犬。

作:ギル龍

千早は、焦燥感に駆られていた。

「なんとか、しなくちゃ…」

千早は仔犬を抱きあげた。
近所の子どもが、最近世話をしているらしい犬だ。

「保健所なんて…」

先刻の、子どもたちの母親とおぼしき集団の話が耳に残っている。

『保健所につれていかなくちゃ。子どもには、いなくなったと言えばいいわよ』

保健所に連れて行かれた犬が、どういう運命をたどるのか…
千早はそのことについて知り合いの獣医に聞かされ、一晩眠れなかった経験があった。
口に出すのもおぞましいような実験に使われたり、「処分」される犬は、
空気の無くなる部屋に詰め込まれて、苦しみ抜いて死ぬらしい。

『だから飼っている犬の避妊はちゃんとしてあげないほうが、ずっとかわいそうなんだよ』

そんな獣医の言葉を思い出す。仔犬に目を落とすと、澄んだ瞳でこちらを見返してきた。
この子も放っておくと…ぞっとした感触が背筋を伝う。

混乱した頭で考え続けるうち、ふいにプロデューサーの顔が浮かんできた。

「…そうだ、プロデューサーに相談しよう。」

千早は、手早く携帯のメールを書き上げた。

…しかし、メールを改めて読み返してみると、いかにも無理がある。
こんな個人的な事を、こんな風にプロデューサーに相談していい物かどうか…

数刻逡巡したが、しかし、他にいい手も見つからず、
結局千早はプロデューサーに送信した。

『送っては見た物の、返事が返ってくるかどうか…そもそも、プロデューサーも困るだろうし。
以前、プロデューサーもマンション暮らしと言っていたような気がするし…』

思い悩んでいると、突然第九が鳴り響く。千早のメール着信音だ。

「ぷ、プロデューサー!」

あわてて、携帯を取り出し、差出人を確認した千早は、大きく肩を落とした。

母親だった。

メールを読む気も起きず、パタンと携帯を閉じる。

じゃれつく犬を構いながら、千早は途方に暮れる。
『どうしよう…うちで飼える訳じゃないし、かといって、飼ってくれそうな人に心当たりは…』

30分ほど途方に暮れていただろうか。

『とりあえず、連れて行くと言っても今日明日の話じゃないだろうし、別の場所へ連れて行こう』

埃を払って立ち上がった瞬間、突然着信音が鳴り始めた。

携帯を取りだして、着信元を確認する。プロデューサーから電話だ! 


「は、はいもしもし。千早です」
「ああ、千早。元気か?」
「はい」
「メール見たよ。犬の飼い主探してるんだって?」
「そうなんです。誰にも頼る人がいなくて、プロデューサーに…ご迷惑でしたよね。すみません」
「いや全然。でもうちもマンションだからな。飼うわけにいかないんだよ」

軽い落胆を覚えながら、千早はうなずく。

「それで、その犬はしばらくは飼える場所はあるのかい?」
「いえ…ほったらかしておくといつ保健所に連れて行かれるかわからないですし…」
「そうか。じゃあとりあえず、事務所にその犬、連れてきたら?それでゆっくり探したらいいよ」
「え…ええっ!?じ、事務所にですか?そんな事、いくら何でも非常識では…」
「いいよ。俺が一応社長に話通しておく。
 これでも社長の秘蔵っ子だからね。それくらいは許してもらえるさ」
「あ、ありがとうございます、プロデューサー!」

ああ、よかった。これで何とかなる…

ホッとした気持ちを抱えて、千早は犬との別れを告げさせてあげようと、
子どもたちを探すためにマンションに急いだ。 



千早は子どもに別れを告げさせ、すぐにバスケットに犬を入れて事務所へ向かった。

いつもの事務所のドアをくぐり、挨拶をすませプロデューサーを捜す。

いた。いつものように、ソファーに座って何かを読んでいる。

「プロデューサー、例の犬、連れてきました」
「ん、ああ、保健所に連れて行かれそうになってるという犬な。
えさやってる子どもたちには言ってあるのか?」
「はい。もちろんです。寂しそうでしたけど、飼ってくれる人を探すんだと言って納得してもらいました」
「そっか。どれ、犬を見せてくれ。」
「はい…きゃっ」

詰め込まれていた犬は、体をもてあましていたかのようにバスケットから飛び出した。
飛び出すや否や、プロデューサーにしっぽを振ってすり寄っていく。

「おっ、人なつっこいな、この犬。よしよし。」
「ふふ。」

思わず笑みが漏れる。やっぱり、相談してよかった。
まだ、なにも決まっていないけれど、きっと何とかなる。

「さて、連れてきたのはいいものの、だれが飼ってくれるかな?
うちはさっきもいったけれど、マンションだから無理だしな。
俺の担当アイドルたちでいうなら、飼えそうな家のある子といえば、
亜美・真美んところ、伊織んとこ、真んとこ、雪歩んところかねえ。
けど雪歩はオバQなみの犬嫌いだから無理だし、亜美・真美は…なんか任せられん。」
「オバキュー?」
「ん、気にしなくていい。とりあえず真か伊織に当たってみるか」
「はい。よろしくお願いします」
「なにいってんだ。千早も一緒に頼むんだよ」
「あ、はい。もちろんそのつもりです」

『真か水瀬さん…』

千早はひとりごちる。

『水瀬さんは、あまりよく知らないけれど…真が引き取ってくれるなら…』

「えーっと…予定によると、真はいまレッスン室でレッスン中だ。しばらく待ってればくるよ。
伊織は今日は来ないみたいだ。聞くなら明日だな。」
「そうですか!じゃあとりあえず、真に頼んでみましょう」
「やけに嬉しそうだな。真に頼みたかったのか?」
「あ、いえ、そういったわけでは」


「おっはようございまーす!」
「おぅ、真、おはよう」
「えーっ、プロデューサー、そんな偉そうな挨拶よくないですよ。もっと、爽やかにいきましょうよ!」
「ああ、すまん、そんなつもりじゃなかったんだが。
ところで、真んちは、犬飼えるか?」
「犬?わっ、なんだっ」

仔犬は真に駆け寄り、足下にじゃれつきはじめた。

「お、真いきなりなつかれてるじゃないか。真のこと好きみたいだな、その犬」
「ひゃー、かわいい!よしよし」

犬は真のさしだした手を盛んになめ回す。
真は苦労しながら、なんとか犬を抱き上げた。

「よーし、いい子だ。お前、名前はなんて言うの?」

愛おしげに犬の目を見ながら問う真を見て、千早は堰を切ったように、真に駆け寄った。

「真、お願い、その子を飼ってあげてくれないかしら。」
「え?この犬、千早の犬なの?」
「いや。千早んちの近所で捨てられてたらしい。
保健所に連れて行かれそうになってたらしくて、千早がここに連れてきたんだ。
真、お前んちで飼ってやれないか?」
「えっ、この犬をボクが?…うーん…どうかな、母さんたちに聞いてみないと」
「うん、そりゃそうだ。家族の承諾がないとな。
けどもらい手がいないと、やっぱり保健所に連れて行かざるを得なくなるな…」

千早は、目を見開いてプロデューサーを見る。そんな。約束が違う。

「えーっ、そんな事言われると、責任重大じゃないですか!
って言うか、プロデューサーの家じゃ飼えないんですか!?」
「うん。うちは無理だ。マンションだし」
「うーん…じゃちょっと、家に電話してみます…わっ、こら、じゃれつくな」
「ありがとう、真。すまんな」

真は携帯電話を持って、ドアの外に出ていった。 



千早はさっきのプロデューサーの言葉の真意を測りかねていた。

「真、遅いですね…」
「んー、まあ電話で説得となると難しいしなぁ」
「…」

どういう意味だったんだろう。
千早は逡巡する。

結局、この人も、あの子どもたちの親と同じなのか…
保健所に連れて行った犬の運命を知らないからそんなことを簡単に言えるんだわ。
結局私も、あの子どもたちのようにだまされる所だったのかしら…

ああ。ここに連れてくれば何とかなると思ったのに…

お願い、真。なんとか説得して。

心の底から祈りながら、ドアが開くのを待つ。

(がちゃ

はじけるようにドアのほうを向く。

「お、帰ってきたな」
「やっと説得できましたよ。飼えることになりました!」

その瞬間。

千早は、安堵と喜びがないまぜになった表情で、いきなり真に抱きついた。

「ほんとっ!?ありがとう真!!!」
「わっ、千早抱きつくなっ!!」
「ありがとう、真!ありがとう!!」
「わっ、わかった、わかったってばっ」
「良かったな、千早」
「はい!」 



「プロデューサー。一件だけ、どうしても気になることがあるんです」
「ん?」
「保健所に連れて行くしかないって…いいましたよね。」

千早は心臓をばくばくさせながら、問を発した。

「ん??ああ。真に?」
「はい」
「あれは、真がすごく飼いたそうだったからな。ちょっと背を押してみただけさ(笑」
「えっ?」

千早は予想外の答えに一瞬混乱する。

「そ、それって、ああいえば真も両親の説得に本気で当たるって、そういう意味ですか?」
「そうだよ。実際、アイツ本気で説得して、しきったじゃないか」

軽いショックを受けながら、絞り出すように千早は言った。

「…老獪ですね。」
「ふふふ。褒め言葉と取っておくよ(笑
まあ、真も喜んで連れて帰ったし、いいじゃないか。
あの犬は彼女のよいランニングパートナーになるよ。
ちなみに、ほんとにどうしようもなかったら、社長にお願いするつもりだったよ」

まったく…大人はこれだから…
内心腹を立てつつも、奇妙な安堵感がある。

この安堵感の正体はなんだろう。だまされたのに…のに。

「…良かった。私の見込み違いじゃなくて…」

自然と、千早の口から考えていたこととまったく違う言葉が出てきていた。

「ん?どういう意味だ?」
「いえ。なんでもないです。今日はこれで失礼します。ほんとにありがとうございました」
「はい、お疲れ様。また明日な」
「はい」

外はすっかり暗くなっていた。

さっき私、見込み違いじゃなかったって言った…どうしてかしら。
だまされたのに…

千早は、すこしすっきりしない気分を抱えながらも、晴れ晴れとした表情で駅に向かった。

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