作:ばてぃ@鬼
大気が凍りつく夜。
事務所から出た俺の吐息は一瞬にして真っ白く染まり、
そしてゆっくりと空へと消えていく。
今日もやっと仕事が終わった。
いつものようにプロデュース中のアイドルのレッスンを行い、
彼女らが輝けるための仕事を探してくる。
そんな普通の、もう何ヶ月も繰り返し続けている毎日。
ただ、一年前からちょっと違ったこともあった。
ヴーン・・・ヴーン・・・
俺はバッグの中から携帯を取り出し、それを開く。
時間は九時二分、着信が一件。
俺はリダイヤルボタンを押して電話をかけなおした。
プルルル・・・プルルル・・・ブツッ
電話の向こうの相手にはすぐにつながった。
「もしもし?」
電話の向こうからは聞き慣れた、のんびりとした愛らしい声が聞こえてきた。
「もしもし?今お仕事終わったんですか〜?」
「あぁ、今ちょうど終わったところだよ。これから帰るところだけど、何?」
「えっと〜、とらたんのご飯がなくなっちゃったから買ってきてもらえますか?」
「わかった。」
続けて俺は最後にいつものように言って電話を切った。
「すぐ帰るからね、あずさ。」
俺は最寄り駅前のスーパーでドッグフードを買い店を出た。
線路沿いの道をしばらく進み、閉店後の床屋の角を左に曲がる。
目の前にはゆるやかな坂道がずっと続いている。
ところどころに道を照らす街灯がまるで滑走路のランプのように見えた。
そのずっと先・・・小さな丘の上に俺とあずさの住まいはあった。
新築のマンションで住んでもう半年になる。
4LDKにオートロック、モニターフォン、自動空調設備、
ペット可など様々な特典が盛りだくさんの物件は当時かなりの値段をした。
この物件を買い取る時に、ローンを組もうという俺の考えを差し置いて
あずさは一括払いで買い取ってしまった。
一年前にアイドルを引退したあずさは名実共に世界に通じるアイドルだったわけで、
それなり・・・いや、かなりの金額を貯金していたらしい。
その時のあずさはこう言った。
「私がお金を持ってても使い切れませんし、せっかくの二人だけのおうちですから〜♪」
”二人だけ”のはずが、なぜか今はあずさの実家で飼っていた愛犬、
通称とらたんも一緒に住んでいる。
古い言い方をすれば二人だけの愛の巣になるはずが・・・
と、一時期少し落ち込んだこともあった。
今ではとらたんも俺に大分懐いているから
家に帰ってから一緒に遊ぶのが日課になりつつある。
そんなことを考えているうちにいつの間にかマンションの玄関前にたどり着いていた。
俺は手に持っていた荷物を一度下に降ろすと、
コートの内ポケットからカードキーを取り出した、それをカードリーダーに差し込む。
するととドアのロックが小さな音を立てて外れた。
俺は再び荷物を手に取ると肩でドアを開け、ロビーへと入っていった。
天井の高いロビーを抜けると正面にエレベーターが三基ある。
俺はボタンを押し、一番右のエレベーターへと乗り込んだ。
そして我が家のある九階のボタンを押した。
エレベーターのドアがゆっくりと閉まり動き出す。
あっという間に九階に到着し、ドアがゆっくりと開く。
俺はエレベーターから出ると左へと向きを変え長い共同廊下をまっすぐと進んだ。
突き当たりにみえるドアの向こうであずさととらたんが待っている。
俺はコートの右ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。
カリカリカリ・・・
ドアの向こうから何かがドアを引っかく音が聞こえてくる。
きっととらたんが俺が帰ってきたのがわかって玄関まで迎えに来てくれたのだろう。
俺はドアの向こうで尻尾を振りながら引っかいている姿を想像して
思わず笑いがこみ上げてきた。
差し込んだ鍵を回してゆっくりとドアを開ける。
やはりそこにはとらたんが待っていてくれた。
「ただいま、とらたん。」
「ワンッ!」
とらたんは嬉しそうに尻尾を忙しく振って、俺の周りをくるくる回り始めた。
俺はかがんで優しくとらたんを抱きかかえると家の中へ入った。
後ろ手にドアを閉めて鍵をかける。
靴を脱いで廊下を進み、突き当たりのドアを開けると
そこにはエプロン姿のあずさが夕食の準備をしていた。
あずさは俺が帰って来たことに気が付くと笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい、あなた。今日もお疲れ様です〜。」
「ただいま。はい、これ。」
俺は手に持っていたスーパーの袋をあずさに渡した。
あずさはドッグフードの銘柄を確認すると小さく頷いた。
「はい、これで大丈夫です。」
「とらたんの大好物だからな。そりゃ覚えるって。」
「ふふふっ♪良かったね、とらたん。」
あずさは嬉しそうにとらたんを見つめた。
「ワフッ!」
とらたんも知ってか知らずか返事をする。
「あ、そうだ忘れてた♪」
そう言うとあずさはちょこちょこ小走りで近寄ってきて、
俺の肩にそっと手を置くと頬に優しくキスをした。
唇をほんの少し重ねるだけのキスを終えるとあずさは照れながら言った。
「やっぱり帰って来た旦那様におかえりのキスができるなんて・・・幸せ・・・。」
その言葉を聞いて俺も少し照れてしまった。
「お腹へっちゃいましたよね?すぐに夕食の用意しますから、待っててくださいね。」
あずさは嬉しそうに台所へと向かう。
心なしか鼻歌まで聞こえてきそうなほど幸せそうに見える。
俺はリビングのソファーにコートをかけて、正面に回りこむと倒れ掛かるようにして座った。
今日一日の疲れがじわじわと体を蝕んでいくように感じる。
俺は大きくため息をつくと目の前のテーブルに置かれているリモコンを手に取り、
テレビの電源を入れた、ちょうどニュース番組をやっているところだった。
化粧を施したベテラン女性アナウンサーが原稿を読んでいる。
『続きましてウィークリーニュース、一週間のニュースをお知らせします。
まず月曜日、アイドルの水瀬伊織さんがお台場の特設会場にて
野外コンサートを行いました。』
俺は身を乗り出してそのニュースを聞いた。
実はこのアイドルをプロデュースしているのは何を隠そう俺なのだ。
自分がプロデュースしているアイドルの話題はどんな時でも気になるもので、
このときも例外ではない。
『野外コンサート会場には一晩でおよそ三万人のファンが駆けつけ、
冬空の下壮大なコンサートとなりました。』
しばらくニュースを聞いていたが特にゴシップに関することは言われなかった。
アイドルの中には神経質な女の子もいるのでニュースの中身には特に神経質になる。
ふいに後ろから声をかけられた。
「あなた、お食事の用意ができましたよ。」
「うん、わかった。」
俺はリモコンでテレビの電源を切ると立ち上がり、台所のテーブルに向かった。
いつもの自分の席に座ると
そこには暖かそうな湯気を立ち上らせているビーフシチューが用意されていた。
濃厚なデミグラスソースの中に大きなじゃがいもとにんじん、牛肉が転がっている。
立ち上る食欲をそそる匂いに俺の胃袋は早くも動き出したように感じる。
あずさは対面の椅子に座るとエプロンを外し、それを隣の椅子の上に置いた。
「じゃああなた、食べましょうか。」
「そうだね。もうお腹ぺこぺこだからさ。」
「ふふっ、ではいただきま〜す♪」
「はい、いただきます。」
俺はテーブル中央のバケットからスプーンを取り出してビーフシチューをすすった。
あずさの手料理はいつも絶品だ。
今日のビーフシチューも完璧な味付けがほどこされいる。
「うん、すごくおいしいよ。俺好みの味付けだね。」
「うふふっ♪そう言ってくれると嬉しいです〜。」
あずさは頬を赤らめてとても嬉しそうに笑った。
結婚する前に何度かあずさの家に遊びに行った時に手料理を食べたことはあったが、
結婚して益々料理の勉強をしているらしい。
その腕前は日に日に上達していっている。
そういう素直で尽くしているところは俺の理想の奥さんとして最高だ。
「お仕事のほうは順調ですか?」
あずさはじゃがいもをスプーンで半分に切りながら質問してきた。
「うん、まぁ・・・仕事は順調かな。今の担当の子はかなりのじゃじゃ馬だけどね。」
「じゃじゃ馬・・・ですか?」
「わがままだし高飛車だし、大変だよ。」
「そうなのですか〜。でも、きっとその子だって大変だと思います。私がそうだったように。
私が不安だったとき支えてくれたのはあなたでしたから・・・、
だからあなたもその子をしっかり支えてあげてくださいね?」
奥さんが元アイドルだとこういう話はしやすい。
プロデュースされる側からの目線でアドバイスをしてくれるから本当にいつも助かっている。
「頑張って支えてみるよ。あずさありがとう。」
俺は心からお礼を言った。
「ふふふっ。こういうことって奥さんの務めですから♪」
あずさはさも当然のように言った。
だが、ここ最近は俺の愚痴や悩みに付き合ってもらってばかりで
あずさは楽しいのだろうかと時々不安になる。
奥さんの務め。
その言葉がやけに引っかかってならなかった。
俺があずさにしてやれることはないのだろうか・・・?
そう想いながら俺はビーフシチューを口に運んだ。
目を覚ましたのは夜中の三時だった。
決して眠くないわけではないのに、なぜか突然俺は眠りの中から引き戻された。
寝室に入ってくる月明かりで部屋はぼんやりと青白く光り輝いていた。
ダブルベッドで一緒に寝ているあずさは小さな可愛い寝息を立てている。
俺は少しずり落ちてしまいそうになっているシーツをベッドの上に引き戻して、
そっとあずさにかけてやる。
あずさの髪からほんの少しシャンプーの香りがした。
夜だからだろうか、俺はどこか寂しくて切ない気分になる。
ただ、そのシャンプーの香りは心の底から俺に安心感を与えてくれた。
俺はそっとあずさの背中に寄り添うと、あずさの手に自分の手を重ねた。
「・・・。」
何を言うわけでもなく、こうしているだけで幸せだった。
あずさのぬくもりを誰より一番近い場所で感じられる。
かつて大勢のファンを魅了したトップアイドルは今やもう俺だけのアイドルに。
・・・何かしなくてはいけない。
そうしなければあずさを失ってしまいそうだったから。
その日結局俺は眠ることはできなかった。
そしてクリスマス当日がやってきた。
この日の為に様々な計画を立てていた。
これでもかというほどに念には念を入れ、
ようやく全ての段取りが決まったのは今朝になってからだった。
・・・とはいっても決して伊織のコンサートの予定ではない。
そう、クリスマスと日頃の感謝の気持ちをあずさに伝えるための予定なのだ。
あずさに喜んでもらえるだろうかと考えると今からドキドキして仕方ない。
俺は一日中そわそわしていた。
こんな日にレッスンでもあった日には伊織にどやされてしまうだろう。
夕方までにやるべき仕事を全て終わらせると、俺は早めに事務所を出た。
そしてあずさにメールをうつ。
『今日のご予定は?』
ほどなくしてメールが返ってくる。
『素敵な旦那様とデートです^^』
俺は嬉しくてついにやけてしてしまう。
そして再びメールをうつ。
『待ち合わせ場所は午後五時に新宿駅西口で。』
メールを送ってまたすぐ返信がきた。
『わかりました♪』
メールを確認すると俺は携帯を見て時間を確かめた。
待ち合わせの時間まであと一時間。
俺はちょっと寄り道をして向かうことにした。
あずさは新宿駅西口の、人に見つからない隅の方に立っていた。
厚手の白いコートを身にまとい、伊達眼鏡をかけている。
その目線はビルの上の大型ビジョンを見つめていた。
いくら引退したとはいえ半年前まであのブラウン管の向こうにいたので、
いまだに変装するよう心がけているようだ。
大型ビジョンにはかつて競演したこともあるアイドルが楽しそうに歌っている。
あそこにかつて立っていたなんて・・・
今のあずさにはまるで夢を見ていたのではないかと錯覚させるほどだった。
ただ、それが夢ではないことは左手の薬指にはめた結婚指輪が証明していた。
頑張ってトップアイドルになったからこそ素敵な旦那様と出会えたのだから。
あずさは嬉しそうに指輪を何度も眺めては、いとおしそうにその表面を指でなぞった。
「お待たせ、あずさ。」
その声に振り向くと、そこには旦那様が立っていた。
あずさは笑顔で迎えた。
「お仕事お疲れ様です〜。今夜は久々のデートですね♪」
そういえば久しく二人で出かけてなかったような気がする。
俺はあずさの手を取り、両手で暖めた。
「本当なら毎日でもデートしたいんだけどね。ごめんな、仕事優先で・・・。」
そして俺はこう続けた。
「今夜はずっとあずさと一緒にいるから。」
「あ、あら〜・・・そんな風に言われると照れちゃいます〜。」
あずさは赤くなった顔を隠すように俺の胸に押し付けてきた。
俺は優しくあずさの頭をなでた。
しばらくこうしていたかったが人目も気になるし、俺はすぐにその場を離れることにした。
「じゃあ行こうか、あずさ。」
「は〜い♪」
可愛く返事をしたあずさは俺と腕を組んで一緒に歩き出した。
駅から歩くこと十分。
目的の店は大通りから一本わき道に入ったところにあった。
ビルの一角にある小さな店だったが雰囲気はあずさ好みになるように選んだつもりだ。
レンガ造りの壁に小さなライトが取り付けられており、
ぼんやりとオレンジ色の光が入り口を照らしている。
地下へと続く階段も同様にいくつものライトが取り付けてある。
「足元に気をつけてね。」
俺はあずさの手を取り、転ばないように優しくエスコートした。
階段の突き当たりにある年代を感じさせる木製のドアをゆっくりと開ける。
ベルの音が鳴って来客を告げる。
「わぁ・・・素敵です〜。」
店内はこじんまりとしているものの一番奥には小さなステージがあり、
そこで店専属のジャズバンドが雰囲気を盛り立ててくれる
演奏をしている。
所々にある照明は明るすぎず暗すぎず。
各テーブルの上に置かれた蝋燭がどこか心をほっとさせる。
あずさも店の第一印象は良いみたいだ。
「いらっしゃいませ、お二人様でしょうか?」
入り口で立っていると白髪交じりの初老の店員に呼び止められた。
「いえ、予約していた三浦ですが。」
「はい、お待ちいたしておりました。ではこちらへ。」
俺たち二人は店員に促されるままついていった。
ジャズバンドの目の前のテーブルに着くと、
店員は予約席と書かれた札を取り外し椅子を引いてあずさを座らせた。
俺も対面の席に座る。
「それでは上着をお預かりいたします。」
俺とあずさは着ていたコートを脱ぎ店員に渡した。
店員はコートをあずかると壁際に置かれているコートハンガーにそれを丁寧にかけた。
「では、料理をお持ちいたしますので少々お待ちくださいませ。」
そういうと店員は店の奥へと消えていった。
その姿を見送ると俺はあずさに質問した。
「どう?この店は気に入ってくれた?」
「えぇ、とっても。お洒落な雰囲気が好きですから〜。」
「良かった。気に入ってくれなかったらどうしようかと冷や汗ものだったよ。」
あずさは嬉しそうに笑っている。
「でも、よくこんなお店があるなんて知ってたんですねぇ〜。」
「うん、まぁちょっと・・・ね。」
まさか高木社長がこんなお洒落な店を知っているなんて思いもしなかった。
高木社長、ありがとうございます。
俺は心の中で深く感謝した。
「ちょっと・・・ですか。・・・まさか、その・・・。」
急にあずさは不安そうな表情で見つめてきた。
「その・・・何?」
「・・・その・・・浮気・・・とかしてないです・・・よね?」
あずさが唐突もないことを言うものだから俺は驚いた。
「浮気なんてしてないよ。
・・・あ、もしかして浮気相手といつもこういうところに来ているとか考えたの?」
「だ、だってぇ〜・・・。職場はアイドルの人ばかりだし・・・それに・・・。」
「それに?」
「わ、私なんかよりずっと若い子ばかりでしょうから・・・その・・・。」
俺はおかしくて思わず笑ってしまった。
あずさは困った表情で言葉を続けた。
「わ、笑うなんてひどいです〜!・・・本当に心配で心配で・・・。」
「ごめんごめん。でもね、俺にはあずさしか考えられないわけだし、
浮気してるんだったらクリスマスに一緒にここにはいないはずだろ?」
「あ・・・!そう言われればそうですね。・・・あの、ごめんなさい。」
あずさはまるで怒られた子犬のようにしゅんと小さくなってしまった。
俺はあずさを優しく諭すように言った。
「謝ることなんて全然ないよ。
普段こんなところに連れてこない俺がいきなりこんなことしたら疑いたくもなるだろうしさ。」
「で・・・でも・・・。」
「良いってば。
それに疑われなかったら俺のこと好きじゃないのかなぁって
逆に心配になったりもするわけだし。
せっかくあずさに喜んでもらうために連れてきたんだから。ほら、顔上げて元気出して。」
その言葉を聞いてあずさは安心したようだ。
曇っていた表情は元の笑顔へと戻った。
「そうですね。夫婦なんだからあなたの言葉、信じないわけにいきませんものね。」
俺とあずさは幸せそうに見つめ合った。
蝋燭の火に照らし出されたあずさの顔は美しく、
まるで映画のワンシーンのように感じられた。
しばらくしてさっきの店員がやってきた。
その手には白ワインのボトルとワイングラスが二つ握られている。
「こちら本日のコース料理に合う白ワイン、二十一年ものでございます。」
そう言うと店員はコルクの栓を抜いて、ワイングラスに注ぎ始めた。
両方に注ぎ終わると店員は軽く会釈をして再び店の奥へと戻った。
俺とあずさはワイングラスを手に取った。
「じゃあメリークリスマス。」
「はい、メリークリスマス♪」
そう言い終わると、お互いワイングラスをほんの少し持ち上げた。
ゆっくりとワイングラスを口へ運びワインを一口飲んだ。
この雰囲気もあってか普段飲む白ワインよりはるかにおいしく感じる。
「ふふっ、このワインとってもおいしいです〜。すぐになくなっちゃいそうですね。」
「酔っ払ったら連れて帰れないからね。飲みすぎないように。」
「は〜い♪あ、そういえばこのワイン、私と同い年なんですよね。さっき気づきました〜。」
「やっぱり気づいた?」
「はい〜。ふふふっ、ありがとうあなた♪」
そう言うあずさの顔が普段より色っぽくて俺は正直胸がどきっとした。
ほんの少し照れた顔を悟られないように俺はワインを少し多めに流し込んだ。
あずさはワインをグラスの中で回している。
どんな姿であってもあずさは絵になる。
このまま夜が終わらなければ良いのに・・・と、俺は思った。
食事が終わると俺たちはパークハイアットホテルへと向かった。
今はその途中にある新宿中央公園を歩いている。
多少お酒が入っているからなのか、
それともよほどご機嫌なのかあずさはさっきからベタベタくっついてくる。
そんなあずさを見るのは初めてな気がする。
時々上目づかいで見つめてくる仕草が可愛くて可愛くて仕方なかった。
「うふふっ、今日は幸せです〜♪」
「何か良いことでもあったのかな?」
「今日は〜素敵なお店で、素敵な音楽を聴きながら、素敵な料理を食べれましたから〜♪」
「ご満足?」
「お腹いっぱいです〜。うふふふっ♪」
あずさはお腹をぽんぽん叩くような仕草をしてみせた。
俺はポケットから手を出すと優しくあずさの肩を抱き寄せた。
あずさは何も言わず体を俺に預けてきた。
「まだまだ素敵なプレゼントはありますよ、お嬢さん。」
「そうなんですか〜?」
あずさは不思議そうに見つめてくる。
俺はふと夜空を見上げた。
都庁とそれに並ぶようにそびえ立つビル郡が、まるで巨大なクリスマスツリーのように見える。
その上に申し訳なさそうに満月が浮いていた。
「わぁー、広〜い!」
あずさは部屋の中をくるくる回りながら喜んでいる。
俺は部屋の鍵と二人のバッグをベッドの上に置くと
カーテンの閉まっている窓際へと歩み寄った。
「さすがにプレジデンシャルスイートは取れなかったけど・・・。」
実際今日だけで俺の貯金がほとんど飛んでしまった。
最上級のスイートを取ればこのさき半年は残業確実になっていただろう。
「ううん、すごい嬉しいです〜♪こういう所に泊まるの一度やってみたかったからぁ。」
「あと・・・さすがに全部は無理だけど・・・。」
そう言うと俺はカーテンを一斉に開いた。
「うわぁ・・・!・・・すごい綺麗・・・。」
カーテンの向こうには新宿の夜景が一望できた。
横に長い窓の全てに宝石をちりばめたような数々の灯りが点となり、
それがまるで一つの完成された絵画のように目の前にある。
あずさはその光景に息を呑んだ。
俺も想像以上の美しさに圧倒されていた。
そして思い出すように言葉を続ける。
「・・・今夜だけはこの夜景をあずさが独り占めして良いから。」
あずさから返事は無い。
「あれ?」と思って俺はあずさの顔を見た。
「・・・あ、あずさ?!」
あずさは口元を押さえながらぽろぽろ涙を流していた。
俺は慌ててハンカチを取り出すと化粧が落ちないように優しく涙をふいた。
「大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい・・・すごく嬉しくて嬉しくて・・・。」
あずさはハンカチを受け取ると片方ずつ涙をふいた。
そして涙が止まると、あずさは俺の腰に手を回して抱きしめてきた。
「ありがとう、あなた。私は幸せ者です。」
「お礼を言うのはこっちのほうだよ。
ずっと毎日俺を支えてくれたあずさへの感謝の気持ちを伝えたかったから。」
「そんなことしなくても良かったのに・・・ずるいです。」
「ずるい?」
「そうです、ずるいです。私は何も用意して・・・あ、忘れてました。」
あずさは何かを思い出すと自分のバッグから何かを取り出した。
そして後ろ手に隠すようにして戻ってくる。
「私からあなたへのプレゼントです〜。はいっ♪」
そう言うと隠していたプレゼントを俺の目の前へと差し出してきた。
それはシルバーのネックレスだった。
子犬の形をしたペンダントにチェーンが通してある。
あずさは俺の首に手を回すとそれをつけてくれた。
「ふふふっ、よくお似合いです〜。」
「あずさありがとう。じゃあ俺からもお返し。」
俺はコートのポケットから手のひらに収まるほどの小さな箱を取り出した。
「開けてみて。」
あずさは箱を受け取るとそれをゆっくりと開けた。
中に入っていたのはルビーのイヤリングだった。
「私の誕生石と一緒です〜。覚えててくれたんですね?」
「当たり前だろ?」
あずさはイヤリングを取り出すとさっそく耳につけてみた。
その姿は俺が想像していたよりもよりぴったりで、より美しかった。
あずさはその場でくるっと一回転してみせた。
「どうです?似合いますか?」
「うん、すごく綺麗だよ。よく似合ってる。」
そしてどちらからともなく歩み寄り優しく抱きあった。
それは今までに無いほど愛に満ち溢れた抱擁だった。
しばらくそのまま抱き合っているとふいにあずさが口を開いた。
「実は・・・今日は別のプレゼントをいただいちゃいました〜。」
「え?」
別のプレゼントとはいったい何なのか?
あずさのご両親から何か届いたのだろうか?
俺は想像がつかなくて小首を傾げて考えた。
するとあずさは自分のお腹をゆっくり撫でながら言った。
「神様からのプレゼントです。ふふっ♪」
俺はワンテンポ遅れてやっとその言葉の意味を理解した。
嬉しい気持ちと信じられない気持ちが交錯して心臓がドキドキしてしまう。
俺はあずさの前にひざまずくとそっとあずさのお腹に手を当てた。
「本当に・・・?本当にここに・・・?」
あずさは目を細めて小さく頷いた。
お腹に触れている手から命の鼓動が伝わってくるように思える。
それは微弱ながらも必死に生きようとする命の鼓動。
そう、それはまるで「ここにいるよ」と訴えかけてくるように。
気が付けば俺の目から大粒の涙が零れ落ちていた。
それに気づいたあずさは膝立ちになって俺の頭をそっと抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だからね。」
あずさの言葉はいつもより力強く、それはすでに母親の風格すら感じた。
「男の子かな・・・女の子かな・・・?」
「う〜ん、あなたはどちらが良いですか?」
「・・・両方。」
「ふふふっ、欲張りですねぇ〜。」
そして・・・優しく唇を重ねた。
俺はあずさに抱かれながらこの幸せをかみ締めた。
聖なる夜は幸せに包まれたまま徐々に更けていった。
それから数多くの季節が次々と流れていった。
気が付けば俺もいつの間にか売れっ子のプロデューサーにまで駆け上がり、
今ではこの業界で知らない者がいないほどになった。
以前に比べれば仕事の量も大幅に増えたが、
それでも自分の仕事に誇りを持ち俺は一生懸命働いた。
そして今日、とあるアイドルのコンサートを控えている。
デビューしたてにも関わらず彼女は天性の才能で一気にトップアイドルへと駆け上がっていた。
それはまさに雲雨を得た龍が如く、とどまることを知らない。
開演まであと一分。
俺は腕時計を見て時間を確かめた。
「今日は何か指示がありますか?」
振り向くとそこにはコンサートを控えた彼女がいた。
俺は少し考えて指示を伝える。
「そうだな・・・、悔いの無い様にやってこい。」
すると彼女はくすっと笑った。
この土壇場でも余裕を見せるその姿に俺は鳥肌がたった。
「悔いの無い様にですね。わかりました。」
するとにわかに会場が騒がしくなってきた。
どうやら開演を告げるアナウンスが流れたようだ。
俺は彼女を見て力強く頷いた。
彼女もそれに答えるように小さく頷く。
そしてそのままステージへと駆け上がる階段を上っていく。
俺がその後姿を見送っていると、ふいにその足が止まった。
「・・・どうした?」
彼女は一つ大きく息を吐いてくるりと振り返った。
そしてとびっきりの笑顔でこう言った。
「じゃあいってくるね、お父さん!!」
完
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