あなたの名をよんだ。

作:名無し

「天海さん」 

ため口でいいよ、春香でいいよ、といつも私は言っているのだけれど、
彼女は、いつだって私をこう呼ぶのだ。『天海さん』と。 

「なぁに、如月さん」 

だから私も、儀礼として彼女をこう呼ばなければならないような気がした。 
今一歩が踏み出すことの出来ずにいるこの微妙な距離感は、 
――はっきりと認識できる範囲でだけれど――ゴールデンウィークが明けるに従い固まっていって、 
私の口は未だ「千早ちゃん」という言葉を紡ぎだせないのだった。 

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   あなたの名をよんだ。

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6月といってもまだ本格的な夏は遠いらしくて、暮れに染まる西の空からは寒さと湿気ばかりが向かってきていた。
窓の外から覗くのは、もう馬鹿としか思えないような橙色の快晴だ。 

現在地は、駅ビルの一角にその陣を構える765プロの社長室兼、アイドル候補生たちの溜まり場。
私と――同じアイドル候補生の――如月千早ちゃんは、そこの窓際に設置されたソファーに向かい合う形で座っていた。
と言っても、特に会話を弾ませている訳ではない。むしろ会話すらない。
ただ千早ちゃんは手元の楽譜(英語の表題だった。多分、オーケストラか何かの曲だ。いろいろ規格外。)に
視線を落としたままだし、私は私でソファーに腰掛けながらただぼんやりと時間を食いつぶしているだけだから。

「楽譜、こっちにください」 

突然、千早ちゃんが焦れたように言った。 
瞬間、弾きあげた視線。飛び込んできたのは、彼女の黒髪と、言葉以上に物を言う目だった。
ちょっと前までは彼女と目線を合わせる度、もしかして睨まれてるのかな、と思ったものだ。 

「……え?」 

しかして私は、声をかけられたと言う事実にびくりと反応を表した。
彼女の言葉の真意が判らず、一度小首をかしげて見せる。楽譜なら、そこ、あるじゃん……? みたいな。
彼女が指さした下方、目の前の机へ目を向けた。 

「あっ……」 

もれたのはそんな言葉。
私の膝元に、彼女が欲していた楽譜があった。
ああ、いつの間にっ、と心の中でごちりながら、私はさっと楽譜を手渡す。

「ごめん!」 
「いえ」 

たったの一言と、首をゆるやかに横へ振るアクションが返されて、 
そしてそれっきり、私たちは 

「…………」 
「…………」 

無言だった。 
取り付く島もない、と言う言葉が何度かよぎり、沈黙が痛い、なんて使い古された表現がめぐる。 
足元が微かに震えたのは、ビルの目の前にある大通りをトラックが走ったからだろう。

「……如月さん」 
「なんですか」 
「だからため口でいいって……」 
「すみません、天海さん」 
「だから春香でいいって……」 

何回目だ、このやりとり。 
私の口から、ため息は出てこなかった。 
その交代でか、顔に張り付たのはなんだかやるせない苦笑い。 

今一歩踏み出すことのできないこの微妙な距離感を、偉人はなんて例えたのだろう? 
でもでも、私には、なんだか彼女が私の名前を呼ぶときの響きが、どことなく寂しそうに響いていたのだ。
思い上がり、と一蹴されればそれだけだけど、
だから、なのだ。私は思い切って聞いてみた。 
相変わらず難しそうな顔で楽譜とにらめっこしている、彼女に。 

「ね。一つ聞いていい?」 
「なんですか?」 

「何でち……如月さんは、私のこと『天海さん』って呼ぶの?」 
「…………」 

相変わらず難しそうな顔で楽譜とにらめっこしていた、彼女は

「え……だって、」

と少し口ごもってから

「天海さんが、私を如月さんって呼ぶし……」 

と僅かに視線を逸らしながら言った。
いつも人を見据えて話す、彼女らしい威厳はまったくない。
変わりに、その雰囲気は、どこか、その、……ああ、うん。素直に認めます。かわいい。ワンコっぽいっ……!

「……う?」 

私は思わず固まった。
一方の千早ちゃんは、んん、と咳払いを一つし、きっぱりと割り切れたのかぺロっと、 

「だって、不公平じゃない」 

とのたまった。
そして彼女は、慌てる私を尻目に楽譜に視線を落す。
千早ちゃんの頬に赤みがさしているのは、窓から差し込む西日のせいじゃないと思いたい。 

私の頭の中をぐるぐると回るのは、ただ一言。

『どういうこっちゃ。』

だって、つまりそれって、彼女が私に遠慮してたようにも思えなくもなくなくて、 
私が彼女に遠慮していたような感じもしなくもなくなくないことで、 
……えーっ、あー、うー、うん、頭こんがらがってきた。
私は私を落ちつける為にも、胸の前に手を置いて一呼吸つく。 晴らすべきは、当然の疑問だ。

「じゃ、じゃあ、仮にだよ? 私が如月さん、じゃなくて、千早ちゃんって呼べば、」 

そう聞こうとしたのだけれど、その言葉が完全に出回る前に 

「私も春香、と呼ぶことにします」 

と回答ごと掻っ攫われてしまった。 
そっか、と曖昧な相槌を打ってから、私は一度唇を湿らせ、恐る恐る言ってみる。 


「ちはや、ちゃん……?」 


数秒、初心なお見合いよろしく見つめあい、


「なぁに、春香」


と呼び合う。
……くせになりそう、と思ったのはここだけの秘密。 


「えーっと、そっちこそ、ちはやちゃん」 
「春香こそ」 

「千早ちゃんー?」 
「春香?」 

少しの間があり、今度はどこか違う感触の沈黙が流れ、
机を中央に添えて、その対岸にいる私たちはその沈黙に耐え切れず。 

「は、ははっ……ははははっ!」 
「……ふふっ」 

笑った。 
なんだぁ、と拍子抜けした声を上げたのは私だった。
なんだ、こんな、簡単なことだったのか。
ソファーに背中を預けて、天井を見上げる。胸の奥がどことなく暖かかった。

うん、結局、私たちは歩み寄ってもらえるのを二人して待っていただけだったのだ。 
手にしたければ、傍に居てほしければ、願ってばかりいないで自分から行かないと行けないのに。
『幸せはなんとやら』だね、と呟いて、また笑って、
それからひとしきり笑った私たちは、二人してちょっと神妙な顔つきを作ってから 

「ねぇ、千早ちゃん。でも、これって、」 
「ええ、これって……」 

まるで恋人同士みたいだなぁと、やっぱり笑ったのだった。 


        了

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