お嬢様恋愛紀行

作:ばてぃ@鬼



時は二月下旬。
まだ冬の香りがほのかに残り、春の到来を心待ちにする季節に俺はここにいた。
地中海をはるかに望むフランスの観光リゾート市、ニース。
年中温暖な気候に恵まれたここは絶えず観光客の訪れる世界有数の観光名所だ。
そこに俺は二人分の荷物を抱えて坂を上っている。
本来なら風景でも楽しみながら歩くのだろうが、今はそんな余裕はなかった。
息を切らせる俺のはるか前を俺の愛すべき彼女が嬉しそうに、
まるで飛び跳ねるようにスキップしている。
一目見るだけで鼻歌でも聞こえてきそうな気がする。
彼女は徐々にその距離を開きつつある俺に気づくとその歩みを止めた。

「ちょっと〜・・・もっと男らしくしゃきっと歩きなさいよねぇ!
 そんなんじゃホテルに着くまでに日が暮れちゃうわよ?」

俺は両手に抱えた大きなバッグを下ろすと肩で大きく息をして言った。

「だって・・・伊織・・・これ何が入ってるんだ?なんか・・・無駄に重いよ・・・。」
「それ?中身は・・・にひひっ♪ひ〜み〜つぅ〜♪」

伊織は憎らしいまでの素敵な笑顔で答えた。
やっぱり駅前でタクシーを拾っておくべきだった。
ホテルまですぐだと思ってタクシー代をケチってしまったのが今更ながら裏目に出ている。
あとどのくらい歩くのだろうか・・・・?
そんな俺の気も知らないで伊織は相変わらずぴょんぴょん飛び跳ねている。

「ほ〜らぁ〜、早く早くー♪」

伊織はよほど嬉しいらしい。
無理も無い。
日本でアイドル活動をしていたときにもテレビの旅行番組や、
温泉地でのロケを行うたびに「ニースに行きたい。」と
散々言い聞かせられていたからよほどここに来たかったのだろう。
ようやくアイドル活動も一段落したので思い切って少し長めのオフを取り、
こうしてニースを訪れていた。
嬉しそうな伊織の笑顔を見るたびに連れてきて良かったと思える。
唯一の誤算はこの荷物の重さなわけだが・・・。
俺は大きく息を吐き、両腕に再び力をこめて荷物を持ち上げた。
ホテルに着いたらとりあえず寝よう。
俺は覚悟を決めて再び坂を上り始めた。



「うわぁー♪見て見て、この風景ものすごく綺麗よ!」

ベッドの上でうつぶせに寝転び、半分死体と化している俺をよそに伊織は実に嬉しそうだ。
やはり予想通り体力をほぼ使い果たした俺は動けない。
両腕は長時間与え続けた限界以上の負荷により麻痺して感覚が無い。
伊織はよほどホテルが気に入ったのか
あちこちの部屋のドアを開放しては喜びの声を上げている。

(よくやった俺・・・よくやった・・・。)

俺は自分で自分を褒めた。
すると俺の死角から伊織が思いっきり飛びついてきた。

「えーいっ♪」
「ぐふぁっ!!」

伊織の肘が思いっきり俺の背骨を直撃した。
思わず反射的に声が漏れる。
伊織はそのまま俺の背中にくっつき、それなりに成長した胸を押し付けてくる。
一瞬にして両腕の痺れも背骨の痛みも消えた。

「あんたにしては上出来よ♪良いホテル選んだわね♪」

伊織はにこにこしながら彼女なりの褒め言葉をくれた。

「そりゃどうも・・・。お褒めに預かり光栄でございます、姫。」

力ない俺の言葉を聞いて伊織は俺の背中をずりずりと這い上がってきた。
彼女の吐息が耳にかかる。

「何、もう疲れちゃったわけ?だっらしないなぁー。」
「そう思うならもうちょっと荷物を選んでも良かったんじゃないか?何入ってるの、あれ。」

俺はそう言いながら視線をバッグに移した。

「えーっと・・・洋服が大量に入ってるでしょ。あとはぬいぐるみに枕に・・・。」
「枕って何だよ?」
「私枕が変わると眠れないのよ!あとは・・・。」
「わかった、もう良い。」

他に何が入っているのか聞いたら二度と立ち上がれない気がして
俺は伊織の言葉を制した。
そんな俺の気持ちを無視するかのように伊織はこう言ってきた。 



「ね、散歩に行きましょうよ、散歩♪」
「重い荷物持ったんで疲れて体が動かないよ・・・。」

伊織は眉間にしわをよせ、むっとした表情になった。

「私の言うことが聞けないの?行くったら行くのよ!」

そんな表情の伊織も可愛い。
俺はちょっといじわるしたくなった。

「そうだなぁ〜・・・伊織なりの誠意を見せてくれたら行く。」
「誠意って・・・何よ?」

伊織は意味がわからず首をかしげている。
俺は伊織がベッドから落ちないようにゆっくりと仰向けになり、伊織の頬に手を当てた。
すると伊織も理解したらしく、頬が一瞬にして赤くなった。

「ちょ・・・何言ってるのよ?!」
「じゃあ一人で散歩してくれば?」

俺はニヤリと笑って伊織の顔を見つめた。
伊織はしばらく「う゛ぅ〜・・・。」と唸っていたが、観念したらしい。

「わかったわよ。そのかわり絶対一緒に散歩してよね?」
「約束する。」
「じゃあ・・・目、つぶりなさいよ。」

俺はゆっくりと目をつぶる。
伊織は俺に覆いかぶさるようにして唇を重ねた。

「ん・・・っ。」

その奇跡的なほど柔らかな唇の間から漏れる伊織の吐息に、
俺の胸の鼓動は張り裂けんばかりだった。
ベランダから吹き抜ける風が頬を撫ぜる。
短くもなく長くもないキスの後、伊織はゆっくりと唇を離した。
俺が目を開けると伊織はぽーっとした表情でこちらを見つめていた。

「これで・・・良い?」
「うん、元気出たよ。ありがとう。」
「じゃあさっさと準備しなさいよね!ったく・・・。」

そう言うと伊織はぷいっと顔を逸らしてベッドからおりた。
俺はきしむ体に鞭を打って上半身を起こすと靴を履いた。
その様子を伊織は横目でじっと見ている。

「じゃあ行こうか。」
「・・・うん。」

立ち上がった俺の右手を伊織はそっと握り締めた。



ホテルを出た俺たち二人は「プロムナード・デ・ザングレ」と呼ばれる遊歩道を歩いていた。
海岸沿いにおよそ3.5キロほど続くこの道はニースの一大観光スポットとなっている。
言われてみれば確かに、どこを見ても観光客が大勢いた。
ただ、まだ若干寒いからか水着姿の人はぽつぽつとしか見受けられない。
全てがものめずらしく、キョロキョロしている俺を見て伊織が言った。

「もっと落ち着きなさいよねぇ。まったく、近くにこんな素敵なレディーがいるんだから。」
「え?すてきなれでぃーどこ?」

俺はわざと棒読みするように言った。
伊織はブーツのかかとで思いっきり俺の右足小指を踏みつけた。

「いっ・・・!!!」
「天罰よ。」

あまりの痛さに足を押さえる俺を無視して伊織は冷たく言い放った。

「冗談もわからないのかよ、お前は・・・。」
「おあいにく様、そんな下品な笑いのセンスは持ち合わせてないわ。」

伊織は俺を置いてすたすたと歩いていく。
俺はなんとか立ち上がり、足を引きずりながら後を追う。
しばらく道を歩いていると伊織は何かを見つけたらしく、小走りで波打ち際へと走っていく。
その場所に着くとこっちに背中を向けてしゃがみこんだ。

「何見つけたんだろう・・・?」

気になった俺は伊織の背後から近づいていった。
伊織はじっと動かない。

「伊織、どうした?」 



肩越しに伊織が見ている物を確認しようとする。
するとゆっくり伊織は振り返り、右手のひらに乗せたそれを見せてくれた。
それは綺麗な虹色に光り輝く貝殻だった。
それも二つ。
俺はその片方を手に取ると目の前に持ってきて、その色の変化を眺めた。
普通に見ればただの白い貝だが、ほんの少し角度を変えるだけで色の変化が起きる。

「綺麗だな・・・これ。」
「それ、あんたにあげるわ。」
「本当に?」

伊織は小さくうなづいた。

「一つずつ持っていればどちらかが無くしても大丈夫だし、
あんたが欲しそうに見てるから・・・。」
「ありがとう、伊織。これ大事にするよ♪」
「あ、当たり前よっ!
私からのプレゼントなんだから大事にしなかったら罰が当たるんだから!」

そう言うと伊織は勢い良く立ち上がり海を見つめた。
俺はポケットの奥にしっかりと貝を押し込むと伊織の側へ歩み寄った。
日本でもお目にかかれないほどの青々とした海が視界いっぱいに広がっている。
水面できらきらと反射する陽の光が目の奥を強く刺激する。
ふいに伊織ははいていたブーツを脱いで、
何を考えたか足首まで浸かる深さまで海の中に入ってしまった。

「え?!おい、伊織?!」

俺の言葉をよそに伊織はスカートのすそを両手で持ち、その場でくるくると回ってみせた。
白いスカートに伊織の細く長い足のシルエットが浮かび上がる。
逆光で光り輝く彼女の姿が一瞬ここが海辺ではなく、いつものステージのように錯覚させる。
俺はしばらくその光景に見入ってしまった。

「ねぇ、あんたも靴脱いでこっち来なさいよ♪」
「え?俺も?」
「そうよ!」

伊織は水を跳ね上げながらかけより俺の手を引っ張った。

「ちょっと・・・ちょっと待てって!」

俺は慌てて履いていた革靴と靴下を同時に脱ぎ捨てた。
その時バランスを崩してしまった俺は前のめりによろめき、
そのまま海の中へと頭から突っ込んだ。

バッシャーン!!

派手な音がした直後、何重にもゴボゴボという音が重なりあい俺の耳の中へと押し寄せてきた。
俺は慌てて立ち上がった。

「っぐ・・・げほげほげほっ!!」

海水が気管に入り思わずむせる。
顔を滴り落ちる水を両手で拭うと息を整えつつ伊織を振り返った。
伊織は気まずそうな顔でこちらを見ている。
まさか自分のせいで俺が海水にダイブするなんて考えてもみなかっただろうからな。
俺は海から上がり、着ていたジャケットをまるで雑巾のように絞った。
伊織は恐る恐る顔をのぞいてくる。

「だ・・・大丈夫?」
「大丈夫そうに見えるか?」

俺がそう答えると伊織は首を横にふるふると振った。
俺は視線を合わせず思いっきり力を込めて水を絞り取った。
ある程度絞り終わったところで最後の水を弾くようにジャケットをぱたぱたと上下に振る。
伊織は取り繕うように言ってきた。

「み、水も滴る良い男じゃない?ね?」

俺はふっと鼻で笑うと伊織のほうをくるりと向いた。
伊織は思いっきり引きつった笑顔で俺の顔を見ている。
俺もとびっきりの笑顔を返し、次の瞬間伊織の体をお姫様だっこするかのように抱き上げた。

「え?!ちょっと何するのよ?!」
「お前も入れっ!!」

言い終わるより早く俺は伊織を海の中へ投げ捨てていた。

バッシャァァーーーン!!!

これまたド派手な音を立てて海面が波打つ。
白く泡立つ波間で伊織は勢い良く海面に飛び出てきた。

「水も滴る良い女、だろ?」

俺は皮肉たっぷりに言い放った。
伊織は両手を顔の前まで挙げて自分の濡れた体を見回した。
そして俺の顔を睨みつけると大声で怒鳴った。

「この服どうしてくれんのよっ、この馬鹿!!」
「その言葉そっくりそのまま返してやろうか?」

その言葉を聞いた伊織は「ぐぅ」と小さな声を出して嫌そうな顔をしてみせた。
そして観念したのか大きくため息をついて言った。

「わかったわよ、私が悪かった・・・。」

半ばふてくされるようにして言うその姿が妙に可愛かった。
俺は伊織の手を優しく握った。

「お互い様だな。このままじゃ風邪引くからとりあえず一度ホテルに戻ろう。」
「うん。」

俺は自分の靴と伊織のブーツを手に取ると裸足のまま来た道をホテルへと引き返した。 





俺は上半身裸になったままベランダで財布と水浸しになったフランス紙幣を乾かしていた。
紙幣が風に飛ばされないように部屋に置いてあった聖書をその上に乗っける。
伊織はというと風邪を引かせないように先にシャワーを浴びさせている。
海風が俺の体を包み、一瞬にして体の表面温度を奪っていく。
背筋を寒気がぞくぞくと這い上がってくる感触に思わずくしゃみが出た。

「はっくしょん!!・・・っ、寒いな・・・。」

俺がベランダと部屋の仕切りのドアを閉めるとバスルームから伊織の声が聞こえてきた。

「大丈夫?寒いんじゃないの?」

俺は鼻水をすすり上げながら答えた。

「ちょっとな。できることなら早くシャワー浴びたいんだが・・・。」

寒気を鎮めるように両方の二の腕を手のひらでさすってマッサージする。
すると伊織はとんでもないことを言ってきた。

「あ、あんたも一緒に・・・入る?」

バスルームのドア越しになぜだか照れた伊織が見えた気がした。
そして男なら当然伊織の裸を想像してしまう。
俺ははっと理性を取り戻し邪念を取り払うように自分の頬を一発平手打ちした。
いかんいかん。
俺は平静を装うように答えた。

「気持ちはありがたいけど、もう少し我慢できるから。」

その言葉とは裏腹に再び俺はくしゃみをした。

「ほらぁ、やっぱり寒いんじゃない!」
「わかってるけど・・・やっぱり一緒はまずいって。」
「・・・何でよ?」
「だって伊織はアイドルで俺はプロデューサーだろ?」

一瞬の沈黙。
だが、すぐさま伊織の返事が返ってきた。

「あんたは私の・・・その・・・恋人でしょっ!」

そう言われればそうだが・・・。
俺は悩みに悩んだ。
伊織の言葉に甘えて一刻も早く暖かいシャワーを浴びるか、それともここは我慢しておくべきか。
そうしている間にも俺の体の表面温度は下がっていく。
気が付けば全身を鳥肌が覆っていた。
背に腹は変えられないと俺は腹をくくった。

「じゃあ入るよ。そのかわり、ちゃんとバスタオル体に巻いておけよ?」
「わかってるわよ。早く入りなさいよね。」

俺はバスルームのドアを開けて脱衣所へと入った。
曇りガラスの向こうにぼんやりと伊織の姿が見える。
やけに体の色が白いのはきちんとバスタオルを巻いているからだろう。
俺は肌にくっついてなかなか離れないジーンズをやっとの思いで脱ぎ捨てた。
それを備え付けの籠の中へと投げ込む。
ふと、その隣にもう一つ籠があることに気づく。
そこには伊織の着ていた濡れた服が入っていた。
白いスカートの下に白いキャミソールが丁寧にたたんである。
そして・・・籠の底にほんの少しだけはみ出ている薄い水色の生地があった。
まさか・・・。
思わず「ごくり」と湧き出る大量の唾を飲み込んだ。
俺は再び自分の頬を一発平手打ちした。
着ていたものを全て脱ぎ捨て、腰にバスタオルをしっかりと巻く。

「じゃあ入るぞ?」
「うん。」

俺はゆっくりと浴室への扉を開けた。
浴室の中は結構広く、
シャワーだけでなく奥のほうには大人三人は入れそうな大きなバスタブが完備されていた。
ふと気が付くと目の前に伊織が立っていた。
体は指示したとおりバスタオルを巻いて、頭にも髪の毛をまとめるためにタオルが巻いてある。
濡れて肌に吸い付くようにくっ付いている後れ毛がやけに色っぽく見えて、
俺の胸の鼓動は一瞬にして加速した。
伊織はシャワーから出るお湯の温度を手で確かめると、そのノズルを俺に差し出してきた。

「多分熱くないと思うけど・・・。」
「ありがとう。」

俺がそれを受け取ると伊織はくるっと振り向き、バスタブの中へと入ってしまった。
俺は頭からシャワーを浴びると体中に満遍なくお湯をかけ続けた。
伊織は俺の一挙手一投足をじっと観察するように見ている。
正直気が気でならないのだが、そこはあえて何も言わないことにした。
ある程度体が温まると俺は近くにあった風呂椅子を引き寄せそれに座り、頭を洗い始めた。
するとしばらく黙っていた伊織が話しかけてきた。

「あのさ・・・さっきはごめん。悪かったわよ。」
「次俺を海に引きずりこむときは真夏にしてくれよな。」
「わかってるわよ!ただ・・・。」
「ただ・・・何?」

俺は洗面器に溜めたお湯でシャンプーを一気に洗い流しながら尋ねた。

「ただ、あんたと遊びたかったの!」

俺はシャワーの蛇口をひねりお湯を止めた。
そして濡れた髪をかきあげながら伊織のほうを振り向く。
伊織は口から下をお湯の中に入れてぶくぶくと、まるで蟹のように泡を立てていた。
その姿がどこか滑稽で、思わず笑みがこぼれた。

「俺も入って良い?」 



伊織はためらいもせずこくんと頷き、俺が入れるようにスペースを作ってくれた。
俺はそこへ片足ずつ入るとゆっくりとお湯の中に身を沈めた。
丁度良いお湯の温度がじんわりと俺の体を温めていく。
俺口から思わず「はぁ〜っ。」とため息が漏れる。
そんな様子を見て伊織はぼそっと言った。

「おやじ臭い・・・。」
「悪かったな、おやじ臭くて。」

その後しばし無言の時間が続いた。
そして俺は思い出したように問いかける。

「そういえば、どこに行きたいんだっけ?」
「そうね〜。やっぱりこの時期だと花のカーニバルやってるから必ずそれは見たいし、
ニース現代美術館も捨てがたいわねぇ。」
「ふーん。」
「でもやっぱり一番行きたいのは・・・城跡かしら。」
「城跡?なんか伊織らしくない場所だな。」
「失礼ねっ。・・・でもそこからの見える景色は本当に素敵なんだから。憧れちゃうわぁ〜♪」

ここまで事前に調べているとは思ってもみなかった。
伊織は本当にここ、ニースに来たかったんだなと改めて実感し、連れてきて良かったと思った。

「じゃあ明日は一緒に一日中ニースを歩いてめぐるか。」
「うん、約束だからねっ♪」

そう言うと伊織は右手の小指を差し出してきた。
どうやら指きりげんまんをしたいらしい。

「はいはい、約束な。」
「約束破ったらひどいんだから。にひひっ♪」
「わかってるよ。」

そう言って俺は伊織の小指に俺の小指を絡ませた。





次の日、ニースの空は雲一つ無く見事な快晴となった。
朝食を済ませた俺たちは身支度を整えていた。

「ねぇこれ似合う?」

伊織の問いかけに振り向くと、彼女はつばの広く大きい白い帽子を被っていた。
彼女はその場で見せ付けるようにくるりと一回転してみせる。
嬉しそうにしているのと、前に見た記憶がないことから
おそらくこの旅行のために購入したものだと考えられる。
正直かなり似合っている。

「うん、すごく似合ってるよ。」
「ほんと?」

伊織は不安そうな顔で見つめてくる。
俺はその不安を取り払うかのように笑顔を見せた。

「本当だよ。今日の伊織は一段と可愛い。」

伊織の頬が段々と赤くなっていくのが見て取れた。
伊織は帽子のつばを引っ張り、無理やり顔を隠して言った。

「あ、ありがと。あんたが言うなら信じてやっても良いわよ。」

俺は帽子の上から頭を軽く撫でた。

「さ、行こうか。」

伊織は帽子をきちんと被りなおすと俺の左腕に腕を絡ませてきた。

「今日はちゃんとエスコートしてよね?」
「精一杯エスコートする。しっかり俺についてこいよ。」

伊織は小さく頷いた。
そして俺たちは荷物を部屋に残し、観光へと出発した。
一応予定としては午前中をニース現代美術館で過ごし、
午後に花のカーニバルを見た後城跡へと行くことにしてある。
これは昨夜伊織と一緒に考えたプランだ。
もし時間が余れば他にあるマティス美術館やシャガール美術館にも立ち寄ることができる。
まず俺たちは予定通りニース現代美術館へとやってきた。
入り口で入場料金の八ユーロ払い中へ入る。
正直俺はあまり芸術には興味が無いのだが、
ここはそんな俺でも虜にさせるような作品が多数展示してあった。
壁から飛び出ている無数の金属のオブジェクト。
ガラスに描かれた躍動感溢れる人物画。
赤青黄色の三色のみで描かれた模様。
どれもが見てて歓心させられた。

「この模様・・・新しい衣装のデザインの参考になるかも。」

そんな風につぶやく俺の傍らで伊織はつまらなそうだ。
俺がとある絵の前でじっとそれを鑑賞していると伊織はこう言った。

「ねぇ、早く次のところに行くわよ。」
「次のところって・・・そんなに焦らなくても大丈夫だろ?」

腕時計を確認すると、美術館に入ってまだ三十分しか経っていなかった。
しかし、それでも伊織はここを離れたがった。
絡めていた腕を必死になって引っ張ってくる。
ふと昨日の海岸でのことがフラッシュバックした。
このまま引っ張られて転び、もし展示されている絵に激突してしまったらえらいことになる。
今度はさすがに濡れるどころの騒ぎじゃなくなる。
俺は素直に伊織のわがままを受け入れることにした。

「わかったわかった、だからそんなに必死に引っ張るのはやめような。」 



その言葉を聞いて伊織は力を緩めた。
そして嬉しそうに笑った。

「ほんと?にひひっ、今日は聞き分けが良いわね♪」
「それで、次はどこに行きたいんだ?」
「そうね〜・・・お腹減ったからどこか素敵なレストランが良いわ。」
「レストランか・・・。じゃあ道を歩きながら探してみようか。」
「じゃあそれで決まりねっ!」

そう言うと伊織は出口のほうへ軽やかに駆けて行った。

(変な奴。自分で来ようって言ったのになぁ。)

俺はどこか納得いかない顔でその後姿についていった。
美術館を後にした俺たちはニースの町並みを眺めながらレストランを探していた。
今日はどこか街中が活気に溢れていた。
ところどころ家の前には花で創られた大きなオブジェが置かれている。
そういえば花のカーニバルをやっているということを伊織が言っていたか。
街中に漂う花の香りが間もなく訪れる春をいち早く教えてくれているように思えた。
美術館を出た後の伊織は機嫌も直り、朝よりもより強く腕を絡ませてくる。
俺は自分達がどこにいるのかを調べるために道端で立ち止まり、
ウエストバッグからこの周辺の観光地図を取り出した。

「ごめん、ちょっと腕離してもらって良いか?」
「あ、ごめん。」

伊織は慌てて腕を離した。
俺は折りたたまれている観光マップを新聞を読むかのように大きく広げた。
周りに見える建物と地図に記載されている建物を見比べる。
ふと伊織に視線を戻すと彼女はつまらなそうに俺の近くをぶらぶらしている。
再び地図に視線を戻した瞬間、突如として突風が吹き荒れた。
そのいたずらな風は俺の持っていた地図を空高く舞い上げた。

「あ!!」

俺は慌ててその地図を追いかける。
空に舞い上がったそれはまるで俺をあざ笑うかのように、届きそうで届かない高さを飛んでいる。
無我夢中で追いかけていると風はいたずらに飽きたかのように吹くのを止め、
地図を目の前に落としていった。
俺はそれを拾い上げると付いた埃を手で払い落とした。
そして後ろにいるはずであろう伊織を振り返る。
・・・だが、彼女はどこかへと消えていた。



時は少し、ほんの少しだけさかのぼる。
私は地図を穴が開くように見ているプロ・・・あいつの邪魔をしないように離れた。
なんだかとてもつまんない。
美術館に行ったのは良いけど絵の良さなんて全然わかんないし、
それに思わぬ誤算であいつのほうが絵にのめりこんじゃってるし。
この私を差し置いて・・・。
まるで眼中にないかのような扱いされるのはごめんなのよ。
それで無理やり美術館を出てきたってわけ。

(なんかつまんない・・・。)

せっかくお洒落してきたっていうのにあいつは面白くない絵に、そして今は地図に夢中。
私はふらふらと歩き始めた。
するとその時海から吹き寄せてきた突風にあおられ私の帽子が路地裏へと飛ばされてしまった。

「あっ!」

私は慌てて帽子を追いかけていった。
帽子は建物と建物の間をグライダーが滑空するかのように飛んでいく。

「ちょっと、待ちなさいよっ!!」

その言葉に反応するかのように風は止み、帽子も路上へと力なく落ちた。
私はつかつかと歩み寄り、帽子を拾うと埃を取り払った。

「ほんっと、迷惑な風。ねぇそう思わない?」

私は地図を見ているはずのあいつに問いかける。
返事は無い。
おや?と思い路地裏から彼がいるはずの通りへと戻る。
しかし、そこには誰の姿も無かった。
遥か遠くから「ヴォー・・」と船の汽笛が虚しく聞こえてくる。

「あ、あれ・・・?ちょっと、隠れてないで出てきなさいよ!」

私は他の路地裏をくまなく探した。
家の門のうら、樽のかげ、柱の裏。
しかし、どこにもあいつの姿はなかった。

(落ち着くのよ私。大丈夫。)

私は状況を確認した。
フランス語は喋れない。
地図なんて持ってない。
お金は全てあいつが出してくれるから持ってない。
あるのはお気に入りのピンクのハンカチと最強の美貌、そして持ち前の明るさだけ。
・・・最悪な状況だ。
私は迷子に、しかもよりにもよってフランスという異国の地でなってしまった。

「みゃ〜・・・。」

私の目の前を黒猫が横切っていった。
孤独さに耐えかねて思わず話しかけてしまう。

「ね、ねぇあんた。私の・・・その・・・彼氏、知らない?」

黒猫は顔だけ振り向いて立ち止まり、眠そうにあくびをするとどこかへと消えていった。

「・・・はぁ・・・何やってんのよ私。」

私は肩を落としてがっくりうなだれた。
まずはあいつを探さなきゃいけない。
私は顔を上げて目の前に続く道を歩き始めた。 





俺はさっきまで伊織がいたはずの通りまで戻ってきた。
前後を何度も振り返ってみるがどこにも伊織の姿は無い。
なぜ伊織が消えたのか・・・?

(もしかして・・・誘拐か?)

伊織は性格はともかく見た目はかなり可愛い。
丹精な顔立ち、キュートな笑顔、さらさらのストレートヘアー。
もしフランスにも変質者がいるとしたら誘拐しないわけがないだろうと思った。
俺の背筋を冷たい汗が流れ落ちる。

「冗談じゃない・・・。伊織!!おーい、返事しろ!!!」

俺は思いっきり力の限り叫んだ。
だがいくら待っても返事がない。

「伊織ーーーー!!どこだ伊織ーーーーっ!!!!」

するとその声を聞きつけて通りに面する家の二階から初老の女性が顔を出してきた。

『ちょっとうるさいわよ!静かにして!』

この日のために伊織に無理やりフランス語講座を受けさせられていた
俺は地元の人に尋ねてみることにした。

『すいません。あの、この付近で女の子を見かけませんでしたか?
白い帽子を被ってて茶色のロングヘアーなんですけど。』
『女の子?さぁ見てないわね。』
『そうですか。ありがとうございます。』

うまく話せたことは良かったが、肝心の伊織の手がかりはなかった。
俺はぺこりと頭を下げるとさらに美術館へと戻る道を歩き始めた。
もしかしたら美術館に戻っているかもしれないと考えた。
いくら伊織とはいえ見知らぬ土地でそう下手に動いたりはしないだろう。
俺はいつしか早足から駆け足になり、そして全力で走っていた。

(伊織だって不安なはずだ。絶対に見つけてみせる。)

俺はそう信じて疑わなかった。



「か〜わ〜い〜い〜♪こんなにかわいいアクセサリーは
日本じゃなかなかお目にかかれないわねぇ♪」

私はとある路地裏に開いていた小さなお店の中にいた。
小ぢんまりとした店内には貝殻や珊瑚で作られた可愛いアクセサリーが数多く並んでいる。
どれも私の心をくすぐる逸品だらけだ。
その中でも特に気に入ったのが、白い貝殻を葉っぱの形に削ったペンダントをつけたネックレス。
私はそれを手に取った。

「ねぇ、これほしい。買ってくれる?」

そう言ってあいつのほうを振り向く。
だけど・・・あいつはいない。
私は自分の置かれた状況を思い出して、心が虚しくなった。
手に取ったネックレスをゆっくりと元の場所へ戻す。

(私を置いて・・・あの馬鹿どこにいるのよ・・・。)

私はため息をつきながら店を後にした。
今や自分がどこにいるのか皆目検討もつかない。
あいつに任せて歩いていたからホテルへ戻る道も、美術館へ引き返す道もわからない。
とりあえず坂道を下っていくことにした。
そうすればいつかは・・・いつかどうなるのだろうか?
入り組んだ町並みを見下ろす。
複雑に入り組む通りと葉脈のように広がる路地はまるで出口の無い迷路のように見えた。

「どこに行けば良いのよ・・・。ねぇ、誰か答えなさいよ。」

答える者などいないのはわかっている。
でもそう言わなければ自分の心がたやすく折れてしまいそうだった。

「とにかく・・・あの馬鹿が見つけてくれるのを祈るしかないわね。」

私は再び坂道を下り始めた。
歩き始めてほどなくして広い通りに出た。
先ほどまで歩いていた場所とは違ってやや人通りも多い。
通りは左右両方にずっと長く続いている。

「どっちかしら・・・。どっちに行っても同じような気がするんだけど・・・。」
「みぁ〜。」

すると目の前をさっきの黒猫が横切っていった。
伊織はその猫の動きを首だけ動かしてじっと見つめる。
黒猫はゆったりとした足取りで通りを右へと歩いていく。

「・・・あんたが右なら私は左。」

私はそう言うと通りを左へと歩き出した。
黒猫はその場にちょこんと座ってこっちをじーっと見ている。
その視線に気づいた私は半身振り返る。
相変わらず猫は微動だにせず見つめてくる。

「な・・・何よ?こっちに行くのに何か文句でもあるわけ?」

すると猫は立ち上がり、再び道を歩き始めた。
そして八百屋の脇から続く路地裏へと再び姿を消した。

「変な猫ね・・・。」 





美術館の出口にはがっくりうなだれる俺の姿があった。
急いで戻ってきて、中をくまなく探したというのにどこにも伊織の姿はなかった。

「はぁ〜・・・。」

思わず大きなため息がもれる。

「本当に・・・どこ行ったんだよ伊織・・・。」

フランスというまったく未知の国で彼女は一人ぼっちになっている。
きっと今頃は孤独と不安でその小さな肩を震わせているはず。
だが、伊織の性格から考えて見ず知らずのフランス人相手でも威圧していそうな気もする・・・。
それはそれで危険なことこの上ない。
早く探し出さなければいけない。
美術館でなければホテルに帰っている可能性もある。
俺はその一縷の望みにかけることにした。



お腹がさっきから鳴りっ放しだ。
そういえばあいつと一緒にレストラン探してたんだっけ・・・。
通りをとぼとぼと歩いていると鼻をくすぐる香ばしい香りを感じた。
私が左に視線を移すとそこにお洒落なオープンカフェが店を開いていた。
通りに多少はみでるように置いてあるテーブルの上で、
幸せそうなカップルがおいしそうに食事をしていた。
彼女の方がおもむろにドリアをスプーンですくうと彼氏の口元へ持っていく。
彼氏は大きく口を開けてそれを食べると二人は見つめ合って楽しそうに微笑みあう。

「お腹すいたぁ〜・・・。」

空腹のせいで私の機嫌は徐々に悪くなっていく。

「もう、何で私がこんな目にあわなきゃいけないのよっ!!これも全部あいつが悪いんだわ!!
 私を勝手に一人にして置き去りにして!!もう、最悪っ!!!」

私は行き場の無い怒りを今隣にいないあいつへ向けてぶつけた。
ほんの少し気持ちがすっきりした後、心を多い尽くす虚無感。
そのあまりの辛さにその場にいられなくなった私はまた通りを歩き始めた。
気が付けば足も段々痛みが増してきている。
こんなに歩いたのはかなり久々だった。
ふと、遠くから何やらにぎやかな音が聞こえてくる。
私は帽子のつばを少し持ち上げてその音の出所を確認する。
進む通りの先に何やら人垣ができている。
そして、その人垣の向こうを何やら派手に飾り立てた大きなオブジェが練り歩いている。

「もしかしてあれが花のカーニバルなのかしら・・・?」

私は人垣の合間を縫って、カーニバルが一番良く見えるように前へ出た。
そして思わずその光景に息を呑んだ。
数多くの、それも色とりどりの花で飾られた台車が数十台も並んで行進している。
その上には着飾った美しい女性が乗っており、観客に向けて花びらをばらまいている。
それはあたかもこの季節に遅れてやってきた雪のように軽やかに舞い、
地面が見えなくなるほどに敷き詰められている。
以前お忍びであいつとディズニーランドに行ったことがあったけど、
あのパレードに勝るとも劣らないほどの豪華さを感じる。
そう、そこだけまるで別世界に存在するかのように色も、香りも、空気そのものが違った。

「綺麗・・・。」

私の口からはもうそれ以上の言葉が出てこない。
パレードに見とれているとふいに車の上に乗った女性と目が合った。
するとその人はにこっと笑い、小さな花束を私に投げてきた。
それを見た他の観客が花束を取ろうと手を伸ばしてくる。
だが、花束はまるでその手の間をすり抜けるようにして私の手の上へと落ちてきた。
今まで嗅いだことの無い、心を溶かすように甘い香りが私の周りを包んでいく。
不思議と不安や辛い気持ちが消え去り、私は体が浮き上がるような高揚感に満たされていた。

「お姉さん、ありがとーー!!」

私はとびっきりの笑顔で車上の女性へと手を振った。
その人はまたにこっと笑い小さく、可愛く手を振って答えてくれた。
まるで夢の中にいるかのような時間はあっという間に過ぎ、
我に返った時にはもうカーニバルははるかかなたへと消えていた。
私はその余韻を味わうかのように、
両手で花束をぎゅっと握り締めしばらくその場にじっと立っていた。

「みゃ〜。」

どこからか聞き慣れてた鳴き声が聞こえてきた。
私の視界の片隅を三度あの黒猫が歩いていく。
私は「またあんたなの?」と呆れた表情でその左右に揺れるしっぽを見つめた。
・・・ふと、その猫の行き先にとある建物が見えた。
どこかで見たことがある。
私は必死に記憶の糸を手繰っていく。
そしてまるでシャンパンの栓が勢い良く抜けるように思い出した。
思わず私は大声で叫んでいた。

「あーーーーっ!!!あそこはっ・・・!!!」 






陽が大分傾く中、俺はホテルの部屋にいた。
未だに伊織の消息は不明。
このまま見つからないとなるととんでもないことになる。
変質者に連れ去られてなければ良いのだが、もし外にいたとしても危険なことに変わりない。
この季節は陽が落ちてしまうと急激に寒くなり、下手すれば・・・。
そんなことを嫌でも考えられずにいられなかった。
陽が落ちたら警察に連絡しなければ。
そう思いつつベランダから外を眺めた時だった。
夕陽に照らされる海岸の隅に公園とそれに隣接する高い建物が見えた。

「あれは・・・なんだろう?」

俺はウエストバッグから地図を取り出し方角を合わせると、地図と風景を重ね合わせた。
伊織と散歩した道を海岸沿いに歩くのではなく逆方向へ行くと・・・。
指で地図上のその道をなぞっていく。
そしてさっきの建物の場所が重なる。
地図に書かれているその場所は・・・

「城跡・・・?」

その瞬間、頭の中をあのバスタブでの会話が駆け巡る。

『でもそこからの見える景色は本当に素敵なんだから。』

次の瞬間にはもう部屋を駆け出していた。
なんの根拠も無い、ただバスタブで伊織と交わした会話。
それだけで俺が走るには十分な理由だった。
理屈よりも本能と第六感が俺に「行け!」と命じている。
そして何より俺は伊織を信じている、愛している。

「うわっ!!?」

道から突き出た石につま先がひっかかり、俺は派手に転んだ。
前のめりに道へダイブしたが、次の瞬間にはまた再び走り始めていた。
頭がズキズキと痛む。
手のひらにはざらざらした砂と生ぬるい液体の感触がある。
だが、そんなことはどうでも良い。
これは伊織を一人にした俺への罰だと理解した。

(伊織を見つけるためだったらどんな罰でも受けてやるよ!)

俺は家路を急ぐ人々の間をすり抜けて城跡へと向かう。
途中幾度となく車に轢かれそうになったが、
なんとか切り抜け城跡まであともう少しというところへ来ていた。
ふと視線を城跡に向ける。
すると、ほんの少しだけ白い何かが動くのが見えた。

(伊織・・・?!)

俺は城跡へと続く坂道を一気に駆け上がる。
すでにどのくらい走り続けただろうか。
俺の脚は確実に限界が来ていた。
ふとももの筋肉は悲鳴を上げ、ふくらはぎは痙攣を起こしそうなほど硬くなっている。
もう少し、もう少しだと自分に懸命に言い聞かせる。
そして・・・ようやく坂道を上り切った俺は膝を抑えて大きく肩で息をした。
やっと運動を止めた体中をじんわりと酸素が流れていく。
徐々にではあるが使い果たしたスタミナも回復しつつあるようだ。
俺は上体を起こし再び歩き出した。
どうやら見た限りではこの城跡は公園と展望台の二つでできているようだ。
伊織ならどこに行くか・・・。
俺の考えはただ一つ。

「伊織ならきっとこの中だ。」

俺は展望台の中へと入っていった。
入り口に入ってすぐのエレベーターのボタンを押す。
しばらくして到着したかごに乗り込み、最上階へと向かう。
動き出してほんの数秒で到着したらしく、かごの動きがゆっくりになる。
チーン!という音と共にドアが開いた瞬間、夕陽のまぶしい光が目に飛び込んできた。
思わず俺は右手でその光をさえぎる。
見た限りでは展望室に人はいないように思えた。
ただ、フロア中央に大きな柱があったのでその後ろが見えない。
俺はゆっくり歩いて柱の裏側を確認しようとする。
・・・すると、そこには白い帽子を被った綺麗な女の子が夕陽を眺めていた。
間違いなかった。

「伊織・・・?」

俺の問いかけに彼女はゆっくりと振り向く。
俺の顔を見た瞬間伊織は驚いて叫んだ。

「ちょっと、あんたその頭どうしたのよ?!」
「は?」

俺は右手で額をぬぐい、手のひらを見てみた。
そこにはべっとりとおびただしい量の血がこびりついていた。
そういえばさっきから頭痛がひどい。

「あはは・・・全然気が付かなかったよ。」

俺は苦笑いを浮かべて答えた。
伊織は小走りで俺に近づいてくると床を指差して言った。

「いいからちょっとそこ座って!」

俺は素直にその場に座った。
今になって転んだ時の傷がひどく痛む。
左手の手のひらも結構大きな傷ができていた。
伊織はポケットからハンカチを取り出すと、
その場に膝立ちになり俺の額の傷口にそっとそれを当てて止血してくれた。

「大丈夫・・・?痛い?」

彼女は不安そうな顔で尋ねてくる。
俺は無言で頷いた。
すると急に彼女は怒りの表情を浮かべ怒鳴りつけてきた。 



「・・・あんたよくも私を一人きりにしてくれたわね!?一体何様のつもりなのよ!!」

俺は驚いて目を丸くした。
慌てて飛び出てくる言葉を制止しようとするが間に合わない。
伊織はさらに罵声を浴びせてくる。

「ほんと、あんたのせいで行きたい場所も全然行けなかったし、
お腹はぺこぺこだし、どうしてくれるのよっ!!
 私は言ったわよね?何かあったら三秒で駆けつけなさいって!!
約束したはずなのにあんたはいつもそう!!
 どうしてそういつも私を不安にさせるのよ!?
どうしていつも私を一人にするのよ!!どうして・・・どうして・・・。」

いつしか伊織の目から大粒の涙が零れ落ちていた。
その涙は俺の心をきつくきつく締め上げた。
伊織は普段強がっているけど、やっぱり女の子なんだと改めて実感した。
繊細な心の裏側ではいつも不安を抱えている。
ましてや今回は見ず知らずの土地でずっと一人だったからより強く不安を感じたに違いない。
俺は両手に付いた血をジーンズでこすりつけると伊織をそっと、優しく抱きしめた。

「ごめん・・・。」

俺の頭の中にはこの言葉しか思いつかなかった。
その言葉を聞いた伊織は俺の首に手を回し、力いっぱい抱きしめてきた。

「あんたなんか大っ嫌い!!大っ嫌いなんだからっ!!」

俺は小さく何度も頷いた。
尚も流れ続ける彼女の涙が俺のシャツを濡らす。
夕陽は今まさに沈もうとしているところだった。



陽が沈み夕闇が迫る頃、俺たちは展望台を後にした。
俺は痛む脚を引きずってなんとか歩いていた。
伊織は俺のほんの少し先をゆっくり歩いている。
あの後から伊織は一言も口をきいてくれない。

(こりゃ本格的に嫌われたな・・・。)

俺はため息さえつけないほど落ち込んでいた。
このままホテルに戻っても気まずいのは目に見えていた。
どんな罰でも受ける・・・と思ったが実際伊織に無視されるのだけは辛すぎる。
恋人解消まで覚悟した。
俺は逃げるように海岸へと続く坂道を下り始めた。
坂道を半分下ったところで後ろから右手を握り締められた。
半身振り返ると伊織がふてくされた顔で立っている。
彼女は視線を合わせようとしないまま言った。

「今日一日寂しい思いさせたんだから・・・手くらい繋ぎなさいよね・・・。」
「でも血が・・・。」
「私が繋げって言ってるから良いのっ!」

そう言うと伊織は俺の手を引っ張って歩き出した。
その時だった。

ヒュルルルルル〜・・・ドドン!

辺りを白金の光が照らし出し、次の瞬間轟音が地面を揺らした。
何事かと思い音のした方向へと視線をうつす。
すると海の上で花火が打ち上げられていた。
見ると海岸には大勢の人々が集まり、花火が夜空を彩るたびに拍手が沸きあがった。
極彩色のその光景に俺たちは立ち止まり見とれていた。

「素敵・・・。」
「あぁ・・・綺麗だな。」

伊織は俺の手を離すと近くの芝生の上に座って再び花火を見始めた。
俺は伊織の後ろに座り、いわゆるラッコ座りの形を取り伊織を抱きしめた。
伊織は何も言わず、ただじっと花火を見ている。

「約束守れなくてごめんな。」

俺が伊織の耳元で囁くと、伊織はちらっとこちらを振り返った。

「もう・・・一人にしないって約束できる?」
「約束する。」

そう言うと伊織は体重を俺に預けるようにくっついてきた。

「じゃあ許してあげる。」 



その時だった。

「あ・・・!あの猫!」

伊織が突然何かを見て叫んだ。
その視線の先を追うと、公園の片隅で黒猫と白猫が二匹仲むつまじく寄り添うように座っていた。
時々お互いの鼻をくっつけては幸せそうに目を細めている。

「あの猫もここに来るつもりだったんだ・・・。」

伊織は何か知っているようにつぶやいた。
そして嬉しそうに笑ってみせる。
その笑顔に俺の胸は高鳴っていく。

「伊織・・・。」
「ん?何?」

振り返った彼女の頬をそっと引き寄せ唇を重ねた。
ほんの数秒のキス。
ただそれだけのために今日があったように思えた。
ゆっくり唇を離すと伊織は照れくさそうに顔を花束で隠した。
甘い香りが俺の鼻をつく。

「その花束・・・もしかしてカーニバルでもらったのか?」
「うん。良いでしょ♪」
「運が良いな。その花束はめったに手に入らないんだよ。」
「ほんと?にひひっ♪まぁ私の美貌の前には花の美しさもかすんで見えるけどね〜。」

伊織はいつもの素敵な笑顔を見せてくれた。
そして体を反転させ、俺に抱きついてきた。

「でも、よく私が城跡にいるなんてわかったわね?」
「なんとなく・・・。伊織ならここに来るような気がして。」
「ふ〜ん・・・。」

伊織はしばらく黙った後、俺の胸の上で幸せそうに言った。

「あんたとなら・・・また一緒に来てあげても良いわよ。」

俺は頷くと優しくその繊細な体を抱きしめた。
満点の夜空の下、夜空に咲く花火が俺たちをいつまでも照らし続けていた。




完 

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