ハンデとリードとペナルティ

作:183

世界は真っ暗だ。
別に破滅思想を掲げる邪教に身を浸しているわけではなく、毎年起きる異常気象に地球の未来を案じている
わけでもない。理由は単純で物理的。
目を瞑っているから。
正気を疑われそうだが、至って真面目な話だ。
一日目は、まぁ社会人にはよくある事で、学生の時分にも何度も体験していたものだ。二日目は、俗に言う
ナチュラル・ハイというやつで、問題無く切り抜けた。三日目、濡れた服を着ているかのように体が重く、
気を抜いた瞬間襲い掛かる眠気は何度も顔を洗うことで追い返した。四日目、張り詰めた糸が切れたように
体はダルく、常に倦怠感が付き纏っていたが、不思議と頭は冴えており仕事は捗った。そして五日目の今日に
至る。
つまるところ、徹夜五日分の疲労は重く伸し掛かり、瞼を開くという単純作業をボイコットさせていた。
かろうじて線状に映る世界から、食べかけの携帯食品を見つけ出し口に放り込む。あっという間に口内の水分を
吸い取ったそれを葬る為に、手探りで引き寄せた紙パックの野菜ジュースで無理矢理流す。携帯食品の半端な
甘味と野菜ジュースの微妙な酸味が低いレベルでマッチし、食欲を根こそぎ消してくれる。
腹に入ればなんでもいいと思ったのだが、せめて違う味を選ぶべきだったと後悔していると、後ろでドアの
開く音が聞こえた。
「おはようございまーす」
こんな時間に出勤してくるのは、泊り込んでいる自分を除けば彼女でしかあり得ない。最も古株の社員だと
いうのに、誰よりも早く来る彼女には頭が下がる。
「おはようございます、小鳥さん」
と、いつもならここから一言二言交わすのだが、投げたボールは返ってこなかった。というか、小鳥さんが
動いた気配がない。流石に後ろ向きで挨拶は失礼だったかもしれない。半開きの目を見せるよりは、と思った
のだけれど。
謝罪のパターンを数通り思い浮かべている内に、背後の剣呑な空気はどんどん膨らんでゆく。
「……昨日も朝一番に来てましたよね」
自分の予想していた類の質問ではないが、とりあえず答える。
「…はい」
「その前も早かったですよね」
矢継ぎ早に二つ目。
「……そうですね」
なんだろう、答える度にプレッシャーが増す。昔のボロ事務所とは違い空調がしっかりしている部屋で、汗が
垂れる。
「きちんと眠ってるんですか?」
「………えー、まぁ仮眠くらいは」
とっていません。最後の台詞を付け加えるのは危険な気がしたので、濁しておこう。 

まず眠っている暇がないのだ。事務所が多少大きくなり、社員も所属アイドルも僅かながら増えた。人手不足で
事務所の全アイドルを担当していた頃とは違う。が、彼女たちそれぞれにプロデューサーをつけようという話が
挙がった時に、反対した。一度手掛けた彼女たちを、途中で他人に引き渡すのは気が引けたのだ。我儘だな、
と半ば諦めていた提案は、以外にもあっさりと聞き入れられた。彼女たちの後押しもあったという噂があった
が、真意の程は定かではない。
結果、約十名を受け持つ多忙な日々が続いている。スケジュールの管理だけでも一苦労だが、やり甲斐はある。
そしてもう一つ――
「一体どこで寝たんです。プロデューサーさんからの休憩室使用の申請はありませんでしたけど」
そうなのだ。新しい事務所には休憩室――つまり仮眠部屋――が備わっており、その使用には小鳥さんの許可が
必要だった。
初めは自由に使う事ができた文字通り憩いの部屋だったのだが、際限無く泊まる輩(主に自分)が出てきた為、
外側には鍵が設置され、小鳥さんのオッケーサインがなければ使用不能となってしまっていた。その際「これ
からは家に帰って休んでください」と底冷えのする声と寒気のする笑顔で叱られたというのに、徹夜しました
とは言えない。
カツカツと靴音が近付き、くるりと椅子が半回転される。肩に伸し掛かっていた圧力は尖り始め、今は突き
刺さるものに変わっている。

ここ数日の事を根掘り葉掘り聞かれた。警察の厄介になった事はなかったが、尋問とはこういうものかもしれ
ない、と思わせるに十分な体験だった。

「休憩室の鍵を開けますので、今日は業務終了の時間まで休んでいて下さい。書類関係はこちらでやっておき
ます」
ありがたい話だが、素直に頷くわけにはいかない。数名に今日は合同練習をやると言っていたし、小鳥さんに
迷惑をかけるわけにもいかない。ここは頑として断るべきだ。
「いえ、そういうわけには」
「なにか?」
「休ませていただきます、はい」
引き際を見極めるのも重要だろう。わざわざ落ちると分かっている橋を渡る道理はない。 

基本的にソロで活動している彼女たちだったし、普段のレッスンは個別に指導している。けれども稀に、合同
練習、または合同レッスンの名の下で、数名呼びつけることがあった。
出来の悪い者に補習を……といった事ではなく、仲間意識を強める為といった意味合いの方が大きい。それに
他人とレッスンを共にする事で、長所短所を再認識する事もできる。
幸い今日のメンバーである春香、真、美希は、それぞれ得意分野の異なる三人だ。トレーナーの指示は勿論
大事だが、同じ立場の人間の言葉はそれ以上に大事だ。指導はできなくとも、助言ができてくれればいい。
やよいもいる。人一倍頑張る娘だから、それを見て周りはサボろうとはしないだろう。
この四人なら少しの間自分が居らずとも、上手く機能してくれるはずだ。多少の期待も含めつつ、そう結論
付けた。

事務所に来た彼女たちに、大まかな説明をした。反応は……ない。
目の前に確かに不可思議な事柄があるというのに、何事も無いように話を進められているので、どう指摘して
いいか迷っているようだ。このままスタジオに向かってくれれば一番いいのだけれど。
こういった場面で口を開くのは、あまり物怖じしない真か、
「ねぇハニー。なんで目つぶってるの?」
空気の読めない美希だ。
さて、どう説明したものか。洗いざらい正直に吐く?まさか、できるわけがない。「さぁスタジオに向かって
くれ。俺は眠るから行けないけど」なぞと言おうものなら、暴動が起きてもおかしくはないだろう。

「あー!まだそんなトコにいたんですか!」
いざ言い訳をと思い立ったところで、看守から面会終了が告げられてしまう。
「五日も寝てないんでしょう!まったく、途中で倒れたりしたらどうするんですか!?」
説明する手間が省けた……のか、これは。急いで別の言い訳を再構築しようとしたが、それよりも彼女たちの
行動は早かった。合同練習の意義を半分失うぐらいに。
「真、上着を。私はネクタイを取るから」
「うん。大人しくしてください、プロデューサー」
「ちょっとまった、引っ張るな!おい、美希!ベルトを外すんじゃない!」
三対一、しかも視界不良の今の自分では、この猛攻を防ぐ術が無い。
「うっう〜!ベッドの準備、でっきましたー!」
遠くからやよいの声が響く。げに恐るべき団結力。今すぐ四人でユニットを組んでもいいんじゃないか、と
思えてしまう。
「さ、あとは私が引き継いでおきますから。お休みなさい、プロデューサーさん♪」
バタン、ガチャリ
明るい口調とは裏腹に、かなり力強く背を押され、休憩室へと放り込まれる。
……仕方が無い。ここまできて皆の厚意を無碍にするのは、愚か者のやることだろう。中から鍵を開ける事
はできるが、それをやってしまうと、本気で小鳥さんを怒らせてしまいそうだ。
あまり上等ではない、少し固めのベッドへ身を沈める。トイレはどうしたらいいんだろう、と下らない事を
考えている内に、脳は睡魔の侵攻を許してしまった。 

     ◆
なるべく音を立てないよう、静かにドアノブを回す。
昼に一度様子を見に来たが、今もぐっすりと眠っていた。こんなに疲れているというのに、休むという選択肢
が出てこないのは、この人の不器用さと真面目さの証だろう。
そういえば以前食事の席で、何故そんなに頑張れるのか聞いた事があった。

「自分の為ですから。初めは強引にやらされてましたけど、今は自分の手でトップアイドルを育てたい、って
思ってるんです。こっちの都合を押し付けてるんで、彼女たちからは嫌われそうですけど」

そうやって笑いながら頭を掻く彼を見て、呆れ返ってしまった。
目的は違えど、彼女たちの目指すモノはトップアイドルなのだ。自分の夢の手助けをしてくれる人物を、嫌う
筈がない。好意を向けていると言い直してもいい。それに微塵も感付いていない事に呆れ、そして安堵して
しまう。自分にもチャンスがあるのだ、と期待してしまう。

きっかけは特にない。いつからか目で追っており、いつの間にか目が離せなくなっていた。陳腐な物言いに
なってしまうが、人を好きになるのに理由はいらないのだ。
ただ気持ちが同じだからといって、スタートラインが同じかというとそうではない。自分は、彼女たちの様に
この人の前で光り輝く事ができないのだ。接していられる時間も少ない。皆が活躍しているのを見ると、取り
残されたような感覚に陥る時がある。
でも……それでも、横に立って支えてやる事はできる。そう思っている。……だからといって、この大きな
ハンデが埋まるわけでもないけれど。

仮眠用にと置いてあるベッドは、決して寝心地の良いものではない。その証拠に、さっきから引っ切り無しに
寝返りを打っていた。だが丸一日眠った効果はあるらしく、今朝よりも随分顔色が良い。
そろそろ起こさなければならない。レッスンが終わったから事務所に戻ってくると、皆から連絡も入っていた。
が、じっと顔を見つめたまま動けなかった。
寝顔は、普段の頼りなさも手伝って、とても子供っぽく見える。こんな事を言えば、拗ねてしまうだろうか。
頬を撫でてみると、くすぐったそうに身じろぎする。嫌がる表情が面白く、もっとよく見ようとこちらの顔を
近づけていく。
――少しぐらいなら構わないだろう。皆とはだいぶ差が開いている。自己満足で終わるのは分かっているが、
心の平穏には一役買ってくれるかもしれない。これで多少はやきもきしなくてすみそうだし。
ぐちゃぐちゃと考えていたくせに、”自分がしたかったから”という答えに辿り着いたのは、唇が離れてから
だった。 

がやがや……
皆が戻ってきて、外が騒がしくなった。
王子からのキスは姫が目覚めるものだが、姫からのキスは魔法が解けるんだったか、と思い……そして、思い
直した。自分は姫という柄ではないだろう。とうに時間切れだ。さっさと起こすとしよう。
「プロデューサーさん、もう夕方ですよ。起きて下さい。皆もレッスンが終わって戻ってきています」
酷使した身体にはこの位の休息では足りないのか、ぼんやりとした目は焦点が合っていない。しかしこちらの
都合で悪いが、今顔を合わせるのは気恥ずかしい。無理矢理部屋から押し出す。
扉に背を預け、ふぅ、と一息。この熱い顔を冷ますには、もう少し時間が必要だ。早く部屋を出て、彼が仕事
を始めようとする前に、帰るよう促さなければ。
そこまで考え、異変に気付いた。
静か過ぎる。扉の向こうから声が聞こえてこない。おかしく思い、僅かに開けた隙間から外の様子を伺う。
見ると、彼を前にした彼女たちは、惚けた様に固まっていた。
「あれ?あのあのっ、ど、どうしちゃったんですか〜?」
訂正しよう。一名を除いて固まっていた。
視線は顔の方を向いている。なんだろう、寝癖?よだれの跡?自分は気が付かなかったが…………あ。
そこで、唐突に分かってしまった。
――今日は、ちょっと濃いめのモノをつけていたかもしれない。
無意識の内に、指が唇をなぞっている。慌てて、けれど音を立てないよう、ゆっくり扉を閉める。ドアノブ
から手を離した瞬間、まるでタイミングを計ったように、事務所を震わす大声が響いた。

『ああーーーーーーー!!!』

いずれこちらにも追求の手が及ぶだろう。せめて覚悟を決める時間ぐらいはあってほしい。
壁一枚隔てて聞こえてくる怒号のような質問攻めをBGMに、今日は帰れないかもしれない、とそんな事を
考えていた。 



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