ユメニオチル

作:缶珈琲

 優しく肩を揺さぶられて、私――秋月律子は目を覚ました。
「律子、そろそろ出番だぞ。準備をした方がいい」
 寝ぼけ眼をこする私に、そう話しかけてきたのは、
私の担当プロデューサーだ。
この仕事を始めてから今まで、彼とはずいぶんと長い付き合いになり、気心も
すっかり知れている。
「うーん……」
 まどろみの残滓を追い払うように、私は、小さく伸びをした。
「夢でも見てたのか?」
 プロデューサーが訊いてくる。
 そういえば、何か夢を見ていたような気もするが……ええと、どんな夢だっけ?
「……うーん、覚えてません。
なんだか、大げさな夢だった、って気はするんですけど」
 私がそう言うと、プロデューサーは苦笑の形に口元をゆがめた。
「やれやれ、すっかり大物だな。これ以上大げさな舞台はないだろうって時に」
「ま、そりゃそうですけどね」
 楽屋にいてさえ、ざわざわという喧騒が聞こえてくる。聞きようによっては雨音か
何かのようにも聞こえるそれは、今日のコンサートのために集まった、お客さん
たちのざわめきなのだ。
 ドームを埋め尽くしたその数は、ざっと十万人。
 それだけの数が、私一人のコンサートに詰め寄せていた。
 プロデューサーがしみじみと述懐する。
「正直、なんか実感わかないよ。俺の方こそ夢を見てるんじゃないかって気が
する……。律子はそんな風に思わないのか?」
「夢……ですか?」
「ああ。ここに来るまで、そりゃ失敗もアクシデントもいろいろあったけど、俺たち、
おおむね順調に人気を伸ばしてきたじゃないか。順調すぎて怖いって言うか……
何か、今までのことはみんな何かの間違いで、次の瞬間には消え失せてるんじゃ
ないか、とか……」
「……不安になるような事、言わないでくださいよぉ」
 私は眉をひそめた。
確かに、彼の言うとおり、どこか現実感を感じられない気分は、
私にだってあるのだ。
 私の不機嫌を察知してか、プロデューサーが苦笑いを浮かべつつ言う。
「おっと、すまん。俺が信じなくてどうするってもんだよな。さて、それじゃそろそろ
始めるか」
「はい」
 答えながら、私は立ち上がった。先に歩き出したプロデューサーを追って、
ステージへの通路を……
 ずぶり。
 奇妙な感覚が、私の足をつかんだ。
「……な、何よ、これ……!」
 リノリウムでできているはずの床が、まるで泥か何かのように柔らかい。私は、
くるぶし辺りまでをそこにめり込ませていた。
「律子、何やってるんだ、急げよ」
 プロデューサーの声がずいぶん遠い。
「ま、待ってください! 足が、足が……!」
 足を引き抜こうとして私はもがいたが、それはむしろ逆効果になった。
 ずぶり、ずぶり、ずぶり。
 ひざが、腰が、胸が、リノリウムの冷たい光沢の下に飲み込まれていく。
「プ、プロデューサーっ!」
 私が絶叫したその瞬間、世界が暗転した。 


 優しく肩を揺さぶられて、私――秋月律子は目を覚ました。
「律子、そろそろ出番だぞ。準備をした方がいい」
 寝ぼけ眼をこする私に、そう話しかけてきたのは、私の担当プロデューサーだ。
この仕事を始めてから今まで、彼とはずいぶんと長い付き合いになり、気心も
すっかり知れている。
「うーん……」
 まどろみの残滓を追い払うように、私は、小さく伸びをした。
「夢でも見てたのか?」
 プロデューサーが訊いてくる。
 そういえば、何か夢を見ていたような気もするが……ええと、どんな夢だっけ?
「……うーん、覚えてません。
なんだか、大げさな夢だった、って気はするんですけど」
 私がそう言うと、プロデューサーは苦笑の形に口元をゆがめた。
「やれやれ、すっかり大物だな。現状が不満か?」
「そういうわけじゃないですよ。
ここだって、今までの会場じゃいちばん大きいんだし」
 そう、今日のコンサート会場は、三万人を収容できる大舞台だった。前座として、
一度このステージに立った事はあるのだが、今日は私がメインである。
「そうだな、なんだかんだあっても、ここまで順調に来れたことを喜ばなけりゃな。
だいたい、おんぼろライブハウスやら、路上ゲリラライブやらでやってた頃に
比べれば、まるで夢のようだ……」
「夢、ですか?」
「ああ。ここに来るまで、そりゃ失敗もアクシデントもいろいろあったけど、俺たち、
おおむね順調に人気を伸ばしてきたじゃないか。順調すぎて怖いって言うか……
何か、今までのことはみんな何かの間違いで、次の瞬間には消え失せてるんじゃ
ないか、とか……」
 彼のその言葉が、なぜかひっかかった。
「プロデューサー、前にもそんな事言ってませんでしたっけ?」
「……そうだったか?」
 プロデューサーは、覚えがないとばかりに、首をひねっている。
その仕草がどこかこっけいで、私は思わず吹きだしてしまった。
「おいおい、笑わないでくれよ」
「いえ、覚えがないなら気のせいって事にしときますよ。さ、それじゃ……」
「おっと、そろそろ時間か」
「ええ。それじゃ行ってきますね、プロデューサー!」
 そして私は、歩き出し――足を踏み出したそこには、床がなかった。
「!!」
 支えをなくして、私の体は落下した。
空気が私の頬を叩く。果てしない黒の中を、
どこまでも、どこまでも、私は落ちて行った。 


 優しく肩を揺さぶられて、私――秋月律子は目を覚ました。
「律子、そろそろ出番だぞ。準備をした方がいい」
 寝ぼけ眼をこする私に、そう話しかけてきたのは、私の担当プロデューサーだ。
「うーん……」
 まどろみの残滓を追い払うように、私は、小さく伸びをした。
「夢でも見てたのか?」
 プロデューサーが訊いてくる。
 そういえば、何か夢を見ていたような気もするが……
 気もするが……
「……覚えて、ません……」
 たかが夢。
だけど、それを思い出せなければ、まずいような気がした。
私は懸命に頭の中の断片的なイメージをつなぎ合わせようとしたが、
それは叶わなかった。
 プロデューサーは苦笑の形に口元をゆがめた。
「やれやれ、君は大物だな。初ステージの前に眠るなんて」
「初……ステージ!?」
「おいおい、まだ寝ぼけてるんじゃないだろうな。記念すべき初の単独ライブじゃ
ないか。ま、確かに会場は小さい上におんぼろだが、伝説の始まりなんてのは
得てしてそんな物さ」
「あ、ええっと、そう……ですね」
 ぶん、と頭を一振りして、私は情報を整理した。
私は秋月律子、765プロ所属の
新人アイドル。つい最近デビューしたばかりで、今日が初の単独ライブ……
 合っている。それで合っているはずだ。
 なのに、この違和感は、いったい何?
「まぁ、混乱する気持ちは分からなくもないけどな。
この前まで経理だった君にすれば、
こうやってステージに立つこと自体、夢のようなものだろうし……」
「あ、あの、すいません……」
 私はプロデューサーの言葉をさえぎった。
「それ以上、言わないでもらえますか? なんか、こう……嫌な、予感が……」
「なんだそりゃ?」
 怪訝そうなプロデューサーの顔が、次の瞬間、暗闇の中に消えた。
「きゃあっ!?」
「わっ、こら、落ち着け律子! ただの停電だって!」
「て、停電!?」
「多分ブレーカーでも落ちたんだろ。……だから、抱きつかないでくれる?」
 言われてようやく、私はプロデューサーの胴に手を回していることに気づいた。
「あ、すいません……なんだか心細くて」
「意外だな、律子が暗いのが苦手だなんて」
「いや、そういう訳でもないんですけど……」
 自分でもよく分からない恐怖が私を捉えていた。
まるで、プロデューサーから手を
離せば、どこかに落ちていきそうな。でも、それを口には出さなかった。
 代わりに、プロデューサーが言った。
「それに、俺に抱きついててもムダみたいだ」
「え?」
 私は下を見下ろした。
 はるか下方に、真っ赤な溶岩の川があぎとを開いていた。 


 優しく肩を揺さぶられて、私――秋月律子は目を覚ました。
「律子君、おい、風邪をひくぞ。律子君」
 寝ぼけ眼をこする私に、そう話しかけてきたのは、私の担当プ……
 ……いや、違う。社長だ。
私が経理を勤める765プロの社長が、心配げに私の
顔を覗き込んでいた。
「うーん……」
 まどろみの残滓を追い払うように、私は、小さく伸びをした。
「夢でも見ていたのかね?」
 社長が訊いてくる。
「あ、ええっと……どうだったかなぁ……」
「すまないね。君にも相当無理をさせてしまったようだ」
「いいんですよ、これが私の仕事ですから」
 この零細事務所の会計を勤めるというのも、
確かになかなかハードな仕事ではあるのだけど、
それもまたやりがいという物だと、私は思うことにしていた。
 そりゃあ、同じような歳の子たちがアイドルとして派手にやっているのを見ると、
多少は羨望を感じるのも事実だ。でも、私には裏方の方がよく似合う、っていう
ものだろう。
 私に、あんな華麗なステージなんて……
(恋を夢見るお姫さまは……)
 ……ん?
(いつか素敵な王子様に……)
 突然、何かのメロディーが頭の中で再生された。なんだろう? と思う。
聴いたことのあるメロディーのような気がするのに、不思議に思い出せない。
大のお気に入り曲だった気さえするのに。
「社長、やっぱり私、疲れてるんですかね?」
「疲れもするだろう。
君一人に、膨大な残務の後始末をほとんど任せているようなものだからな。
本当に、君には最後まで苦労をかけてしまったと思う。
社長として恥じ入る次第だよ」
「最後って、やですよぉ、縁起でもない」
 私は笑おうとして、そして――凍りついた。
 事務所の中は、あまりにもがらんとしていた。
もともと大して物のないところだったが、
どちらかというと雑然と散らかっている印象で、
こんな寂しい風景ではなかったはずだ。
「君が最後だったな。雀の涙だが受け取ってくれたまえ、君の退職金だ。
本当に今までありがとう」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は社長に詰め寄った。
「どういう事です!?私たちの765プロは――」
「ああ」社長は一語一語を噛み締めるように言った。
「昨日で、倒産した」

「そんなっ……!?」
 絶句する私に、社長は後悔と諦念の入り混じった表情を向ける。
「さぞ不服だろうが……君の能力なら、どこへ行ったって通用するはずだ。次は
こんな零細の職場ではなく、もっと大きなところで才能を発揮してくれたまえ」
「……お断りします!」私は言った。「どうしてそんな簡単にあきらめるんですか!
きっと何か、まだ打てる手があるはずです! きっと……」
「残念だが、もう決まってしまった事だ。
さあ、早くここを去りたまえ。さもないと……」
「イヤです! 絶対にイヤ!
だって、だって私……まだデビューもしてない!!」
 デビュー? 私が?
 私は自分の言葉に耳を疑ったが、
その意味を噛み締める時間は与えられなかった。
「……遅かったようだ。律子君、あれを見たまえ」
 社長に指し示されるまま、私は窓の外を見た。
 巨大な重機が、クレーンのような高い柱から、大きな鉄球をぶら下げていた。
それは、いままさに振り子運動の端点から、こちらへ向かって振り戻そうとする
瞬間で――。
 悲鳴を、上げる間もなく。
 それは激突した。 


「律子、ねえ、律子!」
 肩を揺さぶられて、私――秋月律子は目を覚ました。
 私を起こしたのは……
「……未来?」
「もおっ、こんなところで寝ちゃうなんて、どうかしてるよ?」
 寝ぼけ眼をこする私に、そう話しかけてきたのは、私のクラスメイトの神崎未来
だった。
 周りを見渡す。ここは……学校帰りのショッピングモール。
そうだ、私たちがよく寄り道する場所……。
 いつも利用している場所のはずなのに、奇妙にその風景は懐かしく思えた。
なぜか、しばらくここから遠ざかっていたような……。
「へっへー、おっ待たせー♪」
 と、小さな包みを大切そうに抱えて現れたのは、同じくクラスメイトの高村真理絵だ。
「やったでぇ、見事初回限定版ゲットぉ!」
「ほんと、真理絵って、限定とかそういうの好きよねぇ」
「ま、これも一つの愛の証ってやつや♪ ああ〜ん、いとしの菊地真さま〜ん♪」
 聞き覚えのある名詞が、私の耳に引っかかる。
「菊地……真?」
「せや、今人気絶頂の実力派アイドル。いくらあんたが芸能にうといゆーても、
名前くらい聞いたことあるやろ?」
 ……確かに、名前を聞いたことはある。
 でも、それはテレビで見たとか、雑誌で読んだとか、そういうのじゃなくて……
 そういうのじゃなくて……
「私は、どっちかって言うと、如月千早の方が好きなんだけどな」
 未来がそう言うと、真理絵はかぶりをふった。
「如月千早? あかんあかん、世間じゃ天才や神童やゆーてもてはやされとるけど、
あら性格激悪って話やで?」
「そうなの?」
「ちょっとレッスンが気にくわんかったらヘソ曲げる、ゆーてな。
すっかりゴシップ誌の常連さんや」
「千早の悪口を言わないで!」
 はっ、と私は口を押さえた。
 二人は驚いたような顔で、私を見つめている。だが、たぶんいちばん驚いたのは
――私自身だ。
 真理絵が、やれやれという顔で言った。
「ふーん、律ちゃんもついにこっちに目覚めたかぁ。
あんた、この手の話には、興味あらへん思っとったけどなぁ」
「違うのよ、私は――」
「言い訳はええから。ほな、律ちゃんもこのライブ見に行く? ほら、これこれ」
 真理絵はCDの包みの中から、一枚のチラシを取り出した。複数の少女の写真を
コラージュした上に、極太のフォントでキャッチコピーが踊っている。
トップアイドルが夢の競演……
参加アーティスト、天海春香、如月千早、萩原雪歩……高槻やよい、
水瀬伊織、双海亜美……菊地真、三浦あずさ……八人の合同ライブ、ついに実現……。
 ……八人。
 ぽたり、と何かがチラシの上に落ちた。
 私の涙だった。
「ちょ、ちょっと律ちゃん!?」
「どうしたの、律子、大丈夫!?」
 自分でも訳が分からなかった。
何が悲しいのか、なぜこんなにも胸が締め付けられるのか。
分からないまま、私は子供のように泣きじゃくった。
泣いて、泣いて、そして――
「君たち、どうかしたか?」
 男性の声がした。
 顔を上げると、そこに、見知った顔があった。
「……プロデューサー!!」
 私がそう呼びかけると、彼は驚いたような顔をした。
「へえ、俺も意外と名が売れてきたかな? 初対面の女の子にそう呼ばれるとは」
「“初対面”ですって!?」
「ああ。 ……それとも、どこかで会ったことが?」
 何を言ってるんだ、と言いかけて、私は愕然とした。一体どこで会ったというんだろう。
まるで覚えがないのに、なのに、なぜか私は、彼のことを知っている……!?
 ……構うもんか!
「プロデューサー、連れて行って! 私を!」
「って、どこへだい?」
「ここじゃないどこかへよ!!」
「……ああ、そうか、君たちは受験生か」
 プロデューサーは、ひとりで納得したようにうんうんとうなずいた。
「分かるよ、俺にも経験がある。受験前は不安定になるもんさ。だけど、だからって
逃避は感心しないな」
「違うっ! そうじゃなくて!!」
 どう違うのか、自分にも説明なんてできなかった。ただ、強烈な、身を引き裂くような
違和感が、私を突き動かしていた。
「違う…違う、違うっ!!」
 そして、世界が暗転した。 


 騒々しいノイズに鼓膜を叩かれて、私――秋月律子は目を覚ました。
 そこは薄暗い場所だった。人影らしきものは見当たらず、喧騒は全て電子のざわ
めきだった。ほのかに浮かび上がる幾多のモニタが、極彩色の光芒を閃かせている。
そこは――
「ゲーム……センター……?」
 一台の筐体に寄りかかって、私は眠っていたようだった。目をこすりながら身を
起こしたそのとき、目前の筐体のスピーカーが音声を発した。
『やぁ、おはよう、律子』
 ぎょっとして私は眼前のモニタを見やった。そこにあったのは、トゥーンシェードされ
たポリゴンで描かれた男性の顔で、そして――私はその顔に見覚えがあった。
 私は笑った。力なく笑うことしかできなかった。
「……何やってるんですか、そんなところで。……プロデューサー」

 モニタの中に声が届くはずもなかった。モニタの中の顔は、一方的に話しかけてくる。
『今日はテンションが今ひとつのようだな。オーディションよりレッスンを受ける方が
いいか?』
「いいか? じゃないわよ! どういう事なのか説明してよ!」
 ばかばかしい事だと知りながら、私は声を荒げた。その声に応えたはすもないだ
ろうが、ちょうどその時、画面に3つの選択肢が浮かび上がった。

【オーディションがいいわね】
【レッスンにしましょう】
【どういう事なのか説明してよ】

 一番下の選択肢に、私は指で触れた。タッチパネルへの入力が受け付けられると、
画面の中で凍り付いていたプロデューサーは再び動き出し、やれやれといった顔で
――ポリゴンのくせにやけに表情が豊かだ――言った。
『律子、君も女の子なら、鏡は毎日のぞくだろう』
 当たり前だ、と私は画面の前で首肯した。
『なら、こう思ったことはないか? 当然のように俺たちは、鏡のこちらが実で向こう
側が虚だと認識している。だが、それが逆でないという保障はどこにあるんだろう?
もしかしたら、鏡の向うにいる俺こそが本当の俺で、こちら側の俺は虚像ではないの
かと、そんな不安に駆られたことは?』
 プロデューサーが言葉を切ると、またしても選択肢が浮かびあがった。

【そんな事、一度だってないわ】
【ないこともない、かな】

 数秒迷って、私は下を選択した。
『それと同じだよ。俺たちは最初から、このガラス一枚を挟んで、こちらとその向うの
住人だったのさ。どちらかが夢ならどちらかが現(うつつ)、一方がリアルなら他方が
アンリアル。だが、そのどちらが真のリアルかなど誰にも分からないのさ。いや、
あるいは、はるか天上の高みから見下ろす者から見れば、どちらもがアンリアル
なのかも知れない。万物を創造し得る者から見たとき、その身体の構成要素が
血肉であるかピクセルであるかにいったいどれほどの差がある?』

【なるほど、そういうわけね】
【訳が分かんないわよ!】

 言葉で「あいにく私は無神論者なのよ」と付け足しながら、下を選択した。
『なら言葉を変えようか。そろそろ現実に戻る頃合が来たということさ。君にとっての
現実に、ね。なぁ、律子、君にとっての夢とは何だ?』

【トップアイドルになること!】
【素敵なお嫁さん、かな?】

 上を選択。
『結構なことだ。だが、夢というものは大きければ大きいほど、物理的な質量さえ
伴ってその持ち主を潰しにかかるのさ。それを支えきれる膂力の持ち主だけが
夢を実現できる。だが、それを持たない者は――』 


 画面の中のプロデューサーが、立てた親指を下に向ける動作をした。
『こう、さ。それを掴んだ腕を、前に進むべき足を、あるいは背骨を砕かれ、二度と
立つことも叶わない。
 まあ、それでも運良く頂点の座を手にしたとしようか。しかし、頂点を極めれば
後は落ちるだけだ。そこに待つのは、昔日の栄光という名の炎が我が身を
焦がす煉獄さ。そんな未来が本当に望みなのか? そうなる前に、大それた夢
なんぞモニタの向こう側に押し込めて、平穏に分相応に生きるってが利口者って
奴だとは思わないか?
 さぁ、帰るべき時だ、君にとっての“現実”に』

 現実。
 ゲンジツ。
 その言葉が私の胸に響く。
 私にとっての現実。学生としての現実。受験生の現実。このまま大学生になり、
どこかの小さな会社のOLでもやって、中流程度のサラリーマンと結婚して――。

 選択肢が浮かび上がる。
【そうね、現実に帰るべき時だわ】
【嫌よ、私は夢を見続けていたい!】
 真ん中の数字がゆっくりとカウントダウンを始める。
 3。
 2。
 1――。

 私は、【そうね、現実に帰るべき時だわ】を選択した。

『ようやく分かってくれたか――』
 その言葉を発しきらないうちに、私は椅子を蹴って立ち上がった。
『どこへ行く?』
「帰るのよ、私にとっての現実に。――765プロダクションに」
『だからさっきから言ってるだろう、それは実在しないんだと』
「ないなら作るのよ!!」
 私は我慢しきれずに叫んだ。
「あなたに分かる!? 胸にぽっかりと穴が開いたような、私の気分が! こんな
気持ちを一生抱えて生きて行けって言うの!? ごめんだわ! 私はあの日々に
帰る! それがどんなに辛くても、押しつぶされそうでも! それが――それが私の
“リアル”だから!!」
 私は、モニタに――プロデューサーに背を向けた。
「さよなら、プロデューサー……もう二度とあなたをそう呼ぶこともないでしょうけど」
 背中で、苦笑の気配がした。
『決意は固い、か』
 その声にかまわず、私は歩き出そうとする。
『まあ待て、さよならぐらい言ってくれよ。最後くらいこっちを向いてくれ』
 しばしの逡巡の末、私は、一度だけのつもりで振り向いた。
 そして、異変に気づいた。
 プロデューサーの顔が歪んでいた。いや、違った――歪んでいたのは画面その
ものだ。
 うかつにも、私はその時初めて気づいた。いつの間にか私は、当たり前のように、
声で会話していた――!!
 ぐにゃり。
 モニタから何かが突き出した。丸いふくらみは次第に長く細く伸び、その先端には
五つの突起が生じ、短い一本と長い四本に――掌の形に変形した。
 一本の腕が、モニタから突き出していた。
『律子。君は頭のいい子だが、最後までついに失念していたようだ』
 指が私のほほに触れた。とっくに乾いてしまった涙をふき取るように、優しく。
不思議に、恐怖も嫌悪も感じなかった。むしろ、懐かしい暖かささえ私は感じていた。
『悪夢の只中にて、その主が悪夢から目覚める方法は、古来から一つしかない
のさ。そう――こうだ』
 五本の指が、ゆっくりと閉じて。
 ぎゅっ。
 私の、ほほを、つねった。 


「ん…………?」
 そして、私――秋月律子は目を覚ました。
 最悪の起こされ方で。
「ひ……ひひゃいひひゃいひひゃいっ!!」
 ぱしぃん。
 ハリセンの、景気のいい音が楽屋に響き渡る。
「どこの世界に、アイドルのほっぺたつねって起こすプロデューサーがいるかっ!」
「いててて……。つか律子、今そのハリセンどこから出したっ!?」
「乙女のたしなみです」
「そんなたしなみは古今東西どこにもないっ! まったく、こんな大舞台を前にして
熟睡しちまうなんて、いよいよ大物だな」
 そう言われてようやく、私は今の状況を思い出した。
 楽屋にいてさえ、ざわざわという喧騒が聞こえてくる。聞きようによっては雨音か
何かのようにも聞こえるそれは、今日のコンサートのために集まった、お客さん
たちのざわめきなのだ。
 ドームを埋め尽くしたその数は、ざっと十万人。
 それだけの数が、私一人のコンサートに詰め寄せていた。
 プロデューサーがしみじみと述懐する。
「正直、なんか実感わかないよ。俺の方こそ夢を見てるんじゃないかって気が
する……。律子はそんな風に思わないのか?」
「夢……ですか?」
 その言葉に、私はわけの分からない不安感を覚えた。さっきまで見ていた夢に
関係しているような気もするけど、よく思い出せない。しかし――
「ここに来るまで、そりゃ失敗もアクシデントもいろいろあったけど、俺たち、
おおむね順調に人気を伸ばしてきたじゃないか。順調すぎて怖……」
「ストップ! そこまで!」
 強い言葉で、私はプロデューサーの台詞をさえぎった。
 私の目の前に、プロデューサーのきょとんとした顔がある。
 つらさも嬉しさも、不幸も幸運も、いつも分かち合ってきた、大切なパートナーが。
「んっと、プロデューサー、ちょっと目を閉じてもらえます?」
「え? こ、こうか?」
 正直に目を閉じたプロデューサーに、私は顔を近づけて。

 くちびるの触れ合うやわらかい感覚が。
 ほんのわずかな時間に。
 心の中にわだかまった、悪夢の澱を溶かしつくす。

「おっ、おい! 律子っ!!」
 顔を真っ赤にしてあぜんとしているプロデューサーに、私は微笑みを向けた。
「そろそろ開幕でしょ? じゃ、行ってきますね、プロデューサー!」
 そういって、私は駆け出す。
 その先に待つものは、私を迎える十万の歓声。
 私は一度だけ振り向いて、まだどこか呆然としているプロデューサーに呼びかけた。
「現実、ですよ。間違いなく!!」
 そうだ、これが私のリアル。私にとっての現実なのだ。今の私には、はっきりと
そう言い切れる。
 なぜなら。

 悪夢に囚われたお姫さまは、いつだって、王子さまのキスで目を覚ますのだから。
                                             (FIN) 

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