
 変わってしまった私は、どうして変わることが出来ないでいるんだろう。
 ああ、もう。自分でも意味が分からない。
「プロデューサーさん、私」
「うん」
「もしかしたら、もう歌えないかもしれません」
「もう歌いたくないか」
「引き止めますか?」
「まさか。俺はもう春香のプロデューサーでもなんでもないしね」 
 酷いことをさらりと言ってくれる。けれど、プロデューサーさんは気にした様子もなくそのまま続けた。

「けど、そうだな。ひとりの……友達として言わせてもらえば」
 あの、それも何気に酷い言葉だって気が付いてますか?
 振った相手に友達、なんてちょっとデリカシーが足らないと思います。
 なんて、そんなことはもちろん言わないけれど。
「俺は春香の歌、好きだけどなあ」 
 さも当たり前のように言った。それが嘘なのか本当なのか、私には分からない。
 だって彼はたとえ嘘のようなことだって、それを本当に信じてまるで真実のように言ってしまう人だから。
 俺、春香は絶対にトップアイドルになれると思うよ?
 そんなことをさらりと言ったのは、私はランクEの頃だったかDの頃だったか。
 根拠のない言葉だって思ったけど、どうしてだか信じてもいいんじゃないかって思えた。 

「千早ちゃんには、昔の私の歌の方が好きだって言われちゃいました。私も、そう思うんです」
「そっか」
「もう昔みたいな歌は、歌えないんじゃないかって思って」
「――いま、辛いか」
「辛くは、ないです。だけど、なんか心の中がからっぽで」 
 いつだって目の前の出来事に、目の前の人に向き合っているつもりでいたのに。
 結局私はこの数年間後ろを向いたままで、空っぽになった心は醜いことを考える隙間を生み出してしまって。
 そんな状態で歌う歌が、誰の心に届くって言うんだろう?
 きっと、誰の心にも、届かないよ、ね。

「春香。疲れたんなら、休んでいいんだよ」
「だけど、私の周りにはたくさんの人がいて、たくさんの人の生活があって」
「春香」
「私は、身動きが、取れないん……です」 
 ああ、そうか。この胸の苦しさの正体が、ようやく見えた。
 自分の周りがどんどん変わっていって、大きくなっていって。それが、きっと私は怖くて。
 だって、変化は当然のことながら私にも訪れるから。
 変わっちゃいけないものまで変わってしまうのを、私はずっと感じていた。
 だけど、引き返すことが出来なくて、ただ進むことしか出来なくて。
 そして私は、自分の歌が見えなくなってしまった。

「怖かったんだな」
「分かりません」
「話してくれてありがとな」
「聞いてくれて、ありがとうござます」
 そんなやりとりをしたら、ちょっとだけ心が軽くなった。
 と、彼が「なあ春香」と切り出した。

「今のプロデューサーと、ちゃんと話をしてみな。いま思ってること、全部」
「怒られないでしょうか……? 甘えてるって」
「ん? 怒られると思うよ?」 
 そこは大丈夫、って言うところだと思います、プロデューサーさん。
 そう突っ込むとプロデューサーさんは、けらけらと笑う。
「そりゃ怒るさ。なんでひとりで悩んでたんだ、ってな。俺だったらめちゃくちゃ怒る。
そんで、気が付いてやれなかった自分をこれでもかってくらいに責める」
 その様子が容易に想像できた。彼はいつだって、私のことを考えていてくれて。
 ううん、彼だけじゃない。私の周りにいた人は、いつだって私のことを考えてくれていて。 

「プロデューサーさん、私、ちゃんと話してみます」
「うん」
 プロデューサーさんが返事をすると、電話の向こう側で、彼を呼ぶ声が聞こえた。
 きっと彼が今担当しているアイドルの女の子だろう。
 プロデューサーさんはそれじゃあ、と電話を切ろうとして「あ、ちょっと待った」と言った。
 どうかしましたか、と尋ねると、彼はコホンと咳払いをして、
「――俺は春香の歌、好きだよ」 
「さっきもそれ、聞きました」
 私がそう言うと、あれ、そうだっけ、と彼は笑った。

 電話を切ると、なんだかさっきよりも公園の静けさが増した気がした。
 ああ、この静寂は、まるで。まるで、ステージが始まる前のような。
 歌っても、いいかな。
 誰に許可を求めるわけでもなかったけれど、そう呟いてから、私は大きく息を吸った。

 ――ゴツン。

 私の喉からは歌声は飛び出してこなかった。代わりに私を襲ったのは、鈍い音と後頭部の痛み。
 いったい何事、と振り返ると、そこには鬼のような形相でこちらを見ている女性がいた。
 その手には、おそらくこの後頭部の痛みの正体であろう拳が握られている。
「こら、春香」
「プ、プロデューサーさん」
「こんな暗い公園にひとりでいるなんて危ないでしょう。
まったくミーティングが終わったら、すぐに帰りなさいって言ったのに」 

 ああ、怒られてしまった。まあ確かにちょっと危機管理がなってないかなって思うけれど。
 私が肩をすくめて苦笑すると、彼女はやれやれとため息をつきながら私の隣に腰を下ろした。
「ホント困ったアイドルだわ」
「あ、あはは……」
 苦笑して、それから足元に目をやった。
 ちゃんと話をしてみな、と言った彼の言葉が思い浮かぶ。多分、今がそのときだ。

「あの、プロデューサーさん」
 そう切り出して、私は彼女を見た。
「私の話、聞いてくれますか」
 上手く言えないかもしれないけど、いま思ってること、全部。
 そう続けると、彼女は少しだけ驚いたように目を丸くしていたけれど、すぐに優しい笑みを浮かべて、どんと胸を叩いた。
「……うん、ちゃんと全部聞く。ううん、聞かせて欲しい、春香が思ってること、全部」
 すごく、優しい目をしてる。
 そんな彼女を見ていたら、ああ、そうなんだって思った。 

 確かに私の周りはどんどん変わっていってしまったけれど、
 それでもこうやって、まっすぐに私を見てくれる人はいつだっていた。
 私を支えようと頑張ってくれる人は、いつだっていた。
 そんなこと、分かっているつもりだったのに。
「プロデューサーさん、私――」
 それからは、ぽろぽろと言葉が漏れた。
 いま、私の胸の中にある気持ちを、向き合いたくない醜い気持ちすらも全部吐き出して、彼女に受け止めてもらおうと思った。
 多分それが、まっすぐに私を見てくれる彼女に、しっかりと向き合うってことだと思うから。

 全てを話し終えるのにどれだけの時間がかかったのか。
 何もかもを吐き出し終えた私に、プロデューサーさんは笑いかけた。
「ねえ、春香。アイドル、ちょっとだけお休みしようか」
「……社長さんに怒られちゃいませんか?」 
「そこらへんはこの敏腕プロデューサーに任せてくださいな」
 けらけらと笑いながら自分の胸をトンと叩くその姿に、思わず笑ってしまった。
 彼女は小さく息を吐くと、にこりと笑って私の目をまっすぐに見つめる。
「いい? またステージに戻りたいって思ったら、すぐに連絡すること」 
 そんな彼女の言葉に私が頷くと、プロデューサーさんはヨシ、と口角を上げた。
「私は、天海春香の歌が大好きなんだからね」

 歌は誰かを楽しませるものだと言うけれど。
 人を楽しませる歌って、どんな歌なんだろう。私は、どんな歌を歌っていたんだろう。
 思い出そうとしたけれど、それはもう昔のことすぎて思い出せない。
 でも、私の歌で、あなたを、みんなを笑顔に出来たらいいなって思うんです。そう思えることが嬉しいんです。
 だから、また歌えると思ったときが来たら、必ず。


 私の手に、いま、何が残っているんだろうって思った。
 多分、何もないんだろう。
 でも、この手にあるものが、私には見える。 








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